国際情勢

宮崎正弘の国際ニュース・早読み

 評論家の宮崎正弘が独自の情報網を駆使して世界のニュースの舞台裏を分析

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宮崎正弘の国際ニュース・早読み

2005/12/23

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「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 
平成17年(2005年)12月23日(天長節)
        通巻第1337号  臨時増刊
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「三浦重周さんとお別れの夕」御報告
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 昨日(22日)午後六時より、東京市ヶ谷で急遽開催された「さようなら、三浦重周さん。三浦重雄さんとお別れの夕べ」には全国から多くの参加者があり、厳粛な雰囲気のなかにも盛大に執り行われました。
 主催者側の予測を遙かに越えて二百名以上の参加者の列で、用意した冊子、雑誌など、あはや不足かと思われるほどでした。
 会は参加者全員による献花、黙祷、国歌斉唱で始まり、最初に宮崎が経過を報告(以下に全文)、ついで後藤晋一より「三浦重周の思想、その人となり」(以下に全文)を報告。
 ひきつづき井尻千男氏(拓殖大学教授)が追悼の挨拶、さらに女優の村松英子さんによる献杯がありました。
 会場には入江隆則氏らのほか、故人が生前親しかった多くの著名人の顔もありました。
 ぎっしりと白菊の献花台、全国の皆さまから寄せられてご供花により、故人を葬送するにふさわしい、夥しい花輪が並びました。
また式場には故人の珍しい写真と、書の展覧会で特賞をとった掛け軸が飾られ、スライドの写真上映も併設して上映されました。
 懇談のあと、追悼挨拶は小田村四郎(前拓殖大学総長)、山口申(革新会議議長)、松本徹(文藝評論家)、古賀俊昭(都会議員)の各氏、このほか、政治学者・藤井厳喜、文藝評論家・富岡幸一郎氏らからのメッセージが朗読され、昔の学生運動の仲間、民族派諸兄からの追悼挨拶(馬場日出男、片瀬裕、比留間誠司、野間健氏ら)が続き、最後に全員で「海ゆかば」を二回合唱、読経のあと、高柳光明・元全日本学生国防会議議長らによる閉会の辞と続きました。
 以上ご報告申し上げます。
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資料(1)
「三浦重周氏追悼」経過報告(宮崎正弘) 

 いまから35年前、三島由紀夫、森田必勝両烈士が壮絶なる憂国の諫死をとげられた直後に、作家の山岡荘八先生が、つぎの献句を届けてくださいました。
「白き菊、捧げまつらむ憂国忌」
 本日の集まりも故人の遺影に白菊を捧げます。
 さて我々の思想的同士、かけがえのない友人だった三浦重雄さんは、さる12月10日、故郷・新潟の岸壁において、皇居遙拝をすませ、正座を崩さずに古式にのっとり切腹、56歳の生涯をみずから閉じられました。当日は凛烈な寒風が波止場に吹き付けており天候は吹雪でした。
 この静かなる切腹は大西中将、阿南陸軍大臣、大東塾の多くの烈士、江藤小三郎、そして村上一郎の系譜にも繋がるものです。
 三島・森田両烈士の義挙からはや35年。その追悼会「憂国忌」の裏方の責任者でもあった三浦さんは、みごとな統率力で本年の催しを無事終了させ、憂国忌の事後処理を終え、恒例の多摩霊園における墓前報告蔡など一連の行事を滞りなくおえて、さあ一杯やろうか、と言い合っていた矢先、先に旅立ってしまったのです。
 12月4日の墓前祭のあとの直会(なおらい)では、自決を決意していたそぶりさえありませんでした。
12月11日、第一報に小生は地面が揺れるような衝撃を受けました。
急遽、新潟へ向かいました。関越道のトンネルをでると大雪でした。猛吹雪のなか、仮通夜のおこなわれている新潟市内の兄上の自宅に伺ったのは午後十時近くになってしまいましたが、すぐに焼香させていただき、遺体と対面しました。その壮烈なデスマスクに深く感動して泪が止まりませんでした。
 兄上は「じつにみごとな最後でした」と静かな口調で言われました。
 翌12日の通夜と13日の本葬は近親者だけの密葬形式でおこなわれたため、皆さんへの連絡を差し控えさせていただきました。出棺後、火葬場まで立ち会って骨を拾いました。斎場へのみちのりは冬の新潟にふさわしい吹雪と日本海の荒波でした。しめやかながら粛々とした密葬でした。ご報告申し上げます。
 さて新潟に三日間滞在し、帰京いたしましたところ、メールや電話の回覧などで悲壮な自決を知った全国の皆さんから追悼の言葉、メッセージとともに、
「追悼の機会を東京でおこなってほしい」
「お別れをしなければ年が越せない」
などの熱烈な伝言のやまに囲まれておりました。
 直ちに故人の親しかった友人らに集まってもらい本日の催しを決め、短時日ながら懸命の準備をすすめてまいりました。
 お手元の小冊子も緊急に編集、さきほど刷り上がったものです。故人の辞世が二首。ならびに「白骨を秋霜にさらすを懼れず」という壮絶な決意をはやくからのべていた重遠社の結成趣意書の一部が掲載されております。
 また故人のめずらしい写真および年譜を掲載しました。くわえて三浦さんは卓越した書を残しております。書道を愛し、「毎日書道展」では数多くの入賞歴。東京都美術館で開催される国際書道展にも数々入賞しており、会場に展示しております掛け軸は平成十四年に特選を受賞したものです。殆どの人が知らないのは故人がシャイな性格だったので、ひけらかさなかったからです。
 晩年の三浦さんは思索と書道に明け暮れ、猛烈な量の論文とエッセイを綴りました。
じつは生前から書籍の出版計画があったのに、これまたシャイな性格からのびのびになっていたのです。
したがいましてこれら記念碑的論文をあつめ、来年の春頃を目処に三浦重周論文集の単行本を上梓する手筈となりました。本日お集まりの皆さまには後日、郵送させて頂きます。
 もうひとつ報告があります。
 来年の春頃を予定しておりますが、希望者をつのって新潟へおもむき自決現場および三浦家代々の菩提寺をたずねて焼香し、想い出を語り合いながら決意を新たにするツアーを企画しております。おそらく論文集の刊行前後にお知らせ出来ると思います。
 思い起こせば昭和44年3月、三浦重雄さんと小生は最初に出逢い、おなじ新聞配達仲間として同じ釜のめしを食べて37年間。長きに亘る交遊についての想い出を語り始めると尽きることがありません。
 最後に一言。三浦重周は高潔にして清貧のなか、高い志を最後までつらぬいた、まれにみる立派な生涯をおくった烈士でした。
 かれがそだてた若い人材は多く、これからの祖国の再建のために邁進してゆくと確信しております。また三島研究会公開講座、憂国忌はいずれも支障なく、いや拡大して継続していきます。
 以上をもちまして経過説明とさせていただきます。
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資料(2)
 三浦重周先生の思想、人となり
 後藤晋一

 三浦重周先生に師事し、ご指導を戴いておりました後藤晋一ともうします。
 30年近く前、三浦先生から一冊の古書をいただきました。戦後まもなく刊行された、精神的歴史主義に立つドウソンの「宗教と近代国家」という小冊ですが、その書の扉対向の白ページには、先生のクセのある筆跡で、次の言葉が、赤鉛筆で書き込まれております。曰く…、「近代の<神々>に死を宣告し/我らが神々の歴史的復権を!」
 その下には、「49.11.9」とありますので、25歳の三浦青年が発した激越ですが、若々しい気負いを伝え、その後終生一貫した強靭な思想性を表徴しております。
ある大思想家の言葉に、「偉大なことは、方向を与えることだ」というものがあります。
三浦先生は、維新革命への綱領問題に取り組み、方向を指し示すことに全精力、全生活を傾けてこられた方でありました。
 時間の制約から細かな経歴や、時代状況の説明は省略いたしますが、三浦先生は、昭和45年、早大入学と同時に、「反ヤルタ・ポツダム体制=日米片務同盟打倒」の反共・新民族主義路線を、学生戦線に提起していた、日本学生同盟に加盟します。そしてその年に、三島・森田両烈士による市ヶ谷台の義挙に直面しました。
 昭和48年、日学同の委員長となり、新民族主義政治党派としての「建党=建軍」路線を打ち出したことは、画期的でありました。また「建党=建軍」路線を担保する「鉄の規律」による組織論も、左右両翼の耳目を集めるものでした。
 日学同委員長退任後も、政治局長として組織理論に責任を持ってこられましたが、民族の歴史的危機が深まるなか、少年期から抱いてきた「維新革命」への熱誠は、学生運動という自己限定を越えて次なる構想へと向かい、昭和52年天長節の「重遠社」創建へと至りました。
 日学同=新民族主義運動十年の苦闘のなかから生まれた重遠社は、「…神州ノ不滅ヲ信シ 任重クシテ道遠キヲ念ジ 総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ 道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏(かた)クシ 誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ…」と示された、「終戦の詔勅」を絶対当為とし、綱領の第一に「敗戦国家の革命」を掲げ、民族派戦線に躍り出ます。
 三浦先生は、後期昭和維新派としての、強い自覚と責任のもと、大日本主義を掲げ、機関紙誌「新民族主義」「新秩序」に論陣を張り、多くの同志を糾合しました。
「思想の価値は感化力である」の言葉どおり、先生の諸理論は人々を魅き付けましたが、感化力の最大のものは、そのお人柄にありました。愛国の初発の「志」を純粋に保ち続けること。自覚と信念、生涯をとおして運動を続けることの大切さを教えてくださいました。
 多くの後進を、愛国者へと啓発してゆく先生は、その実践者としての普段の暮らしぶりは、厳格なまでに規則正しく清潔で、他に強いることはしませんでしたが、極めて質素な生活を続けられました。
さて三浦先生の思想にふれますと、国史への深い理解と知識、国法学者も舌を巻く、国体論によって論じられた、諸論文や講話のなかにその真骨頂はあります。
三浦先生の思想に影響を与えたなかに、三島由紀夫・森田必勝両烈士があることは、論をまちませんが、学生時代から京都学派になる書籍に数多くふれ、また京都学派の影響を受けた、文部省「国体の本義」は勉強会でもよく用いられた愛読書でありました。
戦前の昭和維新運動のなかで、北一輝と大川周明は、両雄として並び称され、強烈な人格と、拠って立つ運動体の違い、そして異なる暮らしぶりは、両者が袂を分かったこともあり、昭和維新史・精神史のうえでは、対極的に捉えられることがありますが、三浦先生のなかでは、両者の思想の精髄が矛盾なく血肉化されていました。
先生は、おりにふれ、北一輝の「支那革命外史」を繰り返して読んでらっしゃいました。この書から、革命哲学と、不撓不屈の革命家の魂を学ぶのだとおっしゃっていました。
また、大川周明の「二千六百年史」も、維新による祖国復興を確信させる、国史の基本文献として、つねに手元にありました。
博覧強記、記憶力のよさは、しばしばひとを驚かせました。高邁なわが国の歴史、文化が論じられるときも、ときおり、俗っぽい卑近なも話題も織り交ぜられ、気がつけば、美しい日本の歴史と、聞き手との一体感が得られるのでした。
二年程前、次なる論文の構想をお聞きしたとき、冗談めいておっしゃったことは、「あとはカント批判だけだな」という答えでしたが、思想的には、すでに完成された余裕の域にあったように思います。
 先生は日本民族の特徴を、自然崇拝、現世的、国家的と三つ挙げています。
今日の日本は、内に外に、反日・反国体勢力がうごめき、倫理・道徳は地を払い、心胆寒からしめるものがあります。
 しかし三浦先生は日本の将来を悲観することは、一切ありませんでした。
 歴史に精通された慧眼をもって、日本民族には、外圧が来るまで何も起こらないというお考えでした。
しかしそれは、ひたすら待機することではありません。
 先覚的愛国者が、たゆまず立ち上がり、運動を継続し、先人の精神を継承してゆくこと、今日このときにおける闘いの重要性を、ご自身の実践的生活のなかに、示されていたのでありました。
今日、皇室典範をめぐり、不易の皇統に、俗権が容喙しておりますが、このときにあって、先生の明快なるご高説に接しえぬことは悔やまれます。
 不世出の思想家であり、卓越した理論家であり、信念の指導者であり、慈愛に満ちた教育者でありました国士三浦先生の、思想と人となりをご紹介するには、はなはだ、いたらぬ話となりました。のちほど、諸先輩、同志諸賢の追悼のお話の中で、補っていただければ、有難く存じます。

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 このほか、会場では全国から参集した同士の懇談、決意表明。また「海ゆかば」の合唱がおこなわれました。
 近く、この模様を三島由紀夫研究会のサイトで報じます。また『月刊日本』の来月号で特集される予定です。
 ご参列の皆さま、有り難う御座いました。またご供花、弔電、メッセージをおよせいただいた皆さん、欠席ながらもメッセージを頂いたり、御供花をお送りいただいた皆さん、心からご芳情に感謝申し上げ、あつく御礼を申し上げます。
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(休刊のお知らせ)小誌は年末年始、行政スケジュール通りに休刊します。◎
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(今月の拙論)
(1)「中国の不衛生事情」(『新潮45』1月号、発売中)
(2)「ラオスで見たこと、感じたこと」(『月刊日本』一月号、発売中)
(3)「激変する南アジア情勢」(『自由』正月号)
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(読者の声1)筆者は、「何処ぞの馬の骨」に過ぎぬ身上であるので、「皇位継承」を論ずることには誠に畏(おそ)れ多いという思いを禁じ得ない。
 ある与党代議士政策秘書且つ政治学者且つ大学専任講師の方が、過日某新聞に以上のように書いていました。そんなことを云ったら誰も彼もこの問題に口を噤まざるを得ません。 おおいに論じ合いたいものです。この方は次のようにも述べています。
 皇室典範は、本来は皇室の「家法」なのであれば、それは「民主主義の手続」から超然としたものであるべきものではなかろうか。「国会の議決した」法律という皇室典範の現在の位置付けこそが、きちんと検証されるべき事項なのである。
 これには頓首。日本帝国憲法下(明治憲法と日和った表現はよくありません)に於いては、皇室典範は憲法から独立し、超越していました。
戦後占領下、GHGが皇室を貶め、ゆくゆくは消滅させようとの底意で、皇室典範を日本国憲法にぶら下げ、一法律に格下げし、窮屈なものに改悪したのです。この辺の議論をまず真性保守論陣は展開すべきです。  表層をなぞるだけの(と小生には思えます)継承順位の話はその後にしてほしいものです。
だいたい、 法律で継承順位を定める発想自体が、万世一系にそぐわないのです。薩長の田舎者が皇室典範を拵えた不遜を詰るべきです。 半可通の小生は調べておりませんが、江戸時代までの皇位継承のルールと決定の主体はどうだったのでしょうか? ファジーだったと思われます。
江戸時代、幕閣に連なる新井白石が、閑院宮家を創設するアイデアを出して、男系継承を護りましたが、 皇室・皇族だけの力では男系を護れず、局外者であるお江戸の力添えを必要とした時代があったのです。  2000年前後に亘る皇統の連綿をきちんと男系で護ることはけっして容易でなかったことの証左です。その時その時にさまざまな知見者・権力者が帷幄の奥深くの決定に関わり混乱・混迷・抗争を交えて支えてきたのです。 法律で定めるにしても複数者が後継候補となるようにして、その中から皇室ご自身と民意と知見者の意見を元に継承者が決まるプロセスを案出・創出すべきと考えます。 未来永劫混乱破綻のないように、一片の法律で決めようとする構え事態が安易であり、不遜です。 その時々、上を下への(大)騒ぎをしていいのです。
 それを避けようとしないことです。 さまざまな困難を経て護られた125代なのですから、これからも困難を懼れずに男系継承を護る総意を我々は抱きこの尊い日本を守るべきです。
    (HN生、丸の内)


(宮崎正弘のコメント)一月十四日、日比谷野外音楽堂において「皇室典範改悪阻止」の国民大集会がおこなわれます。午後一時から。集会のあと、デモ行進が計画されております。詳しくは『正論』二月号の広告をご覧下さい。
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(サイト情報)西尾幹二先生のブログに「憂国忌」での発言が収録されております。
http://nishiokanji.com/blog/
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<<宮崎正弘のロングセラーズ>>
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『中国よ、“反日”ありがとう』(清流出版刊、1400円+税)
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『瀕死の中国』(阪急コミュニケーションズ刊、1600円+税) 
『世界経済のいま、三年後、五年後、十年後』(並木書房、1575円)
『中国財閥の正体―その人脈と金脈』(扶桑社、1600円プラス税)
『拉致』(徳間文庫、590円+税)
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