国際情勢

宮崎正弘の国際ニュース・早読み

 評論家の宮崎正弘が独自の情報網を駆使して世界のニュースの舞台裏を分析

全て表示する >

宮崎正弘の国際ニュース・早読み

2005/09/27

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
<< バングラデシュ取材日記 >>

(某月某日)バングラデシュって何処にあるの?
首都ダッカという都市名を聞くと、日本人がすぐに連想するのは1977年の「ダッカ事件」だろう。当時の福田赳夫首相は「生命は地球より重い」とかの“迷言”を吐いて、日本赤軍=ハイジャッカーに膨大な身代金を支払い、世界から失笑を買った。ハイジャッカーはドル紙幣の束をもってリビアへと逃げた。
バングラデシュの軍隊が、このとき強桿ながらも沈着冷静、異常事態に対応したことを私たちは記憶している。意外に兵士にインテリがいて、判断力もよく、体力も強い。だからバングラデシュ軍は、テロリストに簡単に屈した日本を嗤った。
バングラデシュ! 
1971年にパキスタンから独立した新興国家である。しかも国旗は日の丸に似て白地に赤くではなく、♪「緑地に赤く。。」だ。(本当は独立戦争のとき、赤丸のなかに国土をあらわす地図が凹凸に挿入されていた事実を滞在中に見学した博物館の実物をみて知ったが)。
国旗をみると自然に親しみが湧く、このバングラデシュは北と東西をインドに挟まれ東隣がミャンマー、また北の印度領を越えて、すぐにネパールにつながる。南はベンガル湾。
国土面積は北海道の二倍の広さしかないちっぽけな土地に、日本の総人口より多い、一億四千万の国民が暮らす。人口密集度は世界一のレベル。
九割がイスラム教を信じているとされ、一割がヒンズー教徒だ。
 72年初頭に私はインド各地を旅したときに各所でパキスタン兵の捕虜収容所をみた。現在のパキスタンは当時の「西パキスタン」で、インドを越えてベンガルに拡がるイスラム地域が、「東パキスタン」だった。東パキスタン(ダッカ)は西(カラチ)からの干渉を嫌い、独立を求めたときにインドが支援し、独立戦争に勝てた。独立運動指導者のラーマンは英雄になり、亡命先のイギリスから帰国、日本にもやってきた。しかし大統領になって一族の腐敗汚職が絶えず、まもなく暗殺された。
 他方、パキスタンはインドへの怨念がつのり、中国から軍事援助を得て、ミサイル開発から、ついには核武装へといたる。
 インドはいまもバングラデシュの「保護者」である。インド東端の巨大都市=カルカッタ(コルカタ)は、ベンガル人の町。民族的にはバングラデシュとおなじである。
バングラデシュの国名の由来は「ベンガル人の国」、要するにインドは「ヒンズー教徒の国」だから現地では「ヒンズースタン」と呼ばれるようにバングラデシュは、「ベンガルスタン」と呼ぶべきかもしれない(スタンは「場所」「国」を意味する)。

 さて週に一便、東京からダッカへ「ビーマン・バングラデシュ航空」の直航便がある。エアバス310型だ。あとはシンガポールかクアラランプール乗り換えのため、この直航便は一月前に、もう予約で満員になる。
週一回だけの直行便を利用するとなれば、滞在は一週間が最低の単位になる。私も、したがって一週間かけてバングラ各地をまわった。
私の隣りの座席に偶然すわったのは褐色丸刈りのバングラ人で、日本に滞在十一年。ペンキ工で日給二万円。お土産をどっさりと抱え二年ぶりの里帰りという。
 バンコックで給油するので、往路は九時間かかる(帰路は七時間半)。夕闇のダッカ上空からみたバングラデシュはガンジス河の無数のデルタに拡がる湿地帯だが、緑、鮮やかな緑。深緑。
上空からの眺めは美しい。夕日も雄大である。
 隣席のバングラ人が別れ際に言った。「バングラ人はやさしいですが、スリもいます」。


(某月某日)早速、ダッカ市内を散策。早朝から、ホテルのまえの道路を徒歩で工場へかよう若い女性の隊列。数十、数百。おそらく千人の女性全てが近くのアパレル工場へ吸い込まれる。壮観である。
 女工の月給は5000円から6000円。これに毎日三時間から四時間の残業をすると、毎月8000円以上になるというから、それなら中国のアパレル女工の賃金に匹敵する。
 (もう賃金がそこまで追いついてきた?)
 ガイド氏の説明ではバングラデシュの輸出品目の筆頭はアパレル(繊維製品)。ついでエビなど魚介類、三位は皮革製品、四位がジュート、紅茶など。
 ダッカの交通渋滞は凄まじい。その混雑ぶりは上海やバンコック以上である。これは想像を絶する現象だった。すくなくとも経済発展の急テンポは、手元のデータを修正しなければいけない。
 ど真ん中の交差点を通過するまでに、な、なんと50分を要した。
ダッカ大学を見学しようとして渋滞に巻き込まれ、みるとクルマの数より「リキシャ」が多い。
中国も嘗ては自転車大国だった。いまや自転車は廃れ、車社会になったが、バングラはまだ自転車さえが高級な乗り物。庶民は徒歩。サンダル履きが多いが、素足通勤も稀ではない。
庶民の乗り物であるスクータもバイクも普及していない。
ということはバイク輸出に商機あり、と連想しがちになるが、すでに中国製で溢れ、日本の出番はない。電化製品も中国製が圧倒的で、ハイエール(海爾)、ファウェイ(華為)、TCLの看板ばかり、韓国も頑張っているが、日本の電化製品は影も形もない。つまり中国、韓国の進出が凄まじいが、日本は目立っていないのだ。
 ダッカの目抜き通りでは中古車が主流、こればかりは日本からのクルマが圧倒的だが、トラックはインドのタタ。車体はいずれも古いが中古車の輸入制限があり、五年以上古いクルマは輸入禁止、新車は関税300%となっている。
大通りは英語の看板、ネオンが目立ち、派手はショッピング・モールやら洒落た喫茶店などをみるとアメリカ並み。この国にもインド同様にかなりの財閥が存在するようだ。
通勤バスも満員である。二階建てバスは国営なので安い。普通のバスは料金が半額になる屋根上に乗客が群がって乗る。
政府施設ばかりか、市内の主立った商店ビルなどは、私設ガードマンを雇用している。軍服に似た制服を着て小銃で武装している。ガードマンの月給が8000円前後だという(ちなみに国会議員の給料は3万6千円なり。345人の一院制だが、女性枠が45人)。

国会議事堂は驚くほど立派である。
警備の軍は、例のカラシニコフをまねた中国製。これを「チャラシニコフ」と言うが、ともかく安いので軍も警察も武器は中国製が殆ど。ただしエリート部隊は黒ずくめ、黒のバンダナを巻いて米国製かイタリア製の自動小銃を両肩に二丁さげて、背が高く目つきが鋭く、米国の海兵隊ほどのエリートという。
治安が悪い証拠である。
先月も同時300ヶ所もの爆弾テロがおきた。私の到着した翌日にイスラム過激派四人が逮捕され、背後関係が追求されていた。
ところが農村には電気もきていない集落がある。トタン屋根、掘っ建て小屋。道路は日本の援助で立てられて場所に日本国旗とバングラ国旗が翻って、ちゃんと謝意を表明している。
(この点は中国とちがうなぁ)。
 人力車はダッカ市内だけで27万台もあるという。
それが道路の三分の二を占拠する。だから渋滞するのだが、リキシャを廃止すれば反政府暴動になる。マッチをすればすぐにも反政府暴動が起きそうなほど政治的には不安定である。(ちなみに人力車は最初の1ブロックが5タカ(10円)、貸し切りは一時間あたり50タカ)。ダッカでは一日に50タカを親方に支払って借り受け、走り回る。タクシー免許をもって、外国人に営業権を貸して、寝ていても日銭が入るNYのタクシー利権、リカーショップも既得権益の象徴だが、あれと同じである。
 それでもダッカの目抜き通りを悠然とBMWやベンツが走っていた。貧富の差が歴然としている。


(某月某日)ダッカからバスで四時間。ボグラという町に行った。途中サバールという町で独立記念塔を見学(これは忠霊碑で、バングラの靖国神社だが、観光化しアベックが公園でお喋りをしていた)。
 旅行ガイドブックが溢れる日本の出版界だが、じつはバングラ案内は、例の『地球の歩き方』にも入っていない。小さな出版社からバングラ案内が一冊だけでているというが、大きな本屋を探してもなかった。ようやく現地で地図を一枚入手したくらいで、この国の勝手がよく分からない。
 くわえて治安が悪いので、中国の奥地へいくときもガイドを雇わない筆者だが、バングラではガイドを雇った。「ベンガルツアー」という大手旅行社は自社の観光バスのほか、マイクロバス、観光船も所有する。日本留学五年、大宮に住んでいたというガイドのR氏は流暢な日本語を駆使する。人なつっこい顔、ダッカ大学での同級生と結婚し、女の子が一人。奥さんは高校の先生という。
途中でみた田園風景は昔日の日本を思い出す。農業は地主が小作農に田畑を貸す。三分の一を収めるシステムで、地主はたいがいが町に住んでいる。
 バングラデシュは全土の八割が泥濘、湿地帯。ガンジスの支流が250本ほど流れており、雨期には田畑も掘っ建て小屋も水没する。それゆえに水運が発達している。ダッカからボグラへはガンジス河をボートで遡行しても行けるが時間が16時間もかかる。
漁業は川魚が主流だが、海の水が満潮時にダッカを越えて、クルナあたりまで還流してくる。
付近は世界最大の密林地帯。マングローブが密生し、いまだに「カワウソ漁」をしている箇所がある。カワウソが奇妙な音をたてて、魚を網に誘い込むのだ。しかし塩を含む肴ゆえに味は唐辛子でもまぜなければ、日本人の味覚にはあわない。
水牛、竹の仕掛け網、水田に案山子(かかし)。カラスが獲物を狙う。昭和20年代の日本の田園風景。しかし有機栽培ではない。アスファルトの狭い道路をバスは突っ走るが、途中、肥料工場とタイル工場くらいしか農村で産業らしき施設を見かけない。
古都のクルナからチッタゴンについで第二の港、モングラ港にかけて道路の両脇にガス、セメント工場を目撃したくらいだった。
ともかく果物と農産物が豊饒なので、物質的に経済的には貧しくとも、ひとびとは温厚である。農村はどこへいっても子沢山、しかも目が輝いている。
貧しくてもこころが豊かなのだろう。


(某月某日)カレー味の食事に慣れてきた。
ここでバングラデシュの物価のことを書こう。諸物価、とくに食料品がいかに安いか! 映画は30円から新作封切りでも100円。インド映画と同様に中味は活劇と踊りという陽気なものばっかり。
マンゴーが一キロ70円、バナナ15本で30円。肴が割合高く、なまずは一キロあたり500円。ジャガイモ30円、米は35円から結婚式用の最高級米でも85円(一キロあたり)。ちなみに米は二毛作で、米と米のあいだにジャガイモ栽培も可能。泥田では川エビや田鰻。子供のおやつはサトウキビだ。
 通学途中の小学生に出会った。農道を素足で歩いている。
 教育費用について言えば義務教育(小学校は五年制)期間中は無料だという。そのあと有料になるが,女性は大学まで無料で解放されており、女性の地位と就学率向上を目指している。
そういえば現在のBNP四党連合政権は、強権発動のラーマン・ジア元大統領の未亡人が率いるが、カレダ・ジア首相は女性である。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/kaidan/yojin/arc_05/j_bangla_ps.html
 そうだ。カレダ・ジア首相は2005年7月来日し、幾つかの協定に署名し天皇陛下との晩餐会も行われた。(上の外務省サイトに詳細)。
大学は国立で授業料(月謝)は200円、私学が1600円。医学がブームとなっている。
 あまりに安いのでピンと来ないが、そういえば前々日に散策したダッカ大学(バングラデシュの東大)の在籍学生数は、じつに三万名。構内をめぐると壁に毛沢東主義政党のポスタアが貼ってあった。いやはや、この国は言論の自由があるようである(ネパールの叛乱ゲリア=マオイストへの武器は、バングラから搬入されているという)。
 

(某月某日)ボグラで見学したのは、イスラムのモスクとヒンズーの寺院。仏教遺跡マハスタン、世界遺産のバハルプール仏教寺院跡、玄武岩でつくられたクシュンバ・モスクなど。
日本からバングラへの直接投資は僅か 1億60万ドル(2003年度実績)でしかないが、それでも英国に続いて第2の二国間援助国である。外務省資料では、2003年度までの供与実績(累計)は、円借款約5,861億円、無償資金協力4,504億円、技術協力440億円の合計1兆805億円の由。 
しかし、バングラデシュは「親日的」でもなさそうだ。明瞭なる反日でもない。要するに日本人など見たことがないからとらえ所がないのだ。
行く先々で、バングラのひとびとは刺すような視線で外国人を見る。着用している服装、時計、帽子、もっているカメラをしげしげと見る。日本人など見たことがないから、きまって最初に発せられる質問は「チャイナ?」ついで「コリアン?」だった。
ダッカ市内の外交街でも米国大使館、韓国大使館の立派な建物の奥に、わが日本大使館。プレセンスの奥ゆかしさ(?)。援助第二位の国が、なんという存在感の軽さだろうか。
 ホテルの部屋は広いのだけが取り柄。南京虫、ゴキブリが走り回り、湯船にお湯はなかなかでてこなし、シャンプーどころか歯ブラシもおいていない。タオルは不潔なので日本から持参したものをつかった。


(某月某日)ボグラからは鉄道で、クルナという町へ。
駅舎はぼろぼろ、木造で駅長室も扇風機が回るが、蒸し暑く、一部の駅舎だけがトタン屋根。プラットフォームには乞食がごろ寝している。キオスクらしき売店には駄菓子、ジュース。古本。観光みやげは皆無。
(英字新聞? 売ってないなぁ)。
汽車の旅は楽しかった。一等車両のコンパートメントで本を読む暇もなく、ずぅーと景色を見ていた。
途中にイギリスのインド提督ハーディングが架橋したというパクセイ鉄橋を渡ったが、兵隊の警備がものものしい。
それにしても「クルナ」というのは日本語なら「来るな」であり、そう言えば、ギリシア語で「タベルナ」は食堂だったっけ。
バングラ四日目のクルナでストライキの情報が入った。
アワミ連盟など野党が主導するストライキは年中行事だが、今回はガソリン値上げによる民衆の不満を組織化しており、全土的規模でおこなわれるというではないか。
 日の出から日没まで、一切のガソリン、揮発油を私用する車両は通行止めになる。ラマダンの遣り方をストライキのスタイルにもそれとなく導入しているわけだ。もし、日中クルマを走らせると石を投げられる!
さてそうなると私のスケジュールも、日程を強制的にも変更しなければならない。ガイド氏の手配で飛行場に近いところまで、早めに移動し、ストライキ中の日中はホテルで待機することになる。その間に慌ててバゲルハットのブラックモスク、シュンドルボンの密林などを見学した。
R氏の手配してくれたビールを呑んで、昼寝は三時間に及んだ。午前中、リキシャで町に出たが、警官が夥しく動員されており、町の中心街に所在なく屯している若者達は兇漢な目つき、暴動のチャンスを狙っている。外国人はあぶないと私のリキシャの前後にパトカーがついてくる有様となった。


(某月某日)ジェソールという基地のある町から飛行機でダッカへ戻った。ジュソール空港は軍との併用。
 国内線にGMG航空が、フラッグキャリアの「ビーマン・バングラデシュ航空」とシェア争い。といってもエアバスが数機、あとはカナダ製のダッシュ8型(37人乗り)などの小型機で乗る前に荷物検査がある。
 ダッカにたどり着くと、疲れ果てて、バングラ最高級のシェラトンホテルのバアへ繰り出す予定だったが、部屋でビールを飲んでいるうちに寝てしまった。
ちなみにバングラも禁酒は厳格で、飲めるのは外人のみ。しかしアルコールを入手するのが、これまた困難を極める。パキスタンではリカー・ライセンスを二ドルか三ドル支払って買いに行くのだが、宿泊ホテルでしか購入できない。イランではノン・アルコールビールばかり飲んで、三日目にはすっかり慣れた。
 バングラでも、ガイド氏が調達してくれたビール(オーストラリア製で、まずい!)をケースに持ち歩いたほどだった。


(某月某日)旅の想い出にと絵はがきを買おうにも、そもそも旅行に関する土産なるものが何もない。唯一、市内にある国営(?)民芸品ショップへ出向いて、なにか買おうと思ったが、綿製品のシャツくらいだ。
 私は飛行場に張ってあったポスターを思い出した。
 ――VISIT BANGLA BEFORE TOURIZM COME(旅行ブームが来る前に、バングラへいらっしゃい)。
 さて、こんどの取材目的は「中国の進出ぶり」の探索である。
 ダッカの港近くにかかる大橋を中国が寄付して架橋した。道路も日本と競うかのように援助しているが、中国の最大の貢献は武器。そのかわり沖合のガス鉱区を狙っている。
 バングラ野党のアワミ連盟などは、資源ナショナリズムの観点から外国への鉱区売却に反対し、天然ガス油田開発が進んでいない。知り合った日本の商社マンは、「中国と日本の合弁で開発プロジェクトを進めていますが、野党の反対が強すぎる。テロの脅威がある。なかなか前に進まない。世界の趨勢とは逆で、この国は軍をもっと強化し、治安の回復につとめなければなにごとも前にすすみませんよ」と平和惚け日本人が聞くと卒倒しそうなことを軽々と言ってのけるのだった。
  
(なお詳細のバングラ紀行は近く雑誌に発表します)。
☆ ★ ☆
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

規約に同意してこのメルマガに登録/解除する

メルマガ情報

創刊日:2001-08-18  
最終発行日:  
発行周期:ほぼ日刊  
Score!: 99 点   

コメント一覧コメントを書く

この記事にコメントを書く

上の画像で表示されている文字を半角英数で入力してください。

※コメントの内容はこのページに公開されます。発行者さんだけが閲覧できるものではありません。 コメントの投稿時は投稿者規約への同意が必要です。

  • コメントはありません。