国際情勢

宮崎正弘の国際ニュース・早読み

 評論家の宮崎正弘が独自の情報網を駆使して世界のニュースの舞台裏を分析

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宮崎正弘の国際ニュース・早読み

2007/01/15


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「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 
平成19年(2007年) 1月15日(月曜日) 
通巻第1676号   
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 中国、韓国との歴史共同研究は不毛の結論が目に見えているが。。。
  エストニアとロシアは歴史認識の解釈変更にいかに対応したか
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 バルト三国が第二次世界大戦のどさくさに、ソ連の侵略による餌食となって1991年のソビエト帝国崩壊まで、兇悪な統治に虐げられた。1944年から91年まで。

 およそ半世紀に亘る不法統治に耐えて、エストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国は冷戦の終結を見るや、不撓不屈の独立心を燃やし、ソ連の崩壊とともに真っ先に独立し、CISにも不退転の民族的決意で加わらなかった。

エストニア、ラトビア、リトアニアの三国は、いまではEUのメンバーである。
 また2002年のNATOプラハ会議ではバルト三国のNATO加盟が認められた。
 正々堂々の西側の一員となった。

 2007年1月10日、エストニア国会議決に基づき、首都タリンの真ん中に立っていた「エストニア解放」のブロンズのモニュメント像が撤去されることとなった。
 ソ連軍の兵士を描いたものだった。

 エストニアは「解放」されたのではなく、ソ連に「侵略」されたのだから。モニュメントは郊外に移され、エストニアの戦争記念広場にはソ連関係のものはなくなった。

 これは換言すれば沖縄や、広島にある屈辱的敗戦モニュメントを撤去するのと同義語ではないのか。あるいは南京など「反日記念館」にあるインチキ歴史展示を撤去させる政治的転換にも喩えられようか。

 1944年9月22日。
ソ連はエストニアのタリンに侵攻した。爾来、この侵略が「解放記念日」とされた。
中国共産党が喧伝しているチベット侵略を「解放」とおなじ悪辣な遣り方。
エストニア議会は、これを「ナチとソ連のシンボル」とする記念碑に作り替える決定をした。
66議員が賛成、5議員は反対、30議員が棄権。

 ロシア側の反撃は正面からの歴史論争を回避した。
 しかしロシア議会では反発が渦巻いた(インターファックス、1月11日付け)。

 「50年にわたるソ連の解放の象徴を撤去するなど、『第二次大戦の結果を改定』する動きであり、『ナチズムに対抗した戦争中の反撃である』」とロシア側は一方的な解釈を獅子吼した。
 ついで「エストニア議会の決定はナショナリズム過激派が主導したにすぎず、国内にいるロシア語を喋る国民の意向を無視している。エストニアの社会を構成するひとびとの均衡を崩す」と反論した。

 エストニアは旧共産主義翼賛体制に巣くって共産主義支配下での利権構造の恩恵を被った階層がいまも少数ながら存在している。ロシア人もいる。

 さらにロシアは、
 「1991年までの(ソ連の占領)歴史は“われわれに共通の歴史”であり、ナチに対抗するための措置である」と意地になって自分の歴史解釈を主張し続けている。

 思い出せば91年夏、まだソ連特殊部隊や暗殺チーム、共産主義者の残骸が混然としていた時期に筆者はバルト三国を一週間であるいた。

 モスクワからリトアニアの首都ビリニュスに入り、杉原千畝がいた古都も訪ね、ラトビアでは首都のリガからローカルな鉄道に揺られて琥珀海岸にも行った(拙著『世界経済、裏道をゆく』、ダイヤモンド社刊に収録)。

各地のホテルも食堂もまだルーブル建てで、米ドルをだすと実勢価格の五倍ほどの力があった。
毎晩、ワインを二本ほど飲んでも、率直に言ってタダのようだった。
 エストニアのタリンはことのほか美しい町で、洗練されたファッションを着こなす若い女性たちが夏の日差しに輝いていた。
 そうだ、ソ連の頸城(くびき)から解放されて、バルト三国の人々は半世紀ぶりに自由を謳歌し、未来に夢を膨らませていたのだった。

 エストニアはとうにソ連ブロックを離れ、EUとNATOの加盟国であるにも関わらず、モスクワにつどう旧共産党や反動ナショナリストらが懐旧にひたるのは単純にノスタルジーだけが動機だろうか?
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(記録)
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 「伊藤潔先生を偲ぶ会」が昨日(1月14日)私学会館で静粛厳粛かつ盛大に開催されました。
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会はまず「開会の辞」を何康夫氏(在日台湾同郷会会長、呼掛け人代表)、挨拶は許世楷氏(台北駐日経済文化代表処代表)、黄文雄氏(台湾独立建国聯盟日本本部委員長)、伊藤隆氏(東京大学名誉教授)らと続いた。

許世楷大使は「伊藤さんほど日本語のうまい台湾からの留学生は稀だった。おなじ学問が対象だったが、下宿先が近かったのでよく議論し、勉強した」。

黄文雄氏は「経済的に困窮していたとき、夜中まで伊藤さんの家で議論したりしながら、お世話になった。家族ぐるみの付き合いだった。個性の強い人で他人とはよく喧嘩したのに、わたしとは40年の付き合いで一度も喧嘩したことがない。日本は『美しい国へ』を標語としているが、伊藤さんは『美しい心をもった台湾』を目指していたに違いない」

伊藤隆氏は東大時代の伊藤潔氏の主任教官でもある。
「あるときは在留許可延長の交渉に入管事務所まで行った。難航していた手続きも「東大教授がここまで来たのは初めて」と言って許可してくれた。学生時代から病気がちで、病と闘いながら博士論文を書き、多くの著作に挑んだ。日本に帰化するときに「伊藤」としたのは、私の名前という説もあるが、本人は『あれは伊藤博文からとった』と言っていた」。

ついで「弔辞」が李登輝・前台湾総統から特別に寄せられたものを林建良氏が代読した。
引き続き参列者全員の白菊による献花が行われた。

小生は会場の片隅で追悼の挨拶を聞きながら、伊藤潔さんとの交遊した多くの場面を走馬燈のように回想していた。台湾関係のシンポジウムや講演会場でよく会った。
台湾でばったり会ったときは、小生は途中で退席したが、一緒に行っていた故平林孝さん(当時中央公論編集長)と夜明けまで飲み明かした。
小生が最後に伊藤潔さんと会ったのは故人となる一年ほど前で、或る会合のかえりに市ヶ谷の居酒屋で、二人だけで飲んで台湾の未来を語らった。

追悼会は引き続き第二部に入り、まず田久保忠衛氏。「当時、中央公論の名編集長だった平林孝さんから紹介され、夜中によく長電話をしたが、陳水扁当選の夜、『生きていて良かった』と感嘆したのを忘れられない。帰化したあとは日台間の重要なパイプ役として黒子に徹した人物だった」。

平松茂雄氏。「台湾独立を目指して戦い続けた人だった。96年ミサイル危機のとき、『もし、中国が攻めてきたら、自分は老兵として、日本国籍を捨てて戦いに参ずる』と言った、あの台詞が鮮明に残っている」。

白川浩司氏。「『諸君』編集長時代からの付き合いだが、当時の中国学者は奥歯に三枚ものがはさまった中国論を書いていて意味不明だった。伊藤さんは、こういう環境の中で明瞭でストレートな物言いだった」

ここで小生は次の約束のため退席。
以下、つぎの人々の追悼挨拶が予定されていた。また会場には小田村四郎(前拓殖大学総長)、西尾幹二氏ほか多くのジャーナリストらの顔があった。
プログラムに依れば、スピーチは宗像隆幸氏(アジア安保フォーラム幹事)、林建良氏(世界台湾同郷会副会長)らが続き、最後に遺族挨拶は伊藤尚真氏、閉会の辞は台湾から駆けつけてきた黄昭堂氏(台湾独立建国聯盟主席)。
全体の司会は柚原正敬氏(日本李登輝友の会事務局長)がつとめた。

故伊藤潔先生(台湾名:劉明修)の簡歴
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1937年(昭和12年)、台湾・宜蘭県に生まれる。台湾・中興大学卒業後、64年(同39年)に来日し69年(同44年)に早稲田大学卒業した。
この間、台湾独立建国聯盟日本本部に秘密盟員として参加。東京大学大学院博士課程修了、80年(同55年)に文学博士号を取得(博士論文は「台湾統治と阿片問題」)。専攻は東アジア政治史、同地域研究。
82年(同57年)、日本国籍を取得。津田塾大学、横浜国立大学、東京大学、二松学舎大学で教鞭、95年(平成7年)に杏林大学社会科学部(現総合政策学部)教授に就任。
杏林大学病院に入院中の2006年(同18年)1月16日、心不全により逝去。享年68歳。在日台湾同郷会顧問、日本李登輝友の会理事をつとめた。

 主な著書に『台湾統治と阿片問題』(山川出版社、1983年)
『これが中国の政治システムだ!』(JICC出版局、1990年)
『香港クライシス!』(JICC出版局、1991年)
『台湾−四百年の歴史と展望』(中公新書、1993年)
『李登輝伝』(文藝春秋、1996年)
『香港ジレンマ』(中央公論社、1997年)など。
訳編に『トウ小平伝』(中公新書、1988年)
共著に『「大中国」はどうなる』「李登輝の台湾は『独立』するか?」(文藝春秋、1996年)など多数がある。

伊藤潔さんが逝って一年、合掌。
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<宮崎正弘の中国・台湾、北朝鮮関係著作>

 『中国から日本企業は撤退せよ!』(阪急コミュニケーションズ刊)
 『中国人を黙らせる50の方法』(徳間書店刊)
 『出身地でわかる中国人』(PHP新書、1月中旬増刷出来)
 『中国のいま、三年後、五年後、十年後』(並木書房)
 『朝鮮半島、台湾海峡のいま、三年後、五年後、十年後』(並木書房)
 『拉致』(徳間文庫)。
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  • SJ生 2007/01/152007/01/15

    平成19年(2007年)1月15日(月曜日)通巻第1676号での故伊藤潔(劉明修)教授を偲ぶ会の報告は、参加者や関係者の顔ぶれから、日台関係の有力な影武者の一人が去ったことをさりげなく伝えております。