国際情勢

宮崎正弘の国際ニュース・早読み

 評論家の宮崎正弘が独自の情報網を駆使して世界のニュースの舞台裏を分析

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宮崎正弘の国際ニュース・早読み

2005/11/23

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「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 
平成17年(2005年)11月23日(水曜日)貳
     通巻第1309号   <<憂国忌直前 増大号>>
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●憂国忌直前、三島由紀夫論をお届けします ! !
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 『三島由紀夫の日本回帰』
              宮崎正弘
 

 ▲ニュートラルな、富裕な経済大国が。
 
 三島由紀夫が自決する数ヶ月前の激甚な言葉が残っている。
「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このままいったら『日本』はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機質な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、ある経済大国が極東の一角に残るであろう」。 

この後に激越な文章が挿入されている。
「それでもいいと思っている人達と、わたしは口をきく気にもなれなくなっているのである」(産経新聞、昭和45年7月7日付け)。
 もし三島が生きているとすれば80歳だが、いまテレビなどで活躍する文化人の大半と口をきかないであろう。

 三島最後の文学作品は『豊饒の海』の第四巻「天人五衰」であり、しかも最終場面は「記憶も何もないところ」であり、「しんとしている」月照寺の庭の静寂さである。
 行動哲学の文章で自決数ヶ月前の論文が「革命哲学としての陽明学」。自決の日の檄文は「我々は四年待った」で始まり、憲法改正を主張し、自衛隊に決起を激烈に呼びかけ、そして壮絶に自決する。
 
 三島事件から35年、日本の思想界は依然として混迷の淵をさまよい、知識人の迷走ぶりはむしろ酷くなった。

このことを詳細に描こうとしたが、じつは私は五年前の『諸君』誌上で同様の事態を精密に書いており、いまの状況と文化人、学者、作家らの生態は殆ど変化がない事実に気がついた。

 三島由紀夫は文学活動のみならず、晩年の行動と自決を通して、日本におけるルネッサンスを企てたのではないか。
 文学的に言えば古今和歌集へ還ろう、というメーセージではないのか。

 日本の文化や伝統には土着的な独自性のうえに、海外から流入した夥しい文化と文明を独特に咀嚼、加味して自らの血液、肉体としたものが少なくない。
 たとえば千数百年前に日本に伝わった仏教がよい例であり、インドを源流とするにもかかわらず中国を経由したことで中国的な味付けが加わり、プリミティブな神道とも融合して神仏混交という一種独特な「日本教」になった。
 

 ▲大仏開眼は当時の万博である

 大仏開眼は、おそらく当時の万博に匹敵する世紀のイベントだった。
田中英道氏によれば遣隋使・遣唐使も日本から中国へ学びに行ったというより、日本に学びに来た「遣日使」のほうが多く、しかも知識人ほど日本に帰化することを望んだという。

 ローマ帝国時代のヘレニズム文化はシルクロードを通してペルシアやガンダーラに伝わり、遠く日本に及んだ。その影響は、たとえば奈良平安期の見事な仏像などに見ることが出来る。
 四百五十年前、日本に伝来したキリスト教は好奇心旺盛な日本人の間に熱病のように流行した。九州や関西の有力大名もこれを保護したけれど大友、大内氏らの主たる興味はポルトガルの鉄砲やヨーロッパ文明の利器の取得だった。

 覇者・織田信長に至っては、武装した仏教原理主義集団の政治力を減殺する梃子としてキリスト教を利用しようした形跡が濃厚である。
 徳川幕府がキリスト教を突如禁止したのが三百七十年前。明治維新前後の百四十年前に改めて伝えられるまで、およそ二百十年の間、日本でキリスト教は断絶したが、その間の文化鎖国時代が皮肉なことに日本文化のオリジナリティを豊かに育んだ。

 ところが経済繁栄に酔いしれ、平和のぬるま湯につかった戦後のまがまがしき時代にあって平均的日本人はといえば、結婚式をハワイかヨーロッパのキリスト教会で挙げ、正月には1億2千万国民のうち8千万人が神社へ初詣に繰り出し、しかも仏教儀式による葬儀で生涯を閉じる。
 外国からはいかにも日本人は矛盾に満ちた宗教観と見えるであろう。
 
 第二次大戦では日本はイタリア、ドイツと防共三国同盟を結んだが、戦勝国になることは出来ず、敗戦から七年間、日本は米軍の占領の下、主権喪失の状態となった。

 三島由紀夫の文学的出発は、この日本の主権喪失の時代にぴたりと重なっている。
 三島文学が価値紊乱の真っ只中で誕生している点に留意しておく必要がある。その無力感を如実に表したのは『鍵のかかる部屋』である。
 GHQに憲法まで押し付けられ、しかもそれは不磨の大典のごとく戦後六十年間、一度の手直しもなく押し頂いたまま「平和主義」者によって墨守されている。こんにち、日本を混乱させている大本はこの外国製の憲法にある、と三島は考えた。


 ▲占領下日本人の複雑な心理

 戦争中の三島の文壇デビュー作は、まるで平安文学のような王朝絵巻、十代の作品群にも天賦の才能の萌芽は窺えるが、『仮面の告白』『盗賊』など、若き日の出世作は西洋の小説を思わせる華麗な心理描写に力点を置いたもので米軍占領下の心理を反映している。
 
 一方で、日本が主権を回復したあとの三島作品には並々ならぬギリシアへの憧憬、ヘレニズムの彫刻美、西洋文明への憧れが籠められており、占領下の作品とも後期の作品とも際だった対照をなしている。

ギリシア神話に題材を求めた『潮騒』(一九五四年)と京都の金閣寺炎上事件をモデルとした『金閣寺』(一九五六年)によって、三島は日本における現代文学の代表選手の地位を得た。
作品が文壇を席巻し、外国語の翻訳が出始めると三島は外国からの鋭い目に晒されるようになる。
外国のマスコミ、外国の研究者、外国の読者を意識することで、独特な日本のアイデンティティを模索するようになったのはごく自然なことだった。

 大雑把に総括すれば三島の日本回帰とは、日本の主権喪失時代(一九四五年〜一九五二年)という長い潜伏期に十代で親しんだ王朝文学から個性を重んじる西洋的意識を全面にさらけ出し、ギリシア、フランスへの憧れ時代を経て、古今集へ、そして日本ロマン派へと徐々に回帰してゆく過程である。
 これは同時に昭和精神史の貴重な軌跡とも重なる。晩年の四年間で奔流のように噴出した三島由紀夫の伝統回帰も、急激に、突然変異のようにおとずれたものではない。


 ▲文学は経国の大業である
 
 古今集は「文学は経国の大業である」とし、漢詩の全盛時代に現れた。
 往時、日本の中央政府の文書はすべて中国に倣って漢文を使っていた。この状況は戦後の主権喪失時代に酷似し、ある学者は日本語を止めてフランス語にしたらと本気で主張し、俳句は世界レベルからみてもローカルな芸術と自虐的論理が蔓延った。

 喜怒哀楽の心情を詠んだ『古今和歌集』という伝統回帰、伝統創造文学の編纂の基本は(力に依らず)「天地(あめつち)を動かす」ことであった。

 古今集は和歌を漢詩文に相応する地位に引き上げ、和歌を経国の大業にまで発展させた。人々のこころを大きく揺らし、社会を動かす情緒を扱った古今集にこそ日本文化の原点があると三島は考え、強く惹かれたのだ。

 現実の世界を飛び越え、「文学の世界がすべて」という新古今集の文学理念から「天地を動かすのは文人」という古今集の考え方への復帰なのである。
 新古今的な三島作品の分岐点は『金閣寺』であり、以後の作品は『古今集』へと傾斜、回帰してゆく。

 三島は「古今集という存在は宇宙に存在するすべてのものを秩序だてている」と語った。「秩序があるから天地を動かすことが可能になる」と考え、その秩序体系をなすのが「みやび(雅)」として『文化防衛論』の要諦としたのだ。

 天皇を中心とした文化体系こそが日本にとって最も大事な伝統的価値であるにもかかわらず、明治以降、近代化の道を突っ走った日本の近代百年の文学は個人を中心とするレベルに逸してしまった。
 精神、文化の有り様が借り物になるのだが、第二次大戦の敗戦によって、さらに致命的な地盤沈下に至る。

 晩年の三島は、四部作『豊饒の海』が終わったら、「いつか藤原定家を書きたい」と度々発言していた。その真意は日本の精神復興にあったのには疑念の余地がない。


 ▲60年代とはいかなる時代だったのか?

 ここで一九六〇年代という特殊な時代に焦点をあててみよう。
 一九六〇年、日本は大きな政治転換期を迎えた。日米安保条約の改訂は米国が日本を軍事的に保護するかわりに、米軍による日本の軍事占領を合法化したものだが、当時の岸信介首相はこの条約内容を日米両国が対等の立場に改訂しようと考えた。

 ところが、日本の多くのインテリは安保条約反対の列にいた。条約の改定内容を誰も精密には検討していなかった。こうした知的退嬰的状況にあって三島の政治的立場は明快ではなかった。

 西側先進国でも一九六〇年代後半からは「反戦リベラリズム」という左翼思想が巧妙に復活し、世界のキャンパスを席巻していた。
 フランスの五月革命に端を発したリベラリズムの猛烈な学生運動は欧米で猖獗を極め、ダニエル・コーンバンディやジョーン・バエズの反戦歌を流行させた。米国のベトナム反戦運動はヒッピー文化とマルクーゼ、西欧では「死より赤がいい」とする八〇年代の反戦運動に繋がっていく。

 日本では文学がマルクス主義を掲げる過激派に乗っ取られたかの様相を呈し、学問の自由は奪われ、日本の伝統は顧みられなくなっていった。

 三島の唱えた「日本の伝統、道統を守る」とは、「生命をかけて天皇を守り抜く」ことに収斂されるが、そのためなら過激派の全共闘とも共闘はあり得るといって憚らなくなった。二十代の三島にはついぞなかった爆発的な姿勢の顕現である。
 この開き直りともとれる三島の姿勢の変化!

 二十代の三島は軍人や右翼に何ほどの関心も示していない。随筆や旅行記のなかに、憂国の志士たらんとする激しい記述を見いだすのは困難である。
 三十代で書いた文学的回想記『私の遍歴時代』のなかに出てくる日本浪漫派の巨匠・保田與重郎との出会いにしても、きわめて淡泊であり、保田に或る距離を置いた表現が見えるのみである(晩年の三島は保田を思想界のチェ・ゲバラと比喩したそうだが)。

 十代の三島は『ドルジェル伯の舞踏会』を繰り返し読んだ、と熱っぽく語った。
 西欧文学の心理描写に影響を受けた若き日の三島作品に繰り返し現れるのは、レイモン・ラディゲの夭折への羨望、ギリシアへの憧憬だった。純粋にボディビル・ビルを始めた動機もギリシア彫刻の肉体美への憧れの表出であり、六〇年代前半までに書かれた『鏡子の家』にも、『愛の渇き』にも「伝統を守る」姿勢は明確には見えてこない。
保守的な思想はほとんど見あたらないのだ。


  ▲精神的トラウマを克服

 一方で少年時代から腺病質だったうえに戦争で死に遅れた、という二つの精神的トラウマが三島を深く悩ませていた。
 
この輻輳したコンプレックスから自己を開放すべく、三島は流行作家になってから猛然と肉体を鍛え始めるのだが、そこにも幾重にも防護壁をめぐらしていた。
 
ところが人工的に鍛え上げた肉体がギリシア彫刻に近づき始めると、外へ向かって極めて大胆に、挑戦的になる。
 人前で肉体をさらし、細江英公の「薔薇刑」のモデルになり、「聖セバスチャンの殉教」のモデルまでを演じ、ホモ・バアへ仰々しく出入りし、文学以外の分野でも自信に溢れ始める。自宅の庭にアポロン像まで据えて。

 一九六三年に右翼思想の警察官と上司の裏切りを描いた『喜びの琴』で、左翼的だった文学座と正面衝突した。自覚があったかどうか、三島は、この事件を直接の契機として日本回帰の行動パターンを急激にかつ顕著に示し始める。

 文学座は左翼のインテリや演劇人の集まりだが、三島はその劇団のために度々脚本を書いていた。文学座は三島を「座付き作家」と錯覚していた。この事件以後、日本の文学運動は左右に分裂し福田恒存、三島由紀夫、浅利慶太らが一方の雄になった。
 当時、『喜びの琴』を褒めたのは林房雄と川端康成くらいで、ライフワーク『豊饒の海』の構想が具体化したのもこの頃である。

 四部作を語る三島の口調は自信に溢れていた。
 インド、タイなどに取材旅行を重ね、『豊饒の海』の執筆に全精力を傾注する。インドではエローラ、アジャンタの石窟遺跡とベナレスを訪ね、タイにはゆったりと滞在して『暁の寺』の舞台となる王宮のスケッチなどを行っている(徳岡孝夫『五衰の人』)。
 
 三島の著作に「思想」が顔を現し、伝統回帰の姿勢が際立つようになるのは一九六七年あたりからだ。

当時、世界中でいくつもの紛争と戦争が起こり、とくにベトナムでは多くの若者が戦死していた。ところが米軍という巨大な楯の内側にいる日本はアジアの紛争にもほとんど無関心でいられた。まるで保護領として経済的繁栄に酔いしれ平和のぬるま湯にどっぷりと浸かった様は、まさにカルタゴの末期状況。この日本に焦れ、三島は次第にいらだちと怒りを示す。
「芭蕉も西鶴もいない昭和元禄」と三島は大書した。

 三島が新作を発表するたびに、そこに籠められた日本伝統回帰の思想性に文壇はたじろぎ、言を左右にして明確な評価を避けるようになる。嗚呼、事件から三十五年を経たいまでも、三島を論ずるのに果てしなく迷走する知識人がなんと夥しいことか。
 軍部のクーデタ未遂を肯定的に描いた『憂国』は、自らメガホンをとって映画にもしたが、強烈なエロスの物語に仮託した所為で芳しい評価は得られなかった。この映画のフィルムはそのままのかたちで最近三島家から発見され、近くDVD化される。


 ▲『奔馬』と神風連と

 三島はこの頃、テロリスト青年を描く『奔馬』を執筆中で、神風連の精神性にのめり込んでいた。
 明治維新がなって九年、徳川幕府を倒した心意気はどこへやら、新政府高官は改革の理想を忘れ、外国に弱腰なだけでなく権力をかさに着て公私混同激しく、精神的にも堕落していた。

 明治維新の革命思想の中心をなしたのは吉田松陰と十六人の弟子達だが、本来の日本精神回復の必要にかられた下級武士達が決起した。神風連の乱は直ちに鎮圧されたが、翌年の西南戦役の導火線となる。この神風連が四部作の第二巻『奔馬』の中心に据えられた。

 三島由紀夫はこの作品のなかに自らの政治行動哲学を込めた。
(権力を奪取するのではない。乱れた世を覚醒させるために行動する。それ以上でもなく以下でもない。そこに一片の打算もない)というメッセージである。
 この三島の信条は極めて情緒的なため外国人の理解は難しいけれども、神風連の思想的根源をなす林桜園の考え方に通じる。

 林桜園は、
「世の中はただなにごともうちすてて神をいのるぞまことなりける」と詠んだ。

 大田黒伴雄(神風連の首謀者)は、
「起きていのり伏してぞ思う一筋は神ぞ知るらむわが国のため」
 と詠み、

首謀者の加屋霽堅も、
「八百万神にぞいのる一筋は世にこそかかれ身をば忘れて」
 
と詠んでいる。
三島はこの加屋の遺墨を「奔馬」初版本の扉に使ったほどに感動した。


 ▲70年安保への異常な関心

 ついで70年代へいたる学生運動の変質と三島文学の変化に焦点を当ててみよう。
 青年時代、兵役検査に不合格であったことは、三島の心に深いトラウマを残した。青年の矜持はまるで放り出されたボロ雑巾のごとくであったかも知れない。当時の日本人は、バルチック艦隊を殲滅した東郷平八郎元帥のような軍人を理想としたのだから。

 戦後しばらくは乗馬などという貴族趣味も試みたが、一九六〇年頃から荒々しいボクシング、ボディビル、剣道、そして空手へと進む。はじめはひそかな趣味とされた同性愛の隠れ蓑だったはずのギリシア彫刻の美を追い求める過程で、三島は男らしさという美学に目覚めてゆく。

 かくして戦争で死ねなかったという抜きがたい強迫観念、青年期のトラウマを克服した三島の周囲に新しいうねりが始まった。

 一九六七年から左翼の学生運動は暴力化とともに四分五裂を始めていた。
 一方で反共・伝統回帰派の学生運動は急速な拡がりをみせだした。この頃になると、世は道徳など薬にしたくも見あたらないといった有様、学生が教授を殴り、高校生が口角あわをとばして先生に文句をつける索漠とした時代の到来だった。

 イデオロギーの対立と流血騒ぎに明け暮れる若者達の姿はあまりに異常だった。三島は左翼学生に対して思想的な違和感だけでなく、道徳的な怒りを感じていた。

 学生運動の暴力化で道徳の崩壊はさらに顕著になっていく。長引く大学の荒廃に憤り、対話を回復して大学を学問の府に戻し、暴力学生を排除しようという「伝統回帰派」が全国でようやく結束して立ち上がる。
 長い間待ち望んだときがついに三島に巡ってきた。『喜びの琴』や『憂国』を著した三島と血気盛んな青年達との劇的な邂逅が、三島の夢をたぐり寄せてゆく。

 一九六七年二月に発刊された伝統回帰派学生達の機関誌「日本学生同盟」創刊号は、三島由紀夫の推薦文を華々しく掲げている。三島は新しい学生運動の誕生に「天窓をひらく快挙」と手放しの賛辞を寄せた。
 同年四月には森田必勝も加わって「早大国防部」が創設された。周知のように森田は三島切腹の介錯を行い、その後、彼自身も自刃した。

 このような保守派の学生グループが大学に出来たことは戦後初めてのことだったので、マスコミが「学生運動に日の丸派」などとして大きく取り上げ、国防の重要性、自衛力の強化を訴える学生の言葉にも熱がこもった(これらの経緯は拙著『三島由紀夫”以後”』(並木書房)を参照)。


 ▲若者を嫌った三島が若者に感動

 しかしながら伝統回帰派の学生運動には、マルクス・レーニン主義のように体系だったイデオロギーや党派の理論テキストはなく、まして組織運動の経験もほとんど皆無。たとえばムッソリーニのような、抜きんでた指導者が不在だった。
 三島がひそかに自衛隊体験入隊を行ったのはこの頃のことだ。第一回目は四、五回にわけて、合計四十日間。

 当時英紙『フィナンシャル・タイムズ』の東京特派員だったスコット・ストークスがただ一人、取材を許されて日程の一部に同行するのは一年後の体験入隊である。ストークスは事件後に英語版の三島由紀夫伝を著すことになる。

 盛んに学生と交流してゆくうちに、三島の私兵軍団の構想が急激に具体化した。「日本回帰」を肉体で示し、行動で著すのである。

 三島由紀夫は大衆的組織運動には終始、何ほどの興味も示さなかった。かといって芸術至上主義に徹しているのでもなかった。このとき、彼をとらえていたのは国のために決然と身を捨てた大塩平八郎であり、西郷隆盛であり、楠木正成だった。
 行動を起こしたあとは潔く散華するという生き方が三島を捉えていた。
 神風連や二・二六事件の青年将校のように純粋な兵士達の列に加わりたいというこだわりがあった。生涯を通じて権力には恬淡としていた。だから学生たちよりも遥かに過激に見えた。

 一九六八年一月に起きた「佐世保闘争」を例にとろう。
「佐世保闘争」なるものは米国の原子力空母エンタープライズの佐世保入港を「実力阻止」しようと左翼系各派が糾合した大規模な社会的騒擾である。左翼学生達は、仮にも「米空母寄港阻止」を唱えて「言挙げ」をしたのだ。だとするならば論理的帰結として爆弾を抱えて原子力空母に体当たりするなり、飛行機を乗っ取って艦を攻撃するなり命がけの抗議を行うのではないか? 

  三島はそのことを密かに懼れ、しかし一方でかれらに期待を抱いた。(先を越されるのでは?)と。
 ところが彼らは舞台で下手な役者が演技をするように連日カメラを意識したデモを繰り返すだけだった。「言挙げに責任をとる」という伝統的な日本の武士の発想はなかった。
 三島はこの「佐世保闘争」に呆れかえって、左翼学生、その背後にいた左翼文化人に明確に見切りをつけた。


 ▲ことあげに責任をとったか?

 一年後に東大に機動隊が導入され、安田講堂が破壊されるだが、この時にもいったい何人が本気で死ぬか。たとえば安田行動に立て籠もった彼らの、いったい何人がそこで自決するのかの一点に三島は並々ならぬ関心を寄せ凝視していた。
 結果は周知の通り、一人も死ななかった。三島事件後、これらの左翼学生のかなりが深刻な影響を受け、その一部は伝統回帰派に合流しているのだが、これは余談。

 かつて六〇年安保で左翼に収斂されたパトリオティズム(愛国心)が一九六四年の東京オリンピックで体制側に収奪された。その後は共産党も自民党もこのパトリオシズムの奪い合いをやっている、と三島は度々叙述し、かつ講演でもそう発言していた。

 日本が守るべきは伝統の象徴としての天皇。すなわち「三種の神器」だという、極めて情緒的な考え方に基づいていた。石原慎太郎はこの歴史的な比喩が分からず、対談でも「三島さん、三種の神器ってなんですか」と質問する有様だった。

 日本浪漫派はロゴスよりパトスを重要視するのだが、「保守派」と一括して表現しても、厳密にいえば、伝統回帰派と体制保守派、宗教保守派などがあり、その各々の考えは自ずと異なっていた。
 それでも主要敵=共産主義の跳梁跋扈を前にして、大同団結が可能なはずとする幻想に強く支配された。

 この保守幻想は一九六〇年の国家的危機を回避するまではボロを出すことなく通用してきたので「七〇年安保」でも通用するはず、と当時の多くの保守系知識人や実践家たちは考えたのだった。


  ▲革命幻想
 
 しかし「七〇年安保」は左右が激突する政治決戦になるだろうと三島は考えた。三島をよく識るものは「三島が一九七〇年に何か事を起こしそうだ」という予感が兆すようになる。

 一九六八年六月十五日の「全日本学生国防会議」結成大会で森田必勝が議長に就任するときいて、わざわざ会場に駆けつけた三島は、飛び入りで万歳三唱を行った。さらにタクシーで伝統回帰派の学生達によるデモの伴走まで行った。思い入れのほどが伝わるエピソードである(詳細は森田必勝『わが思想と行動』(日新報道)を参照)。

 併行して、三島のプライベート・アーミーの準備は本格化していた。
 この私兵軍団は同年秋にようやく四〇名ていどのメンバーが集まり、三島小隊の体裁が整う。その中枢をなしたのは伝統回帰派の学生である。

 ほかの多数も保守主義者の集合ではあったのだが、ノンポリ、あるいは三島ファンというだけの文学マニアも混在し、八〇人余に膨れあがり、主導権争いが起こり、さまざまな確執があった。そうこうしているうちに初期の主力メンバーたちが三島から離れてゆく。

 それでもこの楯の会のなかに三島の意を汲もうという若者が控えていた。それが森田必勝だった。
 一九六九年一月、森田は自派を率いて所属していた伝統回帰グループの「日本学生同盟」を脱会し、やがて森田とそのグループが楯の会の新しい中核となり、森田自身は二代目の学生長として同年十一月三日の明治節(文化の日)に開かれた「楯の会」お披露目パレードを仕切ることになる。
 そして私兵軍団=楯の会の責任者が森田必勝になってから、三島の行動スケジュールは大きく修正された。

 三島によれば、七〇年安保は「斬り死する」場だった。ところが一九七〇年の幕が開けると、赤軍派のハイジャックに象徴されるように、先鋭化した左翼学生運動は一般学生にそっぽを向かれ、追いつめられていく。
 対抗勢力の退潮とともに伝統回帰派にも停滞傾向が現れ、緊張感は一気に崩れて三島の望んだ「斬り死にする」舞台も消滅するかに見えた。

 稀代の芸術家である三島は、人生の最期の舞台選びを模索していた。
 三島の道徳観はあくまで儒教的であり、武士道の心得を説いた『葉隠入門』を座右の書として、石原慎太郎(現東京都知事)との「士道」を巡る論争でも、自民党に属しながら「反党的言辞」を弄するのは道義、士道にもとると石原を糾弾し、譲らなかった。
「昔の武士は藩に不平があれば諫死した。さもなくば黙って耐えた。なにものかに属すということはそういうこと」(毎日新聞、昭和四十五年六月十一日)という主張は葉隠れの精神そのものである。

 森田必勝との邂逅で、三島は望みを大きく前進させた。三島と森田が意気投合するにつれ、ほかの楯の会のメンバーは置き去りを食らう形となってゆく。
 一九七〇年十一月二十五日、自衛隊に隣接する市ヶ谷会館に集合を掛けられた楯の会のメンバーは三々五々、制服に着替えるなどして例会の開始を待っていた。

 まさにそのとき、東部方面総監室で三島自決の報がもたらされた。自ら作った楯の会の大多数のメンバーがあずかり知らぬところで、森田を中心とする四人だけで行動は起こされた。

 三島の遺書は一九七〇年六月に用意されていた。森田必勝も日記の整理を開始し、辞世の準備に取りかかっていた。
 三島自身が作った楯の会であるがゆえ檄文と同時に楯の会主要会員に託された「命令書」には、「楯の会解散」が書かれていた。

「三島事件」は幕府のやり方に抗議して蜂起した大塩平八郎のようでもあり、古今集のように清澄な精神面での所産のようでもある。
 
 ノーベル文学賞を授与された川端康成は日本の美をあらわした作家だが三島は美の探求を突き抜けて、伝統回帰の熱狂に至った。いわば三島は「伝統回帰」を最も効果的に訴えるために政治行動を起こしたとする解釈が成り立つのである。
 
 三島事件は日本ばかりか、全世界に巨大地震並みの衝撃を与えた。
 事件以後、左翼をのぞく日本人の間に活発な憲法改正論議を呼び起こし、論壇に保守主義への本格回帰の潮目を作ることになった。

 日本人のこころを激しく揺さぶった問いかけは、時空を超え、精神的な波紋となっていまも拡がり続け、黛敏郎(作曲家、故人)はこれを「精神的クーデタ」と表現した。
 日本人の襟元をつかんで、激しく精神の覚醒を促した三島由紀夫の行動は、まさに古今集の「天地を動かす」行為となった。

 (この文章は『日本文化』平成17年秋号掲載の拙稿を再録したものです)。
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 憂国忌まで、あと二日 ! 
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  三島由紀夫氏没後35周年追悼「憂国忌」は11月25日です。
         記
 とき   11月25日(金曜日) 午後6時(五時開場)
 場所   九段下 九段会館大ホール
 http://www.kudankaikan.or.jp/flash/index.html
      鎮魂祭(乃木神社宮司、神官による。祭主(小田村四郎)
スライド「薔薇刑」上映と解説(細江英公)。未公開の写真が多く含まれます。

<シンポジウム>「あれから35年、現代日本はどうなってしまったのか」
井尻千男、入江隆則、サイデンステッカー、西尾幹二、村松英子
詳しくは http://www.nippon-nn.net/mishima/index.html
参加費  おひとり 2000円(会場分担金です)
特典   参加者全員に記念冊子(24ページ)を差し上げます。
その他  三島関連本などの販売があります(一部書籍は割引も)! また季刊『三島由紀夫研究』の創刊号も憂国忌に間に合う予定。英語版『薔薇刑』、細江英公『ざっくばらんに話そう』『なんでもやってみよう』。拙著『三島由紀夫はいかにして日本回帰したのか』などもロビィで販売。  
 
  ◎「憂国忌」は国民行事、どなたでもご参加頂けます!
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    << 宮崎正弘の三島論 >>
『三島由紀夫“以後”』(並木書房、1700円+税)
『三島由紀夫はいかにして日本回帰したのか』(清流出版、1800円+税)
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<再録>

あの「檄文」再録
 昭和45年11月25日
 「檄」
                 楯の会隊長 三島由紀夫

       われわれ楯の会は、自衛隊によつて育てられ、いわば自衛隊はわれわれの父でもあり、兄でもある。その恩義に報いるに、このやうな忘恩的行為に出たのは何故であるか。かへりみれば、私は四年、学生は三年、隊内で準自衛官としての待遇を受け、一片の打算もない教育を受け又われわれも心から自衛隊を愛し、もはや隊の柵外の日本にはない「真の日本」をここに夢み、ここでこそ終戦後つひに知らなかつた男の涙を知つた。ここで流した我々の汗は純一であり、憂国の精神を相共にする同志として共に富士の原野を馳駆した。このことには一点の疑ひもない。われわれにとつて自衛隊は故郷であり、生ぬるい現代日本で凛烈の気を呼吸できる唯一の場所であつた。教官、助教諸氏から受けた愛情は測り知れない。しかもなほ、敢てこの挙に出たのは何故であるか。たとえ強弁と云はれようとも、自衛隊を愛するが故であると私は断言する。
       
        われわれは戦後の日本が経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずにして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。
       政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力慾、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みをしながら見てゐなければならなかつた。われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されてゐるのを見た。しかも法理論的には、自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によつてごまかされ、軍の名前を用ひない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因をなして来てゐるのを見た。

        もつとも名誉を重んずべき軍が、もつとも悪質な欺瞞の下に放置されて来たのである。自衛隊は敗戦後の国家の不名誉な十字架を負いつづけて来た。自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与へられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与へられず、その忠誠の対象も明確にされなかつた。われわれは戦後のあまりに永い日本の眠りに憤つた。自衛隊が目ざめる時こそ、日本が目ざめる時だと信じた。自衛隊が自ら目ざめることはなしに、この眠れる日本が目ざめることはないのを信じた。憲法改正によつて、自衛隊が建軍の本義に立ち、真の国軍となる日のために、国民として微力の限りを尽くすこと以上に大いなる責務はない、と信じた。
       
        四年前、私はひとり志を抱いて自衛隊に入り、その翌年には楯の会を結成した。楯の会の根本理念は、ひとへに自衛隊が目ざめる時、自衛隊を国軍、名誉ある国軍とするために、命を捨てようといふ決心にあつた。憲法改正がもはや議会制度下ではむずかしければ、治安出動こそその唯一の好機であり、われわれは治安出動の前衛となつて命を捨て、国軍の礎石たらんとした。国体を守るのは軍隊であり、政体を守るのは警察である。政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によつて国体が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであらう。日本の軍隊の建軍の本義とは、「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」ことにしか存在しないのである。国のねぢ曲がつた大本を正すといふ使命のため、われわれは小数乍ら訓練を受け、挺身しようとしてゐたのである。
       
        しかるに昨昭和四十四年十月二十一日に何が起こつたか。総理訪米前の大詰といふべきこのデモは圧倒的な警察力の下に不発に終わつた。その状況を新宿で見て、私は「これで憲法は変わらない」と痛恨した。その日に何が起こつたか。政府は極左勢力の限界を見極め、戒厳令にも等しい警察の規制に対する一般民衆の反応を見極め、敢えて「憲法改正」といふ火中の栗を拾はずとも、事態を収拾しうる自信を得たのである。治安出動は不要になつた。政府は政体維持のためには、何ら憲法と抵触しない警察力だけで乗り切る自身を得、国の根本問題に対して頬つかぶりをつづける自信を得た。これで、左派勢力には憲法護持の飴玉をしゃぶらせつづけ、名を捨てて実をとる方策を固め、自ら護憲を標榜することの利点を得たのである。名を捨てて、実をとる!政治家にとつてはそれでよからう。しかし自衛隊にとつては、致命傷であることに、政治家は気づかない筈はない。そこでふたたび、前にもまさる偽善と隠蔽、うれしがらせとごまかしがはじまつた。
       
        銘記せよ! 
       実はこの昭和四十四年十月二十一日といふ日は、自衛隊にとつて悲劇の日だつた。創立以来二十年に亙つて、憲法改正を待ちこがれてきた自衛隊にとつて、決定的にその希望が裏切られ、憲法改正は政治的プログラムから除外され、相共に議會主義政黨を主張する自民党と共産党が、非議会主義的方法の可能性を晴れ晴れと払拭した日だつた。論理的に正に、その日を堺にして、それまで憲法の私生児であつた自衛隊は、「護憲の軍隊」として認知されたのである。これ以上のパラドックスがあらうか。

        われわれはこの日以後の自衛隊に一刻一刻注視した。われわれが夢みてゐたやうに、もし自衛隊に武士の魂が残つてゐるならば、どうしてこの事態を黙視しえよう。自らを否定するものを守るとは、なんたる論理的矛盾であらう。男であれば男の矜りがどうしてこれを容認しえよう。我慢に我慢を重ねても、守るべき最後の一線をこえれば、決然起ち上るのが男であり武士である。われわれはひたすら耳をすました。
       
        しかし自衛隊のどこからも、「自らを否定する憲法を守れ」といふ屈辱的な命令に対する、男子の声はきこえては来なかつた。かくなる上は、自らの力を自覚して、国の論理の歪みを正すほかに道はないことがわかつてゐるのに、自衛隊は声を奪はれたカナリヤのやうに黙つたままだつた。われわれは悲しみ、怒り、つひには憤激した。諸官は任務を与へられなければ何もできぬといふ。しかし諸官に与へられる任務は、悲しいかな、最終的には日本から来ないのだ。シヴィリアン・コントロールは民主的軍隊の本姿である、といふ。

        しかし英米のシヴィリアン・コントロールは、軍政に関する財政上のコントロールである。日本のやうに人事権まで奪はれて去勢され、変節常なき政治家に操られ、党利党略に利用されることではない。この上、政治家のうれしがらせにのり、より深い自己欺瞞と自己冒涜の道を歩まうとする自衛隊は魂が腐つたのか。武士の魂はどこへ行つたのだ。魂の死んだ巨大な武器庫になつて、どこへ行かうとするのか。繊維交渉に当つては自民党を売国奴呼ばはりした繊維業者もあつたのに、国家百年の大計にかかはる核停条約は、あたかもかつての五・五・三の不平等条約の再現であることが明らかであるにもかかはらず、抗議して腹を切るジェネラル一人、自衛隊からは出なかつた。

        沖縄返還とは何か? 本土の防衛責任とは何か? アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年のうちに自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終わるであらう。
       
        われわれは四年待つた。最後の一年は熱烈に待つた。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけには行かぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待たう。ともに起つて義のために共に死ぬのだ。日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまつた憲法に体をぶつけて死ぬ奴はゐないのか。もしゐれば、今からでも共に起ち、共に死なう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇へることを熱望するあまり、この挙に出た
のである。
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憂国忌は25日(金曜日)午後六時開演(九段下 九段会館大ホール)
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創刊日:2001-08-18  
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