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フットボール・コラム

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【フットボール・コラム】マリーニョ

2005/09/15

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           【フットボール・コラム】   2005/09/15発行 vol.349

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                          マリーニョ
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 現在は、ブラジルサッカー中継の解説者、もしくはフットサルの普及を
唱える旗振り役として認知されているマリーニョ。
 日本サッカー界に衝撃的なブラジル旋風を巻き起こした張本人としての
顔は、随分と薄れているのかもしれない。

 フルネームは、アデマール・ペレイラ・マリーニョ。
 1954年3月23日、ブラジルのミナスジェライス州に生まれたマリーニョは、
両親や兄弟も皆アトレチコ・ミネイロのファンという家庭に育つ。

 他の子供たちと同じく、物心がついた時からボールを蹴って大きくなり、
13歳の時に地元のアマチュア・クラブでプレーを始める。
 足が速かったこともあり、最初のポジションは左ウイング。逆サイドの
右ウイングもこなした後、ハーフに落ち着くようになった。

 夢は当然、アトレチコ・ミネイロのプロ選手。とはいえ、身体の小さかった
マリーニョは、アトレチコ・ミネイロでの練習に「小さくて危険だから」という
理由から、参加もさせてもらえず。ひどく落胆して帰路についた。

 15歳の時、当時付き合っていたガールフレンドの兄に「親にばらすぞ」と
脅され、アトレチコ・ミネイロのファンが一番嫌悪するライバル、クルゼイロ
のテストに付いて行く羽目となる。

 始めに聞かされていたのは「クルゼイロの人に呼ばれているから」と
いう話であったが、それは全くのでたらめ。
 クルゼイロのファンだった彼が、一人で忍び込むのは嫌だったため、
マリーニョを強引に誘ったのだった。
 とはいえ、2人はスタッフの隙をついて中に入り、まんまとテストを受ける
ことに成功する。

 大嫌いな青いユニフォームのチーム。希望のポジションでもプレーできず、
気乗りのしなかったが、人気のなかった左のフルバックでプレーしたことで、
次々と交代させられる他のポジションの少年たちを尻目に、マリーニョには
十分な時間が与えられた。

 こうした幸運も重なり、マリーニョは誘って来た彼女の兄を差し置いて
クルゼイロに合格してしまう。
 早速、次の日曜日には試合が組まれており、マリーニョは人数ぎりぎり
のチームですぐに青いユニフォームを着てデビュー。
 しかも、ゴール近くでのFKに、誰もキッカーになろうとしなかったので、
何気なく自分で蹴ってしまうと、それが見事に決まって決勝ゴール。
 その試合を1-0で勝ってしまう。

 帰りがけには小遣い程度のお金までもらい、マリーニョ少年はすっかり
有頂天に。
 スパイクやユニフォームが支給される上、お金までもらえる。まるでプロ
のような待遇に、心は180度転換。大嫌いなはずだったクルゼイロへ入る
ことを決意する。

 しばらくは、家族の敵とも言えるクルゼイロ入りを打ち明けることは
出来なかったものの、マリーニョのキャリアは順調にステップアップ。
 16歳でジュニベールに上がると、トップチームと練習する機会も出来、
トスタンやアデミールといったセレソンのスター選手たちと一緒に汗を
流すことさえあった。

 とはいえ、身分はまだアマチュア。夜学にも通い、アルバイトも掛け持ち。
ブラジルでは当たり前の厳しい生活環境の中、プロとしてデビューする日
を心待ちにしていた。

 だが、クラブとプロ契約を果たせる18歳になったその年、突然の法改正
が行われ、20歳まではプロ契約が出来ないことになってしまう。
 自分やクラブにもどうにもならない事態。さすがに意気消沈したが、
現実を鑑みると、クルゼイロのトップチームは、マリーニョにとって余りに
大きな壁であった。

 神様ペレとも並び評された名手トスタンに、脅威的なバナナシュートを
得意とした右サイドバック、ネリーニョなどのスター選手が揃うチーム。
 マリーニョと同じポジションには、W杯メキシコ大会の優勝メンバーでも
あるウィルソン・ピアザが立ちはだかっていた。
 ピアザは通算74キャップを数えたブラジル全土の英雄。1970年、1974年
と2度のW杯にも出場し、西ドイツ大会では主将を務めたほど。

 その上、代表でチームを離れることが多いピアザの代役にも、他のクラブ
なら絶対にレギュラーを保証されるレベルの選手が控えており、マリーニョ
がトップチームでプレー出来る可能性は著しく低かった。

 そんな中の1973年2月。地球の裏側に当たる日本では、札幌大学が
サッカー留学生第一号として両親が共に北海道出身の日系二世、
松原ネルソン勝を迎えていた。

 1969年の夏、ネルソン吉村やカルロスらのブラジル人選手を擁したJSL
の強豪ヤンマーが北海道合宿を行っていた時、札幌大学を率いていた
柴田勗監督は、その技巧にすっかり魅入られてしまう。

 そこで、4年の歳月をかけて手本となる技術を持ったブラジル人助っ人
を北の大地に呼び寄せる計画を練っていたのだった。

 松原がチームに与えた影響は大きく、飛躍的にテクニックを向上させた
選手たちは、1974年度の天皇杯本大会で斉藤和夫(のち三菱)、清水秀彦
(のち日産)といったスター選手を抱える法政大学を破るまでになっていた。

 たちどころに目に見える成果が現れたことで、柴田教授はブラジルからの
留学生を継続して受け入れることにする。

 1974年、サッカーをするだけではなく、先進国となっていた日本で勉強する
機会も得られる留学生の募集には80人が殺到。その中で、地道に夜学にも
通っていたマリーニョは、見事に僅か2つの枠に選ばれ、1年の約束で来日
することになる。

 その少し前、ブラジルの法改正によってプロ契約していない選手を狙って
いたJSLの永大産業は、マリーニョにも声をかけていたが、この時は断わりを
入れており、勉学の機会も得られる留学生としての道を選ぶこととなった。

 そして、1975年。念願叶って札幌大学に特待留学生として来日。
すぐに、同サッカー部の中心選手として活躍するようになる。
 複数のセレソンを抱える名門クルゼイロで育った助っ人留学生、マリーニョ
の噂は瞬く間に広まり、1年の留学期限を終える頃には、JSLのチームが
こぞって引き抜きにかかった。

 2部の富士通、日産。そして、既にブラジル人助っ人を抱えていたヤンマー
に永大産業。幾つも来ていた話の中でマリーニョが選んだのは、東京に
本社を置くフジタ。
 日本の首都に対する憧れもあったマリーニョは、セイハン比嘉、カルバリオ
という同胞もいるフジタに加入することを決意する。

 1975年度の天皇杯で初の決勝進出を果たしていたものの、当時のフジタ
は強豪の部類に数えられるチームではなかった。
 それが、1976年のJSLで前年の7位から3位まで躍進すると、翌1977年
には、フジタ旋風が巻き起こる。

 勿論、その中心となったのはマリーニョ、カルバリオ、セイハン比嘉という
ブラジル人トリオ。
 1977年のフジタは、2位三菱重工に13ポイントもの差をつける圧倒的な
強さを見せてJSL初優勝。
 FWカルバリオは日本リーグ史上最多の23ゴールを記録して得点王となり、
MF古前田充とセイハン比嘉も同点でのアシスト王に輝いた。

 JSL2年目のシーズンに本領を発揮したマリーニョは18ゴールを挙げた他、
1シーズンに3度もハットトリックを達成するという離れ業をやってのけた。
 ベストイレブンの半数以上をフジタの選手が占め、新人王も水戸商出身の
園部が受賞。あらゆるタイトルを独占したフジタは、黄色と緑で彩られた
ユニフォームもあって、和製ブラジル代表とも形容されるようになる。

 混血で野性味溢れる風貌のカルバリオに対し、イタリア系で長めの茶髪
がロックスターを彷彿させたマリーニョは、女性ファンからも絶大な人気を
博し、熱心なファンを引き付けていった。

 とはいえ、何よりインパクトを与えたのは、その確かな技術と戦術眼。
 余りボールを持たずに長短のパスを使い分けてさばくスタイルは、華麗な
足技を駆使して観客を魅了する類のものではなかったが、瞬時にスペース
を見つけてボールを落としたり、深い位置からもパス一本で局面を変えて
しまうセンスは、群を抜くものであった。

 このマリーニョのゲームメイクに最も恩恵を受けたのが、野生児とも
呼ばれたFWカルバリオ。
 当時の日本では珍しい引き技を使ったフェイントを見せただけではなく、
足腰の強さを活かした突破力を武器にして次々とゴールを量産。
史上最高の助っ人という称号を不動のものとしていった。 

 初めて日本リーグを制したフジタは、爆発的な攻撃陣が勢いを持続し、
天皇杯をも制覇。見事に二冠を達成する。

 翌1978年こそ田口光久、斉藤和夫、落合弘といった代表組に加えて、
日大高出のルーキー尾崎加寿夫を擁した三菱重工の巻き返しにあうが、
1979年には再びリーグと天皇杯のダブルタイトルを獲得。

 MF古前田にDF園部勉といった以前からの主力に、MF植木繁晴や
FW上田栄治といった若き戦力も加わり、選手層は充実していた。

 しかしながら、1980年1月1日の天皇杯決勝、ライバルの三菱重工を
2-1で振り切った試合を最後に、マリーニョはフジタのユニフォームを
脱いでしまう。

 僅か4シーズンの在籍でチームの4つのタイトルをもたらし、自身も2度の
ベストイレブンに選ばれたマリーニョであったが、フジタの前身である
藤和不動産でプレーしていた先輩、セルジオ越後に誘われ、日本の
少年・少女たちにサッカーを普及させる仕事を始めることとなる。

 日本でのサッカーの地位は余りに低く、マリーニョがハットトリックを記録
しても、新聞には得点者の名前さえ載らなかった時代。
 王貞治や長嶋茂雄らの活躍で栄華を極めるプロ野球とは、扱いに天地
ほどの差があった中、サッカーというスポーツ自体が一般に認知されて
いないことを感じていたマリーニョは、セルジオの提案した草の根の活動
に興味を持ったのだった。

 選手としては最も油が乗る時期であるにも関わらず、JSLの舞台から
姿を消したマリーニョは、それから2年間「さわやかサッカー教室」のコーチ
として全国を巡回。サッカーを普及させるために毎日を過ごしていた。

 だが、1982年。1970年代後半より加茂周監督の下でチーム強化に
本腰を入れ始めた日産自動車から熱心なラブコールが送られ、現役生活
に戻る決意をする。

 金田喜稔、木村和司といった代表クラスの選手を補強し、着実な成長を
遂げていた中でマリーニョという柱が加われば、チーム屋台骨が整うと
思っていた加茂監督であったが、サッカー教室での普及活動がプロ行為
と見なされてしまい、JFAへの選手登録が出来ない事態となる。

 まだ厳格なアマチュア規定が存在した日本サッカー界。プロ選手の
流入は固く禁じられ、サッカーを通じてお金を得ることは全く認められて
いなかった。
 助っ人として呼べるのは、アマチュアの身分にあった者だけ。
マリーニョのようにプロチームに所属していない中で金銭を受け取る活動
さえも、不可解な解釈の下でプロフェッショナルな行為として見なされた。

 チームには加わったものの、一切の公式戦に出られない身。
フジタ時代に近いコンディションを取り戻すのに時間がかかったとはいえ、
表舞台に立つことを許されない環境は、マリーニョにとっても苦痛な時間
であった。

 そして、再びピッチに立つことを許された1983年、日産は新たな時代を
切り開くことに成功する。
 FW柱谷幸一(国士大)、MF水沼貴史(法政大)、DF田中真二(中大)、
DF越田剛史(筑波大学)、DF杉山誠(東農大)と、大学サッカー界のスター
を根こそぎさらった日産は、読売クラブと優勝争いを繰り広げた上で
過去最高の2位に入り、一躍、変貌を遂げた。

 日本でも最高のスキルを誇る木村がタクトを振り、マリーニョや清水が
サポート。
 金田に木村、水沼らのようにボールを持たせても秀でた能力を発揮
する選手が多かった日産では、フジタ在籍時よりも更にシンプルなプレー
でチームのバランスを保ち、サイドハーフながらもボランチのような
役回りをこなすようになっていた。

 「ターボパワー全開」と評された日産は、リーグ屈指のタレント軍団に
生まれ変わり、天皇杯で創部以来初めてのタイトルを手中にする。

 フジタでもそうだったように、マリーニョが加入して2年目での初優勝。
実勤5年で5つ目の栄冠をもたらしたマリーニョは、いつしか優勝請負人
との枕詞を付けられるようになっていた。

 リーグではジョージ与那城、ラモス、トレドというブラジル人トリオを
擁する読売クラブの前に続けて苦汁を飲まされたものの、1985年には
古巣フジタを破って2度目の天皇杯を獲得。
 マリーニョ個人のタイトル・コレクションは、6つにまで増えていた。

 結局、マリーニョは1986-87年のシーズンをもってスパイクを脱ぎ、
通算137試合に出場し、50ゴールという素晴らしい数字を残しての
現役引退となった。

 フジタでのパトーナーで絶対的なセンターフォワードだったカルバリオ
は、152試合で77ゴールという驚異的なアベレージを記録しているが、
中盤でプレーしながら4割に迫る得点率を誇ったマリーニョの凄さも、
決して過少評価されるべきではないだろう。

 例えば、マリーニョと1歳違いで同じポジションを任されていた西野朗
(日立製作所)は、釜本邦茂の持つ連続試合得点記録に並んだものの、
143試合で29得点という通算成績。
 単純に数字だけを眺めても、如何にマリーニョの実績が秀でたもので
あるかは言うまでもない。

 現在は、フジタ時代に知り合った典子夫人と結婚し、二児の父となって
いるマリーニョ。
 1990年代からはフットサルの普及に力を注ぎ、1996年のフットサル代表
をも率いている。
 21世紀に入り、日本各地にフットサルコートが出現し、女子選手も増えて
来た中、マリーニョの果たして来た役割は、決して小さなものではないはず。

 CS放送の解説者としては、幼い頃に敵視していたクルゼイロに肩入れし、
古巣への郷愁を感じさせる発言もあるサッカー普及の祖。
 知名度こそ日本に帰化したラモスや与那城に及ばないかもしれないが、
日本サッカー界の恩人と言える人材であることに疑いの余地はない。

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   発行:2005/09/15   発行元:Soccer Days      ライター:らいてぃー
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