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ぼーる通信 〜Voice From The Dreamfield〜 日本プロ野球史:東京ヤクルトスワローズ(6)

発行日:9/22

【第6回】

 金田正一。
 コントロールは悪いが剛速球を投げるこの16歳の“やんちゃな”享栄商業のエ
ース候補は、運が悪くてなかなか芽が出ず、他球団からマークされる逸材ではあっ
たものの、知名度はまだまだ全国区ではありませんでした。
 享栄商業は甲子園の常連校で、もしも金田が甲子園で投げて活躍していれば有名
選手になっていたはずだったのですが、金田は一度しか投げるチャンスがなかった
のです。
 それは、たまたま享栄商業が県予選で敗退したとか、金田が登板日に下痢を起こ
して不調だったなどの理由からでした。また金田自身がラジオ製作の専門学校に通
っていたことや、学校制度が6・3・3・4制度への移行期だったこともあり、
“どさくさにまぎれて”14歳から享栄商業に入学したため、当時の芝監督にはじ
っくり育ててもらってはいたのですが、何しろコントロールが安定しない“万年エ
ース候補”だったので、なかなか芯の通ったエースにはなりきれていなかったので
す。

 一方享栄商業の近くには国鉄・名古屋鉄道管理局のグラウンドがあり、手入れの
いいそのグラウンドを借りるため、そこのグラウンドキーパーで管理人の狩野勉と
何度となくやりとりしているうちに、金田は狩野と親しくなり、その狩野の紹介で、
スワローズ監督の西垣徳雄と対面することになりました。
 すると金田と対面した西垣はその素質にほれ込み、その後金田の実家にも出入り
するようになって、金田の父と意気投合。金田家は正一を高校卒業後にプロ野球に
送り出すことを決断したのですが、当の金田本人はさらにやる気満々だったのです。

 1950年7月。名古屋遠征に来た西垣のところに、突然金田が訪ねてきました。
 そこで西垣が理由を聞くと、

 「高校を中退してきた。今すぐスワローズに入団させて欲しい」

 とのことだったので、芝監督と卒業後に入団させる約束をしていた西垣は驚きま
した。これでは亨栄商業野球部の芝監督との約束を違えることになる、と思ったの
です。
 そして間もなく、その芝監督が西垣を訪ねてきて、

 「卒業後に面倒をみるということで信頼していたのに、学校に無断で中退引き抜
きをするとはどういうことだ。」

 と怒鳴り込んできました。
 そこで西垣はまず、自分が中退させたわけではないことをことわったうえで、金
田の意志を確かめるまで待って欲しい、と芝監督に頼みました。

 その後西垣は金田に再び会い、まずこう金田に尋ねました。

 「プロでやっていくのは非常に厳しい。君にその覚悟があるか。」

 すると金田は、

 「県大会の予選で負けてしまった。甲子園に出られなければ高校に行く意味はな
い。厳しいのは覚悟の上です。」

 と答えました。もう甲子園に出られないことがはっきりした以上、兄弟が多くて
家が貧しい金田としては、長男である自分が早く働いて金を稼ぐ必要があったので
す。
 そこでこれを聞いた西垣は芝監督に、

 「金田の意志を確認したが、プロ入りの意志は固いです。中退したことがマイナ
スにならないように入団後は私が責任持って面倒を見ますので、残りのリーグ戦で
金田を登板させてプロに慣れるようにします。だから、スワローズに入団させてい
ただきたいのです。」

 と言って、熱心に説得しました。すると、同じく金田の家庭の事情をよく知って
いた芝監督は、金田の言い分を理解し、西垣の熱意を汲み取ったこともあって、金
田を送り出すことにしたのでした。
 入団条件は契約金50万円、月給2万5千円という、のちの金田の活躍を考えれ
ば非常に割安な値段での契約でしたが、翌年甲子園で大活躍した高松一高の中西太
選手(後、西鉄ライオンズ[現西武ライオンズ])の契約金と同額でしたから、当時の
甲子園に出場していない高校生としては破格でした。そして金田は、もらった契約
金の大半を家に残し、8月はじめに上京して、スワローズの2軍に合流しました。

 金田はすぐに頭角を顕しました。
 最初はバッティングピッチャーとして2軍にて調整していたのですが、その豪速
球にバッターがことごとく空振りを喫するので、練習になりませんでした。また金
田自身も自信満々で、当時の巨人のエースだった*7中尾碩志投手を引き合いに出し、
『ワシと巨人の中尾さんとどっちが球速いですかね』と西垣監督に質問、西垣監督
が苦し紛れに『中尾よりお前の方が速い』と答えるような一幕もありました。

*7 中尾碩志
1リーグ時代の豪速球投手。戦前に2度のノーヒッターを記録しているが、いずれ
も10四球、8四球と、コントロールに難はありながらも球威でこれを達成してい
る。
絶頂期は1948シーズン。最多勝利(27勝)、最多奪三振(187)、最優秀防御率
(1.84)のタイトルに輝いた。
3年間兵役にとられたが、18シーズンを巨人一筋で過ごし、通算209勝を達成。
1957シーズン引退後は、ピッチングコーチ、ヘッドコーチ、2軍監督として巨
人を支え続け、V9にも貢献した。
1977年、巨人スカウト部長時代に急逝。享年59歳。1998年野球殿堂入り。

 実際、当時の金田の球はずば抜けて速く、左腕から繰り出されるストレートは
150km/h台の後半とも後日いわれましたが、結局そんな金田の球は速すぎるから打
てない、ということになり、8月後半にすぐ、1軍に昇格します。
 その威力はすさまじく、たいして投球数を受けていないにもかかわらず、ミット
の網を切る、皮を破って捕手が指を負傷する。そして、捕りそこなった投球がキャ
ッチャーマスクに当たると割れて受けていた捕手が気絶したり額の骨を折るという
ことがありました。当時の用具の質の悪さを差し引いても、金田の速球の威力がう
かがい知れます。
 初登板は、敗戦濃厚だった8月23日の対広島カープ戦。この試合は途中味方が
追いついてくれたものの、最後に唯一のヒットを坂田捕手に打たれ、それがサヨナ
ラヒットとなって惜しい敗戦を喫しました。
 しかし、その後の後楽園球場での巨人戦にて先発。3回までに、川上・青田とい
った強打者のいる巨人打線を手玉にとり、4回こそコントロールを乱して自滅し、
初勝利はお預けとなりますが、翌日には、

 “怪童あらわる!”

 という見出しで、各スポーツ紙のトップを飾ります。
 以後、10月1日に初勝利を記録してから8勝を挙げ、金田はスワローズのエー
スとして名乗りをあげたのでした。

 翌年からは金田がエースとなり、スワローズに君臨します。
 シーズン開始当初は17歳ながら、いきなり22勝。18歳になって1ヶ月ほど
たってからの9月5日、大阪球場での対阪神タイガース戦で、ノーヒットノーラン
を達成。これは当時の最年少記録で、いまだに破られていないプロ野球記録です。
 そして金田はこのシーズン、233奪三振で、三振王のタイトルにも輝いています。
 ちなみにこの若きエースを支えたのが捕手の*8佐竹一雄で、この年から高齢の宇
佐美に代わりマスクをかぶり、約6年間ホームを守っています。 
 またこの年は、川崎コロムビアからスワローズ結成に参加した土屋五郎がトップ
バッターとして大活躍。52盗塁を記録して、盗塁王のタイトルを獲得しました。

 以後スワローズは1956年まで、最下位は1953シーズンのたった1度だけ。
 弱いというイメージはつきまとっていたものの、プロ経験の乏しい“素人集団”
は次第に、チームとしての体裁を整えていきます。
 また、戦力も次第に充実。
 まず1952年には仙台鉄道管理局から入団した*9佐藤孝夫が、打率.265、14
本塁打、45盗塁を記録し、新人王のタイトルを獲得。以後、小柄ながらパンチ力の
ある打撃と俊足で活躍し、1957シーズンには22本塁打で本塁打王のタイトルを
獲得するなど、“バンビ”の愛称で親しまれます。
 1954年には、1951年の入団時はピッチャー兼内野手だった*10箱田淳が
内野手に専念してレギュラーを獲得。打率.323、150安打を放ち、二塁手としてベ
ストナインに選出。同年にはスター選手だった宇野光雄も巨人から移籍、4番を
打って自己最高の138安打を放ち、オールスターゲームにスワローズから唯一選ば
れるほどの活躍を見せ、箱田とともに三塁手としてベストナインに選出されていま
す。
 1955年には佐藤と同期入団で、前年から台頭してきた*11町田行彦が98三
振と荒い打撃ながら、31本で本塁打王を獲得してベストナインに外野手として
選出。この年金田も350奪三振と、奪三振のシーズン記録を作ります。
 ただ、突出した個人記録が突発的に出て、金田がコンスタントに活躍する一方で、
チームはいつまでもAクラスにあがれないままで、いました。スワローズ創設時の
基本方針であった、“少なくとも2、3年後にはリーグの覇権を握ることを主目的
として、強力なチームを編成”するところまでは、なかなかいかなかったのです。

*8 佐竹一雄
京阪商業出身、1946年にテストでパシフィックに入団。翌年からレギュラーに
なり、太陽ロビンス、大陽ロビンス、松竹ロビンスとチーム名が代わる中内野手、
捕手を務め1950年まで在籍し、1950年には優勝を経験しているが荒川昇治
の台頭で控えに回り、1951年にスワローズに移籍した。同年からレギュラー捕
手となり、スワローズの投手陣を支えた。1957年に引退。その後、国鉄コーチ
を務め、ヤクルト球団広報担当から取締役となった。

*9 佐藤孝夫
仙台鉄道管理局から1952年に国鉄スワローズに入団。同年新人王。 1957
年には本塁打王を獲得。引退後は、ヤクルトスワローズ−西武ライオンズ−阪神タ
イガースのコーチをつとめ、その後、スワローズのスカウトを1999年末までつ
とめた。2005年死去。

*10 箱田淳
広島県盈進高校から1951年に国鉄スワローズに投手として入団。
1954年に野手に転向。二塁手、三塁手をつとめ、通算993安打を記録。金田
に反発して、「十年選手の権利」を行使し、1961年に大洋ホエールズに移籍し
たが、移籍後は力を発揮できず、1964年に引退した。
作家の安部譲二と親交があり、安部のコラムに力を失っていく様子が書かれている
(安部は野球好きで、昭和三十年に当時の毎日オリオンズ[現千葉ロッテマリーン
ズ]のテストを受けて落ち、プロ野球選手をあきらめたとのこと)。

*11 町田行彦
長野県長野北高校から1952年、国鉄スワローズに入団。1955年に本塁打王
を獲得するが、その後は腰を痛め低迷。1965年に球団の方針での高額年俸者の
整理で、巨人に移籍。同年引退。その後、巨人、ヤクルトスワローズのコーチをつとめた。

 次回は、ある大物選手が監督になってからのお話です。

(アトムフライヤー)

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発行者プロフィール

ぼーる通信 編集部

ぼーる通信 編集部

http://www2u.biglobe.ne.jp/~Salvador/Balltsushin/Balltsushin.htm

☆ぼーる通信編集部 編集長:Thomas Gwynn Mountainbook(アメリカ野球學曾日本支部曾員、野球文化學曾曾員、アフリカ野球友の会コアスタッフ[英語web担当]、三田文学曾曾員) 副編集長:高原成龍(SLUGGER、スポナビ、旅行ガイド誌等、台湾野球に関する記事執筆多数)

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