文学

三島由紀夫の総合研究

創立35年の老舗「三島由紀夫研究会」の会報を兼ねた、あらゆる角度からの総合研究メルマガ

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三島由紀夫研究会メルマガ(特別号、力作論文「三島由紀夫と橋家」40枚、一挙掲載)

2011/11/11

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 『三島由紀夫の総合研究』(三島由紀夫研究会 メルマガ会報)
    平成23年(2011)11月11日(金曜日)
       通巻第579号 
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「憂国忌」直前 記念特大号
 力作論文(40枚)一挙掲載!

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三島文学に先駆けた橋健行
                                        岡 山 典 弘
   

 はじめに

 三島由紀夫の祖父・平岡定太郎は、兵庫県印南郡志方村(現在の加古川市)の農家の出身で、福島県知事から樺太庁長官に抜擢されながら疑獄事件で失脚し、その後、いかがわしい取り巻き連の儲け話に乗せられて、山師的な仕事に手を染めたことはよく知られている。祖母の夏子(戸籍名なつ)は、徳川幕府の若年寄・永井玄蕃頭尚志を祖父とし、水戸の支藩である宍戸藩の藩主・松平頼位の流れを汲む名家の出身で、幼い公威を溺愛したことも周知のとおりである。

 しかし母方の橋家に言及したのは、浩瀚な三島由紀夫関連文献のうち、『三島由紀夫 文学の軌跡』(越次倶子)、『三島由紀夫の世界』(村松剛)、『三島由紀夫』(佐藤秀明)、『三島由紀夫を読み解く』(松本徹)などにとどまり、祖父・橋健三については、開成中学校の元校長とされるだけで、その人柄や事績が詳述されることはなかった。

 筆者は、橋家に焦点をあて、「三島由紀夫研究? 三島由紀夫と編集」(鼎書房)に『三島由紀夫と橋家―もう一つのルーツ―』を発表した。主として橋健堂、橋健三、橋健行の橋家三代の事績を探ったが、紙数の関係で紹介できなかったエピソードも多い。ここでは、そうした挿話も交えながら、橋健行の生涯を概観し、三島文学との関連を考えてみたい。橋健行は、三島の伯父にあたり、『仮面の告白』に「母の兄の博士」として登場する人物である。

 一.文学少年グループ「桂蔭会」

 橋健行は、明治十七(一八八四)年二月六日に金沢で生を享けた。
 父は漢学者の橋健三で、母はこう。健行は長男であった。翌十八年、健三は、こうと乳飲み子の健行を連れて上京する。一家は、小石川に居を構えた。二十一年、健三は共立学校(現在の開成高校)に漢文・倫理の教師として招かれる。こうが死去し、二十三年、健三はこうの妹であるトミを後妻に迎える。当時、健三は二十九歳、トミは十六歳、健行は六歳であった。健三とトミの間には、雪子、正男、健雄、行蔵、倭文重、重子の三男三女が生まれた。倭文重は、後に三島の母となる。
 学生時代の健行は、抜群の秀才として鳴らした。明治三十四年に開成中学を卒業し、一高、東大医科に進んで精神病学を専攻するが、常に首席であったという。健行の秀才ぶりは、同級生であった斎藤茂吉が次のように証言している。

  橋君は、中学でも秀才であつたが、第一高等学校でもやはり秀才であつた。大学に入つてからは、解剖学の西成甫君、生理学の橋田邦彦君、精神学の橋健行君といふ按配に、人も許し、本人諸氏も大望をいだいて進まれた。         
(『回顧』斎藤茂吉)
  
 西成甫(一八八五―一九七八)は、東京出身で、東大教授や群馬大学学長を歴任した解剖学者である。『人体解剖実習』『人体解剖学』『人体解剖図譜』などを著したほか、エスペラントの普及に尽力し、日本エスペラント学会理事長をつとめた。特筆すべきは、自らの遺骨を骨格標本として東大医学部標本室に残したことである。
 橋田邦彦(一八八二―一九四五)は、鳥取出身の生理学者で、実験生理学を提唱して、『生理学要綱』や『科学の日本的把握』などを著した。道元と中江藤樹に心酔し、禅、陽明学にも通じていた。東大教授や一高校長を経て、近衛内閣・東条内閣で文部大臣に就任し、「科学する心」という言葉を残す。戦後、橋田は、戦犯容疑で召喚される直前に服毒自殺を遂げた。遺書には、「大東亜戦争開始ニ際シ輔弼ノ大任ヲ拝シナガラ其責ヲ果シ得ザリシコトヲ 謹ンデ 皇天ニ対シ御詫申上グ 天皇陛下万歳 今回戦争責任者として指名されしこと光栄なり。さりながら勝者の裁きにより責任の所在軽重を決せられんことは、臣子の分として堪得せざる所なり。皇国国体の本義に則り?に自決す。或は忠節を全うする所以にあらずと云はれんも我は我の信念に従ふのみ。大詔渙発の日既に決せんと思ひしも、邦家の将来に向って聊か期するところあり忍んで今日に到り、敵の召喚をうけて時節到来せるを歓ぶ」と記されていた。巻紙に墨書した橋田の遺書は、鳥取県立博物館に収蔵されている。
 斎藤茂吉(一八八二―一九五三)は、開成中学の同級生・健行に二年遅れて医師となった。一高入試に失敗し、東大在学中にチフスで卒業延期となったためである。山形出身の茂吉は、粘り強い晩成型であったといえよう。

 健行は、早熟な文学少年であった。
 開成中学三年(十四歳)頃から文学グループを結成した。村岡典嗣をリーダー格として、吹田順助、健行、菅原教造、菊池健次郎、江南武雄、今津栄治、樋口長衛、新井昌平の九名で、「桂蔭会」と称して廻覧雑誌を作った。弁舌爽やかな少年たちで、住居が本郷を中心としていたことから「山手グループ」と呼ばれて、校内の注目をあびた。「桂蔭会」に入れない生徒たちからは、揶揄をこめて「竹林の七賢」と称された。いずれにしても「桂蔭会」は、周囲に大きな刺激と影響を与えた。触発された生徒のなかには、茂吉や辻潤がいた。
 吹田は、自伝『旅人の夜の歌』で「桂蔭会」を回顧している。

 彼らは、校庭の一隅にあった桂の木蔭で哲学を論じ文学を語った。紅葉、露伴、?外、上田敏、キーツ、バイロン、ゲーテなどを読んだという。村岡は、親戚の佐佐木信綱家で仕入れた文学知識が豊富で、正月には、村岡が選んだ「万葉百人一首」で歌留多を作って遊んだ。浅草の智光院で講演会や合評会を催したほか、房州めぐりの旅行作文会などを試みた。国文の教科書の一つが『土佐日記』であったことから、古典にも興味を寄せて、村岡は、しきりに「『八犬伝』が面白い」と仲間に薦めたという。

「桂蔭会」の村岡、吹田、健行、菅原は、後年、大いに名を成す。
 村岡典嗣((一八八四―一九四六)は、早大哲学科を卒業後、新聞記者をつとめながら『本居宣長』を上梓し、これが認められて広島高師教授、東北大教授を歴任した。『日本思想史研究』が名高く、『素行・宣長』『平田篤胤』を著したほか、『本居宣長全集』の編纂、林子平の『海国兵談』や山鹿素行の『聖教要録・配所残筆』の校訂などを手がけた。村岡は、宣長や篤胤を深く研究したが、三島は、神道のなかでもとりわけ平田の復古神道に関心を寄せた。小説では『鏡子の家』『奔馬』、評論では『《道義的革命》の論理』『葉隠入門』『革命哲学としての陽明学』などで篤胤に言及しており、三島は、変革を誘発する国体思想として「平田流神学から神風連を経て二・二六にいたる精神史的潮流」ととらえていた。

 吹田順助(一八八三―一九六三)は、東大独文科を卒業し、東京商大教授、中大教授などを歴任した。ヘルダーリンの研究家で、山岸光宣、茅野蕭々とともに「独文三巨匠」と称された。訳書にヘルデルリーンの『ヒュペーリオン』『ヘルデルリーン詩集』、ゲーテの『伊多利紀行』などがある。三島は、学生時代から吹田の訳書に親しんだ。昭和十八年四月、東文彦に宛てた書簡に「ヘルデルリーンの『ヒューペリオン』を買って」とあり、手塚富雄との対談『ニーチェと現代』では「戦争中、ヘルダーリンに夢中になって」と発言している。ヘルダーリンの影響は、三島の晩年にまで及び、戯曲では『魔神礼拝』、小説では『禁色』『絹と明察』で触れたほか、『潮騒』の自然描写は『ヒュペーリオン』の根本的な影響を蒙っている。さらに『アポロの杯』『小説家の休暇』『小説とは何か』などの主要な評論で言及したばかりか、自らヘルダーリンの詩『むかしと今』を翻訳している。

 昭和三十二年、七十歳を越えた吹田は、滝沢馬琴の晩年を描いた小説『馬琴と路女』を同人誌に発表する。少年期の「夢の名残」であろうか。周知のとおり三島の馬琴好きは、終生続いた。『豊饒の海』に『南総里見八犬伝』の影響を指摘する声は多く、最後の歌舞伎作品『椿説弓張月』は馬琴の原作で、未完に終わった『日本文学小史』では、「集大成と観念的体系のマニヤックな文化意志としての曲亭馬琴」の執筆を予定していた。

 異彩を放つのは、菅原教造(一八八一―一九六七)である。東大哲学科を卒業した菅原は、東京女高師(現在のお茶の水女子大)教授として、心理学、家事概論、美学を講じ、被服学の体系化につとめた。「山羊先生」の異名で、附属高女専攻科の生徒に人気が高かった。幼くして失くしたわが子を偲ぶ山羊髭であったという。菅原は、歌舞伎座に歌右衛門や羽左衛門を訪ねて、歌舞伎衣裳の色彩を調査し、服飾の芸術的研究をまとめるなど、ユニークな業績を残した。『衣服心理学』『服装文化論』を上梓したほか、遺稿集の『服装概説』がある。

「桂蔭会」メンバーの活躍を横目で見ていた辻潤(一八八四―一九四四)は、実家の没落により開成中学を退学し、夜学に通いながら語学を身につけた。アナキストやダダイストに接近する一方で、ロンブロオゾオの『天才論』などを翻訳した。辻の訳した『天才論』は大変な評判を呼び、日本三大奇書のうちの二つ、小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』と夢野久作の『ドグラ・マグラ』にも影響を与えた。三島は、十六歳で辻の訳書を読んでいる。昭和十六年九月、東文彦に宛てた書簡に「チェザレ・ロムブロオゾオの天才論をよみました。とにかく呆れ返ったものです。(キチガイ論なのです)」とある。三島は『天才論』からよほど強烈な印象を受けたようで、小説では『贋ドン・ファン記』『ラディゲの死』『暁の寺』、評論では『心中論』『文章読本』『小説とは何か』でロンブローゾに言及している。

 二.橋健行の文章

 開成中学時代の健行は、「桂蔭会」のメンバーとして活躍した。
 しかしこれまで、当時の文章が明らかにされることはなかった。この度、開成高等学校の松本英治教諭(校史編纂委員会委員長)の御協力を得て、明治三十年代の「校友会雑誌」に掲載された健行の文章が明らかになった。『立志』『銚子紀行』『転校したる友人に与ふる文』『少年は再来せず』『筆』の五つである。いずれも課題作文の優秀作と思われるが、ここでは各文の触りを紹介しよう。

 立志とは何ぞ、是即吾人の行はんと欲する所の志、念々常に止まらざるを云ふ。而して其の志を遂げんと欲せば、百折不撓の気象なかるべからず。古語に曰く、志あるものは事遂に成ると又曰く志立つるは学の常なりと、吾人は以て是を無双の格言となすべし。  
                  (『立志』四級二 橋健行)

 健行十四歳の作文は、漢文の匂いが強い。幼少の頃より父の健三から徹底的に仕込まれた漢学の成果が認められる。現在では、校歌や応援歌の歌詞以外に「百折不撓」の文字を目にすることがない。しかし当時の壮丁は、軍隊で「百折不撓」の意義を学んだ。創設当初の帝国陸軍は、仏陸軍式の『歩兵操典』を採用したが、ドイツからメッケルを招聘して近代的軍制の整備を進め、明治二十四年に独陸軍式の『歩兵操典』に切り替えた。爾来、兵器の進歩に伴い改正を行ったが、昭和三年の『歩兵操典』には「百方手段ヲ尽シテ突撃ノ機会ヲ誘起シ百折不撓ノ勇気ヲ現シ」とある。
「其の志を遂げんと欲せば、百折不撓の気象なかるべからず」と大上段に構えた一文は、前髪立ての少年剣士の軒昂とした意気を示している。

 いつしか犬吠岬の懸崖の下に至る仰ぎ見れば数十名の生徒等は既に中間にありて、互に先登を制せんとするは、恰も廿七八年の役に我軍か玄武門を進撃したらんが如し、かくて頂上に達すれば、殿隊の一団漸く崖下に群りて岩壁に蟻附せるさまは、昔楠正成が拠りけん赤坂城当時の様も追想せられて面白し、抑々犬吠岬は鹿島灘の南端にありて海中には無数の岩礁兀立し、舟行最も危険なれば此処に、燈台を設けたるなり、東辺を望めば水天髣髴漠として際涯なり、巨浪の岩石を打つものは砕けて玉となり、散して雪となりて、四辺恰白絹を晒すが如し 
             (『銚子紀行』四級二 橋健行)

 「恰も廿七八年の役に我軍か玄武門を進撃したらんが如し」は、生徒を日清戦争の皇軍兵士に見立てた表現である。明治二十七年、平壌城に籠った清国軍が頑強に抵抗したため、正面から攻撃した大島旅団は退却を余儀なくされ、西正面の第五師団主力も攻撃に失敗した。一方、立見旅団と元山支隊は奮戦した。特に歩兵第十八連隊の三村中尉の一隊が玄武門を攀じ登ることに成功し、激戦の末、清国軍を駆逐した。「玄武門一番乗り」の勇者・原田重吉は、金鵄勲章功七級を授与されて、一躍国民的ヒーローとなった。その姿は、数々の錦絵に描かれ、芝居にされた。代表的な錦絵は、田口米作(一八六四―一九〇三)の『平壌玄武門兵士先登之図』(早大図書館所蔵)で、おそらく健行はこの錦絵を見ていたのであろう。戦争芝居の先鞭をつけたのはオッペケペー節の川上音二郎(一八六四―一九一一)で、「玄武門一番乗り」は絶好の演目となった。東京の新富座における公演では、原田本人が「原田一等卒」を演じた。

 「昔楠正成が拠りけん赤坂城当時の様も追想せられて面白し」は、日頃『太平記』に親しんで機略縦横のゲリラ戦に血を滾らせ、正成に憧憬の念を抱いてなければ、とうてい書けない文章である。健行は、教科書に載った正成の挿話に飽き足らず、『太平記』の「正成一人未ダ生テ有ト被聞召候ハゞ、聖運遂ニ可被開ト被思食候ヘ」や「東西ノ山ノ木陰ヨリ、菊水ノ旗二流松ノ嵐ニ吹靡カセ」のくだりに胸を熱くした、そう考えては推量が過ぎるであろうか。

 一九五九年に『金閣寺』を翻訳して英米における三島の評価を決定づけたのは、アイヴァン・モリス(一九二五―一九七六)である。三島の死後、モリスは、日本史の悲劇の英雄たちの軌跡をたどり『高貴なる敗北』を上梓した。同書は、トム・クルーズが主演した映画『ラストサムライ』の構想に大きな影響を与えたことでも知られている。モリスは、三島の自決に導かれて、日本武尊、楠木正成、大塩平八郎、西郷隆盛など、「高貴なる敗北」の系譜に連なるサムライを描いた。

 正成の判断力の柔軟性と即興性はよく知られている。これらは芸術家の想像力の特性に似かよった特性と言える。 
           (『高貴なる敗北』アイヴァン・モリス)
 
 モリスは、このように正成を評している。健行が正成に惹かれたとすれば、芸術家の想像力の特性に似かよった柔軟性と即興性に、一つの理想の姿を認めたからではあるまいか。正成は、「至誠」の人であった。「至誠」は、暗黒の夜空に一瞬、稲妻のような光を走らせる。
「七生報国」を念じつゝ湊川で自刃した楠木正成。その正成に言及した橋健行。「七生報国」の鉢巻を締め市ヶ谷で自裁した三島由紀夫。そこに一筋の水脈を感じる。

 貴兄も男子の一度決心せられし所に候へば今更彼此申すも反りて兄が前途にも関係を及ぼす事に御座候故不肖は敢へて此の事に就きてはもはや一言をも述べずひたすら兄が奮励刻苦あらせられん事を希期致し候
        (『転校したる友人に与ふる文』三級三組 橋健行)

 汝が肩には国家あり、汝が頭脳には必世界なかるべからず、且繽粉錯雑せむとする汝が思想はこれをして劃一たらしめざるべからず健々霊妙なる汝が手腕はこれをして発揮せしめざるべらざるなり、盖国家なければ独立を失ひ、世界なければ固陋に流る
 (『少年は再来せず』二級一組 橋健行)

 健行十六歳の文章である。ここでは、「繽粉」という語彙に注目したい。普段使われることのない言葉で、「ひんぷん」と読む。多くのものが入り乱れるさまを表現しており、用例としては、坪内逍遥の『小説神髄』に「事序繽粉として情通ぜず」、徳冨蘆花の『思出の記』に「風度る毎に落下繽粉」などがある。文学少年の健行は、あるいは『小説神髄』や『思出の記』を読んでいたのかもしれない。しかし健行の「繽粉」は、前後の文章によく馴染んでおり、近代文学の一時的な影響などではなく、幼少より親しんだ漢詩の語彙を用いたと考えるべきであろう。「繽粉」の二文字は、わが国最古(七五一年)の漢詩集『懐風藻』に登場する。

   侍宴 藤原総前
 聖教越千祀 英聲満九垠 無為自無事 垂拱勿労塵
 斜暉照蘭麗 和風扇物新 花樹開一嶺 絲柳飄三春   
 錯繆殷湯網 繽紛周池蘋 鼓枻遊南浦 肆筵樂東濱
                (『懐風藻』)

「聖教越千祀 英聲満九垠」は、「天子の教えは千年を越え、天子の誉れは天地に満ちている」という意味で、治世を讃えた詩である。 
 三島は、未完に終わった『日本文学小史』のうち、一章を『懐風藻』に割いている。三島は、この漢詩集について、「外来の観念を借りなければどうしても表現できなくなつたもろもろのものの堆積を、日本文化自体が自覚しはじめたといふことにおいて重要である」としている。
「国家なければ独立を失ひ、世界なければ固陋に流る」は、健行が十六歳にして確固とした国家観を有していたことを示す一文といえよう。国家の躍進に自らの人生の軌跡を重ねることを夢見た「明治の青春」の息吹が感じられる。文面を通して志が高く、気宇壮大な少年の姿が浮かんでくる。

 一たび走れば、数千万言、奔馬の狂ふがごとく流水の暢々たるが如く、珠玉の転々たるがごとく、高尚なる思、優美なる想を、後に残して止まらざるもの、これを文士の筆となす。
 一たび躍れば、龍舞ひ、虎踞り、獅吠え、狼嘯くがごとく、一見懦夫をしてよく身を正しくせしむるもの、これを書家の筆となす。   
    (『筆』五年生 橋健行)

「一たび走れば、数千万言、奔馬の狂ふがごとく」という文章から、誰もが三島を連想するであろう。三島のライフワークとなった『豊饒の海』第二巻の題名は、周知のとおり『奔馬』である。そして三島文学に詳しい者は、『花ざかりの森』の秀抜なアフォリズムを思い浮かべるかもしれない。

 美は秀麗な奔馬である。 
              (『花ざかりの森』三島由紀夫)

 明治三十三年、『筆』橋健行 十六歳。
昭和十六年、『花ざかりの森』三島由紀夫 十六歳。
 四十余年の歳月を隔てながら、見事に照応している。傑出した文学者は、一代で誕生するものではない。数世代をかけた文化の集積を必要とする。
 金沢に源を発した橋一巴、橋健堂、橋健三――橋家三代にわたる漢学の研鑽を礎にして、明治後期に文学少年・橋健行は颯爽と登場した。大正末に健行の妹・倭文重から公威が生まれる。昭和の時代、公威は「三島由紀夫」の筆名で大輪の花を咲かせる。橋健行は、三島文学の先駆けであった。

 三.医学博士・橋健行

 東大精神科の付属病院は、東京府巣鴨病院(後の松沢病院)であった。
 明治四十一年、東大を卒業した健行は、呉秀三のもとで精神病学を専攻した。四十三年には、健行より二年遅れて斎藤茂吉が医師団に加わる。大正期の巣鴨病院のスタッフは、院長が呉秀三教授、副院長が三宅鉱一助教授、医長が講師の黒沢良臣と健行の二人であった。

 健行や茂吉が教えをうけた呉秀三(一八六五―一九三二)は、箕作阮甫の流れを汲んでいる。わが国の精神医学の先駆者で、?外に親炙し、『シーボルト先生』や『華岡青洲先生及其外科』を上梓するなど、名文家としても知られた。秀三の長男が、ギリシア・ラテン文学の権威・呉茂一(一八九七―一九七七)である。茂一と三島の関わりは深い。昭和二十九年、ロンゴス作/呉茂一訳『ダフニスとクロエー』が『潮騒』の藍本となり、三十年頃、ギリシア熱の三島は、茂一からギリシア語を学ぶ。父の秀三と伯父の健行、息子の茂一と甥の三島、二組の師弟関係は奇しき因縁といえよう。

 内村祐之(一八九七―一九八〇)は、内村鑑三の長男で、医学を志し、健行や茂吉の後輩にあたる。祐之は、自伝『わが歩みし精神医学の道』のなかで当時を回想して、細心・緻密な黒沢良臣医長と豪放・磊落な橋健行医長の二人が、「好個のコンビをなし、このすぐれた両医長のもとで、医局は、好学と調和と勤勉さとに満ちた好もしい空気をかもし出していた」と記している。後年、祐之は、東大教授やプロ野球コミッショナーなどを歴任した。

 巣鴨病院には、もう一人忘れてはならない人物がいた。
「蘆原将軍」こと蘆原金次郎(一八五二―一九三七)である。高岡出身の元櫛職人で、将軍を自称して、ジャーナリズムを大いに賑わす入院患者であった。将軍は、長い廊下の突当りに月琴などを携えて回診を待っていた。医師が来れば、赤酒の処方を強要した。赤酒とは赤ワインのことであるが、健行もこれを処方したのであろうか。金ぴかの大礼服を着して、世界情勢を語る「蘆原将軍」は、大衆に絶大な人気があった。将軍の病気については、各医師の診断がまちまちで、統合失調症、パラノイア、パラフレニー、躁病のいずれとも確定していない。筒井康隆は、「葦原将軍」をモデルにした『将軍が目醒めた時』を著している。

 大正十四年六月、呉秀三が松沢病院を退任し、院長には三宅、副院長に健行が就任した。翌十五年、建行は学位を授与された。医学博士・橋健行である。昭和二年八月、健行は松沢病院副院長から千葉医科大学(現在の千葉大医学部)助教授に転出した。

 この頃、健行が婦人雑誌に寄稿していたという話がある。
 「婦人世界」の付録で、読者からの人生相談に「医学博士 橋健行」として回答していたというのである。筆が立つ健行には、あり得る話である。しかしながら媒体が、昭和初期の婦人雑誌の付録であることから、筆者は未見である。この付録を所有する方がおられたら、情報を寄せていただきたい。

 三島は、自らの作品の読者として、婦人層の取り込みに意を用いた。
 「婦人公論」に『純白の夜』『音楽』、「主婦の友」に『恋の都』、「婦人朝日」に『女神』、「婦人倶楽部」に『永すぎた春』『愛の疾走』、「若い女性」に『お嬢さん』、「マドモアゼル」に『肉体の学校』『夜会服』、「女性自身」に『三島由紀夫レター教室』、「女性セブン」に『複雑な彼』。三島は、女性誌にこれ程多くのエンターテインメントを連載している。さらに一つ加えると、『文章読本』は「婦人公論」の別冊付録である。健行が「婦人世界」に執筆していたとすれば、ここでも三島に先駆けたことになる。

 「婦人世界」は、明治三十八年創刊の月刊誌で、村井弦斎が編集顧問の頃は三十万部を超える人気雑誌であった。村井弦斎(一八六四―一九二七)は、三河吉田藩の漢学者の家に生まれ、外遊を経て、ジャーナリストとして活躍した。著書の『食道楽』は、蘆花の『不如帰』と並ぶ明治の大ベストセラーで、『美味しんぼ』の嚆矢とされる。弦斎は美食家であったが、後年、虫を食したり断食を繰り返すなど、奇行に走ったという。「婦人世界」は、晶子や白鳥、秋声などが寄稿して、「実際的婦人」の啓蒙に大きな役割を果たした。版元は、実業之日本社から婦人世界社、ロマンス社、ロマンス出版社に移っている。
このロマンス社のオーナーが、式場隆三郎である。

 式場隆三郎(一八九八―一九六五)の名は、三島読者に馴染が深い。新潟医専(現在の新潟大医学部)を卒業した精神科医で、千葉の式場病院の創設者である。白樺派との交流やサドの紹介、ゴッホの研究、山下清の画才の発見、渡辺金蔵の奇怪な建築を記録した『二笑亭奇譚』の上梓など、多彩な才能を発揮した。ロマンス社の設立は、健行の死後となる昭和二十一年ではあるが、建行と式場の接点の一つとして「婦人世界」の存在が浮上してくる。

周知のとおり二十四年七月、三島は、式場に自著『仮面の告白』と切実な内容の書簡を送っている。文面から、当時の三島と式場の間には、面識がなかったことが読みとれる。一方、建行と式場の年齢差は十四歳である。現在と違って、精神科医の数が限られていた時代である。とりわけジャーナリズムで活躍する精神科医は、数少ない。野心に燃える青年医師の式場が、精神科医として令名を馳せる建行に接近したとしても何ら不思議はない。

もう一つの接点が、千葉という土地である。式場が市川市に精神科の病院を開設したのは、昭和十一年のことである。健行は、同年春まで千葉医科大学精神科の教授をつとめていた。県下の医療界で圧倒的な力を誇る千葉医科大学に話を通さぬまま、お膝元の市川市で大規模な病院の建設を進めるということはあり得ない。式場は、病院の開設を健行に相談した、そう考えてもあながち間違いではあるまい。

 建行は、中村古峡が主宰した「日本精神医学会」の機関誌「変態心理」にも寄稿している。中村古峡(一八八一―一九五二)は、東大文学部で心理学を専攻し、漱石の門下として文学活動を展開するとともに、品川で心理療法を行う。不惑を過ぎてから,東京医専(現在の東京医大)に学び、千葉に中村古峡療養所(現在の中村古峡記念病院)を開設した。「変態心理」は、大正六年から十年間にわたって刊行された月刊誌で、異常心理や超心理などを研究対象とした。健行は、この「日本精神医学会」の機関誌を通じて、井上哲次郎、和辻哲郎、柳田國男、南方熊楠、金田一京助、萩原朔太郎、森田正馬、福来友吉たちとの繋がりを持っていた。

 三島は、こうした建行の周辺事情に驚くほど通じていた。一例を挙げると、十六年九月、東文彦に宛てた書簡に「大槻憲吉(母の亡兄の友だちだそうですが)という人の『精神分析読本』をよみ」とある。「憲吉」は三島の誤記で、正しくは「憲二」である。大槻憲二(一八九一―一九七七)は、早大英文科を卒業して、文芸評論のかたわら心理学を研究し、東京精神分析学研究所を創設した。大槻は、フロイトの翻訳と、江戸川乱歩や高橋鐡が参加した「精神分析研究会」を主宰したことで知られる。

 中村古峡が主宰した「日本精神医学会」、そこに大槻憲二が主宰した「精神分析研究会」を加えると、健行の人脈は驚くほどの広がりを見せる。また、健行と文学者との関係では、古峡が中原中也の精神治療にあたり、正馬が倉田百三に森田療法を施したように、医師としての立場で接する機会があったかもしれない。三島と精神分析との関連、さらにいえば三島の性の問題を探るには、建行の周辺を洗い出す必要があるように思われる。

 昭和五年一月、公威が自家中毒で危篤状態になる。一時は、脈が止まったという。家族の者は、屏風を逆さに立てたともいう。健行は、懸命の処置を施して公威を甦らせた。この時の様子が、『仮面の告白』に描かれている。
 六年七月から八年九月まで二年余り、健行は文部省在外研究員として留学する。欧米の碩学を歴訪したという。帰国した年の十一月に教授となり、十年三月から付属医院長を兼ねた。
 十一年四月十七日、健行は危篤に陥る。利根川の釣りで風邪をひきながら、医院長として無理をした結果、肺炎をこじらせたのである。翌十八日、輸血も空しく、健行は五十二歳の男盛りで急逝した。三島十一歳の春のことであった。
 旧友の茂吉は、健行の病床を見舞い、葬儀に参列し、後に歌を詠んだ。

  弔橋健行君
 うつせみのわが身も老いてまぼろしに立ちくる君と手携はらむ
 (『暁紅』斎藤茂吉)

  橋健行君墓碑
 亡き友の墓碑銘かくと夜ふけてあぶら汗いづわが額より
 手ふるひつつ書きをはりたる墓碑銘をわれ一人のみ見るは悲しも
                  (『霜』斎藤茂吉)

 昭和十六年、健行の死から五年の後、茂吉は、亡き友の父で、開成中学時代の恩師でもある橋健三の依頼を受けて、健行の墓碑銘の撰文と揮毫を行った。歌集『霜』に収められた二首は、この時の情景を詠んだものである。

 茂吉の二男・北杜夫(一九二七―二〇一一)は、三島を回想したエッセイのなかで一つの逸話を紹介している。

 小説が終ってから知ったことだが、母から聞くと、三島家と斎藤家とはかすかな因縁があるというのである。つまり、小説中の聖子がはじめ婚約関係にあった男性というのが、三島さんのお母さまの兄上にあたる方だったという。
            (『表面的な思い出など――三島由紀夫氏』北杜夫)

 文中の「小説」とは、斎藤家の歴史を綴った『楡家の人びと』のことで、「母」は龍子のモデルとなった斎藤輝子である。小説に登場する「聖子」のモデルは、輝子の妹(杜夫の叔母)の斎藤清子で、「三島さんのお母さまの兄上」とは、健行のことであろうか。小説では「聖子」の婚約者の家について、漢学者を「御典医」に変えている。そのためか『楡家の人びと』に橋家が描かれていることは、知られていない。

 相手は家柄であった。代々御典医をし、現在もその一族の者には名のある医者が幾人もいた。臨床医ではないが、ひとつの学閥に勢力をもつそうした家と親戚関係を結ぶことは、楡脳病科病院の将来にとって益のないはずがない。当のその青年はまだ医学生の身ではあるが、成績もすこぶる優秀のようだ。 
     (『楡家の人びと』北杜夫)

 三島が、北杜夫の『楡家の人びと』を「戦後に書かれたもっとも重要な小説の一つ」と高く評価したのは、トーマス・マンを範とする文学観の共通性の故ばかりでなく、橋家と斎藤家との繋がり、健行と茂吉との深い絆を知っていたからではあるまいか。
 建行の墓は、故郷金沢の野田山山麓に位置していたが、環状線の建設に伴って移転され、歌人や茂吉研究家の間では久しく所在不明とされてきた。平成十六年、歌人で仙台文学館館長の小池光(一九四七―)氏が、『橋健行の墓』と題したエッセイで「橋健行の墓はどこにある」と問いを発する。

 これに応えたのが、劇作家で金沢ふるさと偉人館館長の松田章一氏である。松田章一(一九三六―)氏は、金沢を代表する文化人で、金沢学院で教鞭をとるかたわら戯曲を発表されてきた。代表作は、劇団昴・円が合同で公演した『島清、世に敗れたり』(文化庁舞台芸術創作奨励特別賞)、『和菓子屋包匠』(泉鏡花記念金沢市民文学賞)である。

 平成十八年、松田氏は、墓地を管理する金沢市に照会して、健行の墓が野田山山頂の「平成墓地乙」に移転したことを突き止め、時雨のなかを現地に赴き、曽祖父・橋一巴、父・橋健三の墓と並んで建つ健行の墓を探し出された。併せて、健行の墓碑銘を確認された。この度、松田氏から橋家墓地の見取図や写真、健行の墓碑銘の写しなど、貴重な資料を提供していただいた。
墓碑銘は、次のとおりである。
 
  正五位橋健行墓
 正五位醫學博士橋健行君健三先生長男明治十七年二月六日生金澤曾祖父一巴先生祖父健堂先生開塾教育藩子弟君幼穎悟經開成中學校第一?等學校明治四十一年卒業東京帝國大學醫科大學次就呉秀三教授専攻精神病學大正十四年爲松澤病院副院長十五年受領學位昭和二年任千葉醫科大學助教授六年爲文部省在外研究員歴訪歐米碩學八年歸朝同年任教授十年補附屬醫院長十一年四月十八日得病逝去葬累代塋域君天資圓滿晩讀老子恬淡澹自得學風精緻業績不滅也 
 醫學博士齋藤茂吉撰并書

 正五位醫學博士橋健行君ハ健三先生ノ長男トシテ明治十七年二月六日金澤ニ生マル。曾祖父一巴先生祖父健堂先生ハ塾ヲ開キテ藩ノ子弟ヲ教育ス。君ハ幼クシテ穎悟(えいご)ナリ。開成中學校第一?等學校ヲ經テ明治四十一年東京帝國大學醫科大學ヲ卒業ス。次デ呉秀三教授ニ就キ精神病學ヲ専攻ス。大正十四年松澤病院副院長ト爲リ、十五年學位ヲ受領ス。昭和二年千葉醫科大學助教授ニ任ゼラル。六年文部省在外研究員ト爲リ歐米ノ碩學ヲ歴訪、八年歸朝シ同年教授ニ任ゼラル。十年附屬醫院長ニ補セラル。十一年四月十八日病ヲ得逝去ス。累代塋域(えいいき)ニ葬ル。君ハ天資圓滿、晩ク老子ヲ讀ミ、恬澹(てんたん)自得、學風精緻、業績不滅也。
 醫學博士齋藤茂吉 撰并ビニ書

 天資圓滿、恬澹自得、學風精緻、業績不滅也。……
松籟のなか、健行は、故郷金沢の奥津城に眠っている。橋一巴、橋健三、橋健行――野田山山頂の橋家墓地の彼方には、紺碧の日本海が広がっている。

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【参考文献】
『決定版 三島由紀夫全集』第一〜四十二巻・補巻・別巻 新潮社
『三島由紀夫十代書簡集』三島由紀夫 平成十四年 新潮社
『三島由紀夫事典』松本徹・佐藤秀明・井上隆史編 平成十二年 勉誠出版
『定本三島由紀夫書誌』三島瑤子・島崎博編 一九七二年 薔薇十字社
『斎藤茂吉全集』第一〜三十八巻 岩波書店
『斎藤茂吉』本林勝夫 昭和五十五年 桜楓社
「二人の友 橋健行と菅原教造」本林勝夫(『短歌研究』一九七一年七〜八月)
『新訂版・年譜 斎藤茂吉伝』藤岡武雄 平成三年 沖積舎
「開成中学時代の斎藤茂吉」藤岡武雄(昭和三十七年度『研究年報』十一 日本大学文理学部三島)
『旅人の夜の歌 自伝』吹田順助 昭和三十四年 講談社
『回想の吹田順助先生』「回想の吹田順助先生」刊行会 昭和四十年 同学社
『服装概説 菅原教造先生遺稿集』菅原教造著/柳沢澄子編 一九八九年 近藤出版社
「立志」橋健行(『校友会雑誌』十号 明治三十年七月)
「銚子紀行」橋健行(『校友会雑誌』十二号 明治三十年十二月)
「転校したる友人に与ふる文」橋健行(『校友会雑誌』十七号 明治三十二年七月)
「少年は再来せず」橋健行(『校友会雑誌』二十号 明治三十三年三月)
「筆」橋健行(『校友会雑誌』二十二号 明治三十三年十二月)
『復刻版 歩兵操典』昭和四十五年 寿満書店
『日清戦争』旧参謀本部編纂 一九九五年 徳間書店
『日本古典文学大系 太平記1』昭和三十五年 岩波書店
『高貴なる敗北』アイヴァン・モリス 昭和五十六年 中央公論社
『現代日本文学大系 政治小説・坪内逍遥・二葉亭四迷集』 昭和四十六年 筑摩書房
『現代日本文学大系 徳冨蘆花・木下尚江集』 昭和四十六年 筑摩書房
『日本古典文学大系 懐風藻 文華秀麗集 本朝文粋』昭和三十九年 岩波書店
『わが歩みし精神医学の道』内村祐之 昭和四十三年 みすず書房
『松沢病院を支えた人たち』宮内充 昭和六十年 私家版
『千葉大学医学部八十五年史』昭和三十九年 千葉大学医学部創立八十五周年記念会
『人間とマンボウ』北杜夫 昭和五十年 中央公論新社
『楡家の人びと』北杜夫 昭和四十六年 新潮社
『精神科医三代』斎藤茂太 昭和四十六年 中央公論社
「橋健行の墓」小池光(『図書』二〇〇四年五月)
「精神科医 橋健行」松田章一(『かなざわ』六六七号)二〇一〇年 金沢商工会議所
「茂吉が書いた墓碑銘『再発見』」平成十八年四月十五日 北國新聞
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 三島由紀夫没後41年 追悼会「憂国忌」のご案内
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きたる11月25日は没後41年、三島由紀夫追悼「憂国忌」です
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 とき      11月25日(金) 午後六時半(六時開場)
 ところ     星陵会館二階ホール
         http://www.sfseminar.org/arc2004/map.html
会場分担金   おひとり2000円(賛助会員のかたはご招待)
   <プログラム>
   1830  開会、黙祷 開会の辞 松本徹(三島文学館館長、文藝評論家)
   1840  記念講演 新保祐司(文藝評論家)「三島由紀夫と崇高」
   1950  発言 石平ほか
   2010  閉会の辞
   2015  「海ゆかば」合唱 閉会

 ご参加の皆さんには記念小冊子を謹呈します。どなたでも予約なく参加できます
 主催  憂国忌実行委員会 お問い合わせ 090―3201―1740
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  事務局よりお知らせ
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<事務局より>憂国忌賛助会員の皆様へ 事務局に振り込み通知あり次第、順次、ご招待券を発送しておりますが、お振り込みから一週間経過しても到着しない場合はお知らせ下さい。なお11月10日、到着分をもちまして冊子へのご芳名記載の締め切りとなります。匿名希望のかたは、お申し出下さい。
また11月11日以後に到着の方には、来年の冊子に掲載となります。
 賛助会員の方には当日のご出席、ご欠席を問わず、記念冊子をお送り申し上げます。なお、ことしは会報と一緒に発送しますので、お手元には憂国忌終了から三週間ほどあとになりますので予めご了解下さい。記念著作もしくは関連図書の送付は来年夏になります。現在鋭意編集中で作業がおくれております。
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  三島由紀夫研究会 HP URL http://mishima.xii.jp/
      メール  yukokuki@mishima.xii.jp
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(C)三島由紀夫研究会 2011  ◎転送自由
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