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ぼーる通信 〜Voice From The Dreamfield〜

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ぼーる通信 〜Voice From The Dreamfield〜 日本プロ野球史:大阪近鉄バファローズ編 その10

2010/11/08

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【第10回】

 前回は名将・三原脩がフロントとの方針の食い違いがあって監督を辞任し、あと
の者に引き継いだ話を紹介しましたが、今回はあの“悲劇の名将”が監督に就任す
るところからお話をはじめましょう。

 1973年オフ、かつて大毎オリオンズで日本シリーズに出場し、阪急ブレーブ
スを強豪チームへと育て上げた西本幸雄は、この年をもってブレーブスの監督を勇
退しました。
 弱小チームといわれたブレーブス初のパ・リーグ優勝を1967シーズンに成し
遂げただけでなく、優勝5回という実績を残し、もはや自分はチームを創り上げた、
ということで監督職を退いたのです。

 ここで、岩本監督が辞任したバファローズのフロントは動きます。まず、元社長
の芥田に西本獲得について意見を求めました。
 芥田は、自身が3年前、三原監督の後任の相談をバファローズのフロントから持
ちかけられたときに、前南海ホークス監督の鶴岡一人を推薦した際、鉄道という同
じ業界の親会社を持つ別のチームから監督を引っ張ってくることに問題がないかど
うか、ということを懸念していました。
 野球の話抜きで考えた場合、長年南海ホークスの顔としてチームをまとめてきた
鶴岡を監督に据えることは、ホークスのイメージをバファローズに持ち込むことに
なりはしないか、という問題点があったからです。
 しかしこの際、バファローズのフロントはそれには関係なく動いたのですが、結
局鶴岡の健康問題で鶴岡監督誕生とはならず、内部昇格でヘッドコーチの岩本尭が
監督に就任したといういきさつがありました。
 そこで芥田は、西本こそが岩本尭の後任としては最適の人物だと大いに賛意を表
明します。そしてバファローズは西本と契約。西本監督が誕生したのです。

 翌1974年、西本は得意の熱血指導でチームをひっぱります。そしてこのシー
ズン、ベテラン板東里視が復調し二桁勝利を記録しましたが、チームは5位に終わ
りました。シーズンオフ、これまでチームを支えてきた土井と佐々木を放出、76
年には永淵、77年には伊勢も放出します。特にリーグを代表する打者の土井の放
出にはファンから非難の声があがりましたが*35守備に問題を抱えているうえ、暴
力団との交際の疑惑もあったため、フロント側も放出を了解せざるを得ませんでし
た。
 また西本はさらに、ぬるま湯につかったようなベテランが若手に悪影響を与える
ので、そのために彼らを放出するのだと言い切り、野手では南海ホークスから移籍
した*36クラレンス・ジョーンズ、投手では太平洋クラブライオンズから移籍して
きた*37柳田豊等を起用して、翌1975年のシーズン後期に優勝を飾ったのです。
結局このときのバファローズは阪急ブレーブスとの決定戦に敗れはしたものの、フ
ァンは再び翌年に期待したのでした。
 しかし、この成績で若手選手たちが舞い上がり、1976年−1977年は4位
に終わっています。

*35 土井の守備問題
パ・リーグは、1975年から指名代打制度を導入したが、西本は指名代打制度の
導入がわかっていれば土井の放出はなかった、と後に語っている。

*36 クラレンス・ジョーンズ
メジャーリーグのシカゴ・カブス、マイナーリーグを経て、1970年に南海ホー
クスに入団。左打ちの一塁手で4年連続30本塁打を放ったが、粗い打撃と守備の
拙さが野村監督に嫌われ、1974年に近鉄バファローズに移籍。西本監督が打撃
の粗さに目をつぶって起用し続けた結果、長打力を生かして成功した。
1974年と1976年にパ・リーグ本塁打王を獲得。パ・リーグ初の外国人選手
の本塁打王誕生となった。オールスター出場1回、ベストナイン1回。三振か本塁
打か、というタイプの助っ人選手の典型だった。1977年、引退。その後、アト
ランタ・ブレーブスのバッティングコーチとなり、野茂英雄と1995年ナ・リー
グ新人王を争ったMLBオールスター3塁手、チッパー・ジョーンズを育てた。

*37 柳田豊
宮崎県延岡商業高校から、1970年に西鉄ライオンズに入団。1975年に土井
正博との交換で近鉄バファローズに移籍した。交換当初は「沈みっぱなしのサブマ
リン」と酷評され、バファローズ側の大損トレードと言われたが、この言葉に奮起
し、1978年からは4年連続二桁勝利をあげ、1979年−1980年の優勝に
貢献した。
右下手投げから繰り出す変化球は多彩を極め、打者は打つのに苦労したという。オ
ールスター出場3回。1987年に引退。その後は、故郷の延岡市で漁師をしてい
る。

 続く1978年は、*38平野光泰、*39羽田耕一、*40栗橋茂、*41井本隆、*42村
田辰美らが成長を見せる一方、*43梨田昌孝、*44有田修三の2枚看板捕手が投手陣
を引っ張り、ついに2位になります。ようやく西本監督の育ててきた若手選手たち
が、モノになりはじめたのです。
  すると翌1979年は、これら若手の活躍に加えて、ヤクルトスワローズから移
籍した*45チャーリー・マニエルが指名打者に座り、37本塁打を放って本塁打王
を獲得するなど大活躍。同じく移籍の永尾泰憲も渋い働きを見せました。ベテラン
の*46佐々木恭介、小川、鈴木も力を見せ、阪急ブレーブスと争い、ついに結成29
年余りで初の優勝を飾ったのでした。
 しかし日本シリーズで広島カープと対決したものの、第7戦、1点差で9回裏ま
で粘りましたが、例の“*47江夏の21球”の駆け引きを通じて抑え込まれ、つい
に日本一の座を手中にすることはできませんでした。
  またリーグ最優秀選手には、マニエルが選ばれたのでした。

*38 平野光泰
クラレ岡山から1972年、近鉄バファローズに入団。入団時の評価は低かったも
のの、俊足、強肩、好打の外野手として二軍からはいあがり、1975年から一軍
に定着し、1979年の初優勝には一番を打って貢献した。オールスター出場4回。
1985年に引退した。

*39 羽田耕一
兵庫県三田学園高校から1972年、近鉄バファローズに入団。右打ちで三塁手を
つとめた。入団時の評価は低かったものの、度胸の良いバッティングと長打力を買
われ、1973年から一軍に定着。主力打者として活躍し、1979年の初優勝に
貢献した。
西本監督の熱血指導で伸びたひとり、試合中に指示を聞き落として三振したため、
西本監督から殴られた話は有名だが(実は羽田は、西本が指示を出しているときに
はすでに打席に向かっており、指示を聞いていななかった。殴ったのは西本の勘違
いである)、ファン感謝デーの選手紹介で「ハダ」を「ウダ」と名前を間違えた司
会者を「うちの期待の若手の名前を間違えるとはなんだ。」と西本監督が怒鳴りつ
けたというエピソードもあり、西本監督からは期待されていた。
守備が拙く、晩年は珍プレーの常連だったが、通算1504安打はバファローズ史
上5位。225本塁打は同3位と、打撃に関してはバファローズ史上に残る選手だ
った。
オールスター出場3回。1989年の優勝にも貢献し、同年引退した。その後バフ
ァローズのコーチをつとめた。

*40 栗橋茂
駒沢大学から1974年、近鉄バファローズに入団。左打ちの外野手で、その長打
力から1年目から一軍に定着し、1976年からレギュラーになった。長打力と確
実さを兼ね備え、1979年の初優勝には32本塁打80打点を打ち、主力打者と
して貢献した。
通算215本塁打はバファローズ史上6位。オールスター出場4回。ベストナイン
3回。1989年の優勝にも貢献し、同年引退した。

*41 井本隆
鐘紡化学から1973年、近鉄バファローズに入団。入団時の評価はあまり高くな
かったが、度胸の良さと速球で1974年に一軍定着、1979年には15勝を記
録し、初優勝に貢献した。翌1980年の優勝にも15勝を記録し、貢献している。
通算81勝。二桁勝利を記録したのが3回。その選手生活の全盛期はまさに、バフ
ァローズ二回の優勝のためにあったといっても良いだろう。
オールスター出場2回。1983年にヤクルトスワローズに移籍。1984年に引
退した。酷使と私生活の乱れでバファローズ時代の輝きはもどらなかった。

*42 村田辰美
三菱自動車川崎から1975年、近鉄バファローズに入団。多彩な変化球で一軍に
定着し、先発、救援の両方をこなし、1979年には12勝をあげ、初優勝に貢献
した。その後も地味ながら確実な働きを見せ、1989年の優勝にも貢献している。
オールスター出場3回。1990年に大洋ホエールズに移籍し、同年引退。その後
バファローズのコーチをつとめた。

*43 梨田昌孝
島根県浜田高校から1972年、近鉄バファローズに入団。入団時から捕手の力を
高く評価され、1973年には一軍に定着。1974年はレギュラーをつとめた。
その後は強打の有田修三と捕手の座を争ったが、1979年からレギュラーとなり、
19本塁打を打ち、初優勝に貢献した。
頭脳派のインサイドワークと温厚な性格で投手からは信頼された。オールスター出
場6回。ベストナイン3回。バファローズ史上だけでなく、パ・リーグ全体を代表
する捕手だった。
1988年に引退。その後、バファローズのコーチ、二軍監督を経て、2000年
からは監督に就任、2001年にはパ・リーグ優勝を遂げたが、日本シリーズでは
若松監督率いるヤクルトスワローズに敗れ、日本一のタイトルはならなかった。
2008年からはトレイ・ヒルマン監督のあとを請け、北海道日本ハムファイター
ズの監督に就任。

*44 有田修三
新日鉄八幡から1973年、近鉄バファローズに入団。強打の捕手として1974
年には一軍に定着し、梨田昌孝と捕手の座を争った。
細かなインサイドワークでは梨田に一歩譲ったが、安定した捕球術と投手の力を引
き出す強気のリードで、鈴木啓示等の速球派からは信頼を得ていた。
1979年は控え捕手として梨田の疲労を軽減する働きを見せ、初優勝に貢献した。
オールスター出場2回。
二枚看板の捕手は他球団の羨望の的であったが、1986年に捕手としての力を見
込まれ、巨人に移籍、1987年の優勝の際には山倉捕手の控え捕手として貢献し、
1988年はレギュラーをつとめた。1990年ダイエーホークスに移籍、1991
年引退。その後は阪神タイガース、近鉄バファローズのコーチをつとめた。

*45 チャーリー・マニエル
メジャーリーグのミネソタ・ツインズ、ロサンゼルス・ドジャースを経て、ドジャ
ーズ傘下のマイナーリーグから1976年、ヤクルトスワローズに入団した。左打
ちの外野手で、守備走塁に難はあったもののその長打力は一級品であり、1978
年には39本塁打103打点をあげ、スワローズのセ・リーグ初優勝に貢献した。
その後、守備に難があったことから1979年、バファローズにトレードされたが
、西本監督は指名打者としてマニエルを起用。巧みな外人操縦術で力を引き出し、
この結果マニエルは途中ケガによる欠場があったにもかかわらず、37本塁打、
94打点を記録。初優勝に貢献し、ベストナイン、最優秀選手に選ばれた。そして
翌年も打撃で優勝に貢献し、ベストナインに選ばれたため、スワローズファンから
は放出を非難する声がフロントに対して、おこった。
その後バファローズとの契約が折り合わず、1981年は再びスワローズに戻った
が、往年の力を発揮することはできずに、この年限りで引退した。
ベストナイン3回。オールスターゲームには、実力はあったものの、外人枠の関係
で選ばれていない。
その後、日本での経験を生かし、メジャーリーグのクリーヴランド・インディアン
ズの打撃コーチに就任、マイク・ハーグローヴ監督のもとでマニー・ラミレス
(2008年現在、ボストン・レッドソックス)やジム・トーミー(2008年現
在、シカゴ・ホワイトソックス)を育て、実質ヘッドコーチとしてワールドシリー
ズに出場。人望があったことからハーグローヴ監督がボルティモア・オリオールズ
に転出してから監督職を引き継いで、2001年には地区優勝を果たし、その後心
臓病で一時監督職を離れたものの、病気治癒後にフィラデルフィア・フィリーズの
監督に就任、2007年には地区優勝を成し遂げている。

*46 佐々木恭介
新日鉄広畑から1972年、近鉄バファローズに入団。1973年に三塁手として
一軍にあがり、翌1974年から打撃を生かすため、外野に転向した。1978年
に首位打者を獲得。オールスター出場2回。ベストナイン2回。1979年は主力
打者として活躍し、初優勝に貢献した。
右打ちで、バットコントロールの巧みさはバファローズ史上上位に入る実力だった
が、疲労からくる肝炎で体調を崩し、出場を見合わせる事が多く、大成できなかっ
た。肝炎の悪化で1982年は1試合も出場できず、同年引退。その後はバファロ
ーズのスカウト、コーチ、阪神タイガースコーチ、バファローズの監督、西武ライ
オンズコーチをつとめた。
1995年のドラフト会議で他球団と競合したPL学園の福留(現中日ドラゴンズ)
をクジで引き当て、「ヨッシャー」のかけ声と派手なパフォーマンスで人気を得た。

*47 江夏の21球
この日本シリーズ最終第7戦、4-3のスコアから1死後、バファローズの羽田選手に
ヒットを打たれてから広島カープの抑えのエース、江夏豊が投じた21球。1死満
塁にしながら無得点に抑えたこの試合の緊張感について山際淳二が丁寧に取材し、
文芸春秋社の新しい試みであるスポーツグラフィック・ナンバー誌創刊号に載せた
ところ、その反響は大きく、これが日本のスポーツライティングのマイルストーン
となった。

 次回は1980年代のバファローズについて、人気のあった外国人選手を中心に
紹介します。

(アトムフライヤー)

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