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AC通信 No. 217

2007/11/17

[AC通信:No.217] (2007/11/16)
[AC論説]No. 191 ラファィエット事件(20)
張可文中佐の“事故死”

2007年10月18日台北市の新生北路で乗用車とバイクの衝突事故が
あり、バイクに乗っていた張可文が死亡した。一見単純とも見える
この事件は、死者がラファイエット事件の関係者であることがわか
って新聞が大きく取り上げたが、不思議と一日報道しただけで後続
記事はなかった。

元海軍中佐・張可文はラファイエット事件の発端となった尹清楓殺
害で調査をうけ、収賄罪が発覚して20年の徒刑(一説では無期徒刑)
を受けたが、2005年5月に仮保釈されて出所した。ラファイエット
事件では海軍軍人33人が収賄罪その他の罪で起訴されたが、軍人以
外にも関係者が多く、不可解な死を遂げた者も多い。張可文は台湾
で9人目の不可解な死を遂げた人物である。フランスでも多くの関
係者が変死している。

衝突事故の現場を検証した報道によると事故死である。仮釈放され
た張可文を暗殺する必要はないはずだが、この死亡事故に竹聯幇の
盟主・陳啓礼の死後に報道された「国民党の暗殺指令」の関連をみ
ると、事故死ではない可能性が浮かんでくる。

●衝突事故の検証

衝突事故がおきたのは18日の午後8時45分で、路傍のテレビカメ
ラに衝突の映像が残っていた。新生北路の高速道路(高架)から民
生東路の出口を降りてきた白い自家用車が突然右折したため、側道
を直進していた張可文のバイクは避けることが出来ず衝突した。張
可文は乗用車を越え、頭部から地上に落ちて即死した。

高速道路の出口から高架を降りた車の速度が非常に早く、右折禁止
の場所で急に右折したため衝突したのだが、高速から降りた車が、
なぜ信号灯のある場所で右折したのか。張可文のバイクは交差点で
速度を落すべきだったのに衝突して死亡したのも不可解である。衝
突現場の照明は良好で、過去五年間に同地点で起きた衝突事故15
件のうち4人しか負傷していない。死亡事故は初めてで発生当時は
青信号だったという。

最も大きな疑問は車主の名前が報道されていないことである。普通
なら事故がおきれば両側の関係者の名前がわかるはずなのに、僅か
自由時報が「呉姓女性」と報道しただけである。警察調書もないし、
報道は一日だけで終わっている。

●竹聯幇盟主・陳啓礼の死

張可文の死の二週間前、10月4日に竹聯幇の盟主陳啓礼がホンコン
の病院で死亡した。死因は膵臓癌だった。陳啓礼はカンボジャのブ
ノンペン市に塀をめぐらした広大な屋敷を持ち、銃を持った警護が
周囲を警戒していたので、一時はカンボジャ政府に銃砲違法所持で
抗議されたこともあったが、その後も住んでいた。台湾に住めなく
なったのは1984年に竹聯幇が国民党の命令でカリフォルニアに住
む江南(本名劉宜良)を射殺した事件の首謀者だからである。

マフィアの親玉が膵臓癌で死んだあと、死体は台湾に空輸され、11
月8日に台北で盛大な葬儀が行われた。葬儀には世界中のヤクザの
代表が雲集し、台湾の政治家も多数参加したが、なかでも異色だっ
たのは立法院院長を務める王金平が葬儀委員会の名誉委員長を務め
たのである(アサヒ新聞;11-09-07)。世界中で国を追われたマフィ
アのボスが、死んだあと本国で葬儀を営み、政治家やヤクザの大物
が参集して、あまつさえ国会議長が葬儀委員長を務めると言うのは
実に醜悪不可解、台湾の政治がヤクザに牛耳られている証拠である。

●王羽の「許信良暗殺未遂」告白

陳啓礼が死んで一週間たつと、ホンコンの王羽というアクション映
画俳優が、25年前に(1984年ごろ)国民党の大陸工作委員会主任・
白萬祥が「ある男」を通じて王羽と会食し、アメリカに亡命してい
た独立運動の人物許信良を暗殺せよと命じたと告白したので大問題
になった。

白萬祥は会見したときに許信良の写真を見せて、「この男は叛乱分子
でいまは国外にいるが、君の人脈を使って国のために何かできるか、
考えてみろ」と言ったが、王羽は許信良の人物を知らなかったので
即答を避けた。このとき白萬祥は交換条件として、王羽の関係した
ある事件を不起訴にすると言った。しかし、王羽は白萬祥に対し、
「重大事項だから命令を書面にしてくれ」と要求したが、白萬祥は
命令書を書かなかったので未遂に終った(民視;10-17-07)。

王羽は新聞記者に対し、陳啓礼が江南を暗殺した人物として歴史に
書かれるのが残念で、陳啓礼は国家に忠誠、朋友に仁義を守る人間
であることを明らかにしたいと述べた。陳啓礼は王羽の命を救って
くれた恩人である。彼の恩義に報いたいから、国民党の暗殺指令が
あった事実を公開し、陳啓礼の江南暗殺もまた国民党の指令であり、
陳啓礼は国に忠誠を尽したのであったという。同じように国民党は
彼に許信良暗殺を命じた、これは事実であると述べた。

陳啓礼に命を救われた恩義というのは、1981-82年のことで、王羽
が四海幇の恨みを買って幇主・劉偉民の弟、劉鉄球ら数人に錐で7
回刺され、九死に一生を得たが、その後竹聯幇の陳啓礼に頼み、劉
鉄球に対し「ヤクザ式の二倍報復の14回刺殺」をやってもらった恩
義があるという(大紀元;10-15-07)。

●張可文と単亦誠の関係

王羽を国民党の情報系統の白萬祥に紹介した「ある男」とはラファ
イエット事件に関連のある単亦誠のことだった。このため単亦誠も
国民党の特務系統に関連があることがわかった。

尹清楓が殺害された後、海軍は自殺説を宣伝したが、他殺と判明し
た後は真相を隠すため、殺害原因を海測艦部品の購買にあると言い
ふらした。尹清楓は少将に昇進するはずだったが二通の密告書が海
軍司令部に送られたので昇進が遅れた。それを知った尹清楓は殺害
される前夜、郭力恆の提議により近くの電気屋で録音機を買い、そ
の足で張可文と劉枢を訪問し、秘密録音をしたのだった。これが第
一テープと呼ばれるもので、二人との会話を第一テープに録音した
あと居室に戻って、郭力恆と話し合った際にも第二テープを使って
秘密録音をしていた。その後の調査では第二テープの大部分が磁気
消去されていることが判明した。つまり尹清楓殺害の真相は第二テ
ープにあり、関係者はテープを消去する必要があったと思われる。

張可文中佐は海軍の軍備購買部に勤めていて、海測艦部品の購買を
受持っていたが、このときの軍需商人が単亦誠である。つまり張可
文は海軍内部、単亦誠は外部から共同で購買価格を吊り上げていた
のである。このため張可文は20年の実刑を受けたが、単亦誠は喚問
されたあと実刑を受けず国外に逃れ、上海に住んでいる。

そこで王羽の暗殺未遂事件の調査になると、王羽と単亦誠を喚問す
ることになる。王羽は21日に台北に戻って調査を受けると言った。
白萬祥は数年前に死亡している。単亦誠を喚問したいが応じない。
そうなると調査部はラファイエット事件で単亦誠とは軍部の内外パ
ートナだった張可文を喚問するかもしれない。そう考えると張可文
を暗殺する必要もあるという憶測がなりたつ。

●国民党「暗殺の系譜」

王羽が述べたように、陳啓礼は国(中華民国、国民党)に忠義を尽
した人間だったという。国民党に忠義を尽したから江南暗殺を請け
負ったのだ。江南(劉宜良)は蒋経国の伝記を書いていたが、国民
党が原稿を買い取るといったのを拒否したため殺害されたと報道し
ているが、別説では江南が蒋経国の伝記のあと、アメリカに亡命し
た呉国禎の伝記を書くことにしたのが原因だという。

江南暗殺の指令は蒋仲苓中将と陳虎門中佐を通して陳啓礼に伝えた
が、陳啓礼は万一事が露見すれば国民党は竹聯幇を見限るかもしれ
ないので秘密録音をしていたが、その後暗殺が露見して陳啓礼が逮
捕されて、録音テープの存在を公開したため国民党の指令が明白と
なり、蒋仲苓中将と陳虎門中佐などが有罪となった。陳啓礼の自己
保身の録音が役立ったのである。同じように王羽も自己保身のため
白萬祥に対し、書面の指令を要求したのである。

江南(劉宜良)は政治工作部の出身だったので、彼が蒋経国の伝記
を書くのは反逆行為であり、裏切り者だから殺されたという。江南
とは違って許信良は「国民党を潰してみせる」と宣言したため国民
党から危険人物をみなされ、暗殺令をだしたのである。この二つの
指令は同じ1984年だったと思われる。

●暗殺は情報部の仕事だった

中華民国は孫文が作ったが実際に独裁体制を整えたのは蒋介石であ
る。彼が権力を強固なものにするため政敵や有力同志を暗殺したの
は歴史に残っている。蒋介石は青幇の親玉・杜月笙の子分だったの
で青幇の暗助が大きかった。1930年ごろ杜月笙の部下、陳果夫・陳
立夫兄弟を使ってCC団を結成した。これは国民党最右翼の政治結
社で、CCは陳兄弟の姓Chenの頭文字を連ねたものである。蒋介
石の独裁を助けて反対勢力を弾圧した。

1932年、蔣介石は軍事委員會の名義で特務情報組をつくり,戴笠を
主任とした。同じ年に蒋介石は戴笠に秘密指令をだし、国民党內で
秘密組織“力行社”(藍衣社)、“中華復興社”などを作り、戴笠は中華
復興社特務處處長を担任して,CC系の中央情報處とは別の獨立組
織を作り上げた。これがその後の国民党の情報、政治工作の元祖で
ある。台湾に亡命した後も警備総司令部、国防部総政治戦闘部など
の名義で特務組織、情報政治工作を続けていた。

許信良の暗殺指令に戻ると、単亦誠を通じて王羽に接触した白萬祥
は情報部出身の特務で、元警備総司令部政戦部主任、国防部政戦部
副主任、陸軍中将である。蒋経国の次男、蒋孝武の部下だったが、
内命を受けて国防部から転出して中央電台(放送局、つまりメディ
ア情報)主任となった。

単亦誠の官職は海軍士官長(一等兵曹)だが、蒋経国の長男、蒋孝
文の護衛だったお陰で権力絶大で陰では「単将軍」と呼ばれていた。
この男は元国防部長、宋長志と親密な従僕関係があり、複雑で広い
人脈を持っていた。例えば単亦誠の戸籍は宋長志の姻戚の戸籍内に
設置してあり、英語の個人教師は元副参謀総長の夏甸であった。

つまり許信良暗殺は政治工作部から出たとはいえ、江南の暗殺と同
じく蒋孝武の密命だったかも知れない。王羽がこのことを暴露した
ため台湾で調査が始まり、単亦誠を尋問できなければ親しかった張
可文を喚問する可能性が出てくる。これが張可文のバイク事故と関
連があるのか、読者の想像に任せるよりほかない。

この構図を見れば現在に至っても蒋家の「党、政、軍、特」を集め
た権勢と、国民党と竹聯幇、四海幇、華青幇など暗黒組織が密接に
つながっていることがわかる。軍のほうは蒋介石の侍衛長だった郝
柏村が掌握していたので、ラファイエット事件でも郝柏村に立ち入
ることが出来ず真相が解明できない。

●馬英九の家系も情報部の系統である

馬英九も情報系統と深いつながりがある。馬英九の父母は杜月笙の
第5夫人に付随してホンコンから台北に移り住み、彼らは台北の和
平西路にあった日本人の花柳病院病棟を接収して住んでいたと言わ
れる。馬英九の父親・馬鶴陵は政治工作部の中佐だったが、母親・
秦厚修は国防部総政治部の少佐、彼女の父親・秦承志は有名な戴笠
の部下だった。世間では馬英九がハーバード留学時代に台湾人留学
生の監視をしていた特務だと言う。父母が古くから国民党特務の系
列だったことを見れば「職業学生・特務」は本当と思われる。

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