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ぼーる通信 〜Voice From The Dreamfield〜

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ぼーる通信 〜Voice From The Dreamfield〜 東京ヤクルトスワローズ編(5)

2015/06/06

【第5回】

 前回は社会人野球からプロ野球へと人気の盛り上がりが移っていった状況につい
て述べましたが、今回はいよいよ、国有鉄道から日本国有鉄道へと改組した国鉄が
スワローズを結成、チームが立ち上がったときの話です。

1949年6月1日、1948年11月国会にて成立した日本国有鉄道法に基づき、
運輸省鉄道事業局は半官半民の会社、日本国有鉄道(Japan National Railways、
JNR)を発足させます。
しかしながら新国鉄は、7月6日には初代総裁の下山定則がナゾの下山事件に巻き
込まれ、不慮の死を遂げたり、鉄道事故(三鷹事件、松川事件等)も多発、非常に
多難な出発となります。組織改編に伴う職員の大量解雇は比較的スムーズにいきま
したが、労働組合と経営陣の対立が頻繁に起こり、なかなか経営は安定しなかった
のです。
しかもこの時期、前回の末尾にも軽く述べたとおり、プロ野球加盟の動きをめぐっ
て選手の引き抜きが横行。新国鉄は、職員の誇りや心の拠りどころとなっていた全
国各地の鉄道局チームが次々と戦力低下の憂き目に遭っていきます。

そんな風潮の中、下山総裁のあとを引き継いだ2代目総裁の加賀山之雄は大の野球
好きで、荒れる労使間の緩和と職員の新しい心の拠りどころとして国鉄がプロ野球
チームを持つことを考え、身近な人に 「国鉄でプロ野球球団をつくれないものか」
と相談していました。
これを人づてに聞いたのが、後のセントラル・リーグ会長、鈴木龍二です。当時は
二リーグ分裂が避けられない状況で、結成寸前の両リーグは有力チームの勧誘に必
死でした。そこで鈴木会長はさっそく加賀山新総裁に球団を持つ気があるか様子を
伺いに行ったところ、加賀山総裁は雑談がてら、組合がうるさくて困る、とこぼし
たあと、なんとか明るいムードをつくりたい、プロ野球球団を持てないものか、と
言ったので、鈴木会長はさっそく、「国鉄がチームを持つなら我がリーグに迎えま
す。総裁是非実現を」と勧誘したのです。

 その後も鈴木会長は、熱心に加賀山総裁に働きかけ続けました。
プロ野球進出には、リーグ加盟料と球場の確保という問題があり、特に球場につい
ては球団が大量に誕生したことによる球場の不足が懸念されましたが、加盟料につ
いては鈴木会長が、

「加盟料の代わりに選手の移動用に畳敷きの寝台列車を国鉄で作る」

という条件を実行することで実質無料にすることを認め、この条件はまずクリアし
ました。

続いて球場については、国鉄副総裁であった天坊裕彦とは懇意で、当時旧中島飛行
機武蔵野製作所跡地の再開発会社の社長をしていた松前重義(後東海大学総長)が
鈴木会長と共に加賀山総裁の元を訪れ、

「中島飛行機製作所跡地に野球場を作るので、国鉄でも利用できる。そのかわり球
場まで電車を走らせて欲しい。」

という提案を行ったので、加賀山総裁は、製作所時代に使っていた貨物の引き込み
線があり、職員の雇用確保にもなるということで、提案を受け入れ、球場の問題を
クリアしました。

 そしてこのように、なんとかプロ野球参加の問題点をクリアした加賀山総裁は、
1949年秋、このような談話を発表します。

『国鉄の新事態に対応して、身近なプロ野球団を結成するということは、どんなも
のであろうか』

世間では、「事故が多発している中で野球チームをつくっている場合か」と反発も
ありましたが、このツルの一声により、国鉄のプロ野球進出が決まります。そして
加賀山総裁は交通公社等から出資を集めて球団を結成し、球団の運営は国鉄関連の
外郭団体である財団法人交通協力会があたることとなりました。

以後加賀山総裁は、交通協力会の会長三浦一雄に国鉄球団運営の準備を命じ、球団
結成を進めます。
三浦はまず、元東京鉄道管理局の監督だった西垣徳雄を球団に迎えることとし、実
務を担当させてリーグの参加準備にあたらせる一方、交通協力会理事長だった今泉
秀夫に球団の運営・予算案を作成させました。そして1950年1月5日に準備は
すべて完了、1月11日に運営予算1500万円で国鉄野球株式会社は発足し、
1月20日には正式にセ・リーグに加盟。
ここに、国鉄によるプロ野球の球団が誕生したのです。

また今泉は、『国鉄プロ野球団設置要綱』を当時まとめています。
それは以下のとおり。

●設置の効用
(1) 国民大衆と国鉄の結びつきを緊密、かつ和やかなものにする。
(2) 野球を通じて国鉄職員の一本化を増進し、相互の密着感を強化する。
(3) 健全な精神、身体を持つ職員を養成する。
(4) 国鉄部内のノンプロ野球の発展を刺激する。

●チーム編成の基本方針
(1) 交通協力会所属のチームで、セ・リーグに加盟する。
(2) 少なくとも2、3年後にはリーグの覇権を握ることを主目的として、強力なチ
ームを編成する。
(3) 国鉄チームにふさわしい清新な気品あるチームとする。
(4) 可及的少数精鋭主義をとる。
(5) さしあたり現プロ選手の中から一流プレーヤーを獲得する。
(6) 広く国鉄職員の中から有名、無名の逸材を発見、登用し、これをもってチーム
の中心勢力を構成する。

 そしてチームのニックネームを全職員から募集、当時の国鉄の看板列車で、唯一
の特急だった東海道線つばめ号から採った“スワローズ”を採用しました。
 スワローズは、国鉄経営陣と従業員の融和の象徴として、スタートを切ったので
す。

 ただやはり、リーグ加盟の際に出遅れたチームの戦力不足は、否めないものでし
た。
 監督には前述の西垣徳雄が就任したのですが、この出遅れのために、プロ野球経
験者を、戦前の阪急ブレーブスに在籍しただけで全桐生にて実質アマチュアに戻っ
ていた中村栄内野手ただひとりしか確保できず、残りの面子は鉄道局チームの主力
選手を中心に、急いでかき集めるしかありませんでした。
 西垣監督によれば、

「1月12日に発足したときは選手が一人も決まっていなかったので、キャンプの
始まる2月1日までに選手を確保しなければならなかった。だからテストをやって
選手を選択する余裕がなく、参加希望者をほとんど入団させた」

ということだったのです。

*7 全桐生
元プロ野球選手も含め、戦後復員してきた野球選手たちによって結成されたクラブ
チーム。1946年の第17回全国都市対抗野球大会に登場し、いきなり準優勝に輝い
てそのレベルの高さを見せつけた。

したがってスワローズ結成時のメンバーは、

・監督:西垣徳夫(法大)
・投手:成田啓二(慶大→大阪鉄道局)、高橋輝(中大) 、佐復良一(福島日東
紡)、田原基稔(札幌鉄道局)、古谷法夫(法大→川崎コロムビア)、村上峻助
(熊本鉄道局)、長武男(古沢建設)、仲川はじめ(文理大→小樽クラブ)
・捕手:井上親一郎(慶大→大阪鉄道局)、深沢督(*7全桐生)、藤田興(中大→
川崎コロムビア)
・内野手:上佐内吉治(新潟鉄道局)、中村栄(全桐生)、福田勇一(専大→小口
工作)、村松昭次郎(中大→熊谷組)、岩瀬剛(門司鉄道局)、土屋五郎(法大→
川崎コロムビア)、岩橋利男(門司鉄道局)
・外野手:山口礼司(東京鉄道局)、相原守(全桐生)、榎本茂(東京鉄道局)、
荻島秀夫(中大→川崎コロムビア)、小田切茂造(中大)、久保吾一(専大→明電
舎)、初岡栄治(東京鉄道局)
・マネージャー:小阪三郎(明大)

このように、社会人上がりの選手、特に鉄道局の選手たちが名を連ねています。
結成時の人材不足といえば広島カープが有名ですが、カープが巨人のレギュラーだ
った白石勝巳をはじめ、他球団からの移籍者7人を入団させることができたのに比
べると、上記のとおり実質プロ経験者ゼロというスタートとなったため、スワロー
ズはカープよりもひどい状況からスタートせざるを得ませんでした。
参加当初は他球団からの移籍選手をリーグで世話するという話もあったようですが、
結局実行されず、かろうじて大学を中退して、巨人に入団予定だった高橋輝を巨人
に頼んで譲ってもらうことしかできなかったのです。
従って戦力不足は否めず、シーズン前の順位予想では最下位の筆頭でした。

また球団運営を行っていくにあたって、スワローズはもうひとつ大きな問題を抱え
ていました。
それは財政面です。
親会社の国鉄が半官半民の公社だったため、資金的には恵まれていたように誤解さ
れがちですが、実際にはさまざまな制約があり、親会社からチーム運営資金を引き
出すのは並大抵のことではなかったのです。
たとえば、野球興行の際の売り上げでは足りない分を補填すべく、球団の運営母体
である交通協力会の方からチーム運営費を出していたのですが、これは国鉄関連の
予算として毎年国会で審議を得る必要があったため、豊富には使えませんでした。
よって、カネのかかる有名選手を獲得するどころの話ではなく、チームの存続すら
危うい状況に、以後のスワローズは悩まされることとなります。
ということで、この足りない資金を補うため、当時の国鉄の1区間の料金となって
いた10円を毎月給料から寄付する、という全国の国鉄職員によるカンパを募るこ
ととなり、以後このカンパが球団を大きく支えていくことになっていきました。
また財政面のことに加え、存在理由のひとつに「職員の精神的融和をはかる」とい
う項目があったため、露骨な選手獲得や引き抜きなどはできず、補強もままならな
かったのです。

したがって上記のような問題点があったことから、スワローズは開幕後、決定的に
戦力が足りず、負けが込みました。特に得点力不足が致命的で、他球団とは勝負に
ならなかったのです。中村栄がショートに入って堅実な守備としぶとい打撃を見せ
るものの、小技の選手はクリーンナップが活躍してくれないと、活きません。
そこでそのあまりのひどさに、シーズン中に森谷良平(松竹ロビンス二軍監督)、
千原雅生(松竹ロビンス)、山根実(大阪タイガース)をトレードで獲得、さらに
藤田宗一(川崎コロムビア)、宇佐美一夫(元満州倶楽部)を補強しました。
ですが入団前、森谷は松竹の二軍監督、宇佐美は飲食店の経営をしており、ともに
選手生活からは離れていました。このふたりに加え藤田は、そろって36歳。たる
み腹の突き出た姿から、中年トリオ・肥満三勇士と呼ばれていたのです。

しかしこの三人がクリーンアップとして打線に入ると、意外や意外、チームの得点
力はアップし、下位低迷ながら最下位独走にはなりませんでした。
三番に入った藤田は136安打、四番に入った森谷は21本塁打を放ち、宇佐美も
満州倶楽部時代に活躍した当時を思い出したのか、キャッチャーをつとめながら五
番打者の役割をきっちり果たしたのです。
 加えて投手陣は、田原基稔、高橋輝の2人が2ケタ勝利を挙げ、開幕投手をつと
めるはずだったのに失踪して騒ぎを起こした古谷法夫もシーズン後半にリリーバー
として活躍し、まとまりを見せたのですが、さらに8月に入団したある若手選手の
活躍で、セントラル・リーグ全8チーム中7位と、なんとかカープを振り切り、最
下位を免れることができました。

 次回はそのある若手選手を中心とする、2年目以降のスワローズの話です。

(アトムフライヤー)

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