国際情勢

宮崎正弘の国際ニュース・早読み

 評論家の宮崎正弘が独自の情報網を駆使して世界のニュースの舞台裏を分析

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宮崎正弘の国際ニュース・早読み

2004/08/16

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「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
     平成16年(2004)8月17日(火曜日)
         通巻 第887号  
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本日分はニュース解説がありません。
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(旧満州 旅酒日記?)
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(某月某日)成田空港。いつも朝9時台からは第二ターミナルは新宿の雑踏のように混む。JAL、ANAの出発便が集中するため荷物検査、チェック・イン(搭乗手続き)を終えて、今度は手荷物検査、出国手続き。これだけで一時間半ほどかかる。二時間前に行っても、どこもかしこも行列で、ゲートにたどり着けるのは出発15分前である。こういう状況が、午前11時半までほとんど毎日つづく。
(それにしても、どうしてこんなに多くのひとが海外に行くようになったのだろう?)。
 今回の中国取材は午後3時発の中国国際航空926便・北京行きなので、二時間前に着いたが、信じられないほどロビィがすいている。
出国手続きまで15分くらいと聴いて、それならと、チェック・インを済ませ、搭乗券を手にしてから出発ロビィ二階の「すし田」へ。軽く昼飯替わりにビールとつまみ。どっちみち二週間近く中国各地を歩くので日本食とはしばしさらば、だから。
 機内ではとくに書くこともなく、3時間余の飛行時間の半分を寝た。飛行機に乗ると妙に安心感がでて、寝てしまうのだ。最近、バスの中、汽車のなか、どこでもすぐに寝られる。(睡眠薬が必要な人はたいへんですね)
 さて北京空港ではやることがたくさんある。
第一は両替、第二は次の国内線の飛行機を予約し、航空券を購入しなければならない。ついでに郵便局で切手をまとめて買っておく。いつもロビィの隅っこの有料休憩室でお茶を飲みながら旅程を組み立てたりするのだが、この休憩室が工事中である。
 日本で中国国内線の予約をしていけば良いじゃないか、とよく言われるが日本で買うと手数料が課金されて二割ほど高くなるのです。それでも週二便しかないような不便なところへ行くときは予約しますが。。。
 人民元への両替は1000米ドル。これで13日間の全経費をまかなうつもり。中国では事故が多いので、クレジットカードを切らないことにしている。レートは一元=13円50銭。円はまたまた強くなっている。
 国内線出発ロビィの電光掲示板を見上げる。
午後8時の瀋陽行き、九時10分発の長春行きがある。とりあえず、このどちらかに行って一泊、翌日は長距離バスを5,6時間乗って「通化」へ向かわねばならないのだが、えいっ、とばかり長春に決めた。
理由は瀋陽だと、空港から市内までタクシーを飛ばしても50分かかるが、長春空港からホテルまでは20分。しかも長春ならバスターミナルに隣接する春誼賓館に泊まれば(ここは昔の大和ホテル)、歩いて2分。たとえ北京の出発が一時間以上おそくとも間尺にあう。 
長春へのチケットは960元もした! 随分と燃料高騰のため航空運賃は跳ね上がったようだ。
機体はMD82型。スチュワーデスは色白、長身の美人が多い。


(某月某日)前夜、長春空港には予定通り到着したが、かなり涼しい。ま、それはそうだ。緯度は旭川や網走と同じくらいだから。
飛行場からすぐに車を拾って市内へ。{チュンイ・ハンティエン}の発音が悪かったのか、別のホテルに行くので「チュンイ、チュンイ」と三回繰り返したら、ちゃんと駅前の大和ホテルに横着け。午前0時直前だったのでフロントは真っ暗。眠そうな係りがでてきた。「朝早いから一番安い部屋を」と言うと角部屋で一泊258元。メードさんにビールと水を注文し、シャワーを浴びて、現地の新聞を読んでいると午前1時半になる。すぐに寝た。
 早朝5時起床。窓をあけるとバスターミナルの目の前の部屋にいることが分かった。こんな時間に屋台がはやくも営業を開始している。靴磨きもずらーっと並んで店開き。白タクはうようよ。まず早朝の散歩を兼ねて、通化へ行くチケットを買いに行く。53元で大型豪華バス。午前7時20分出発。
 日本で吉林省の最新地図(前月に青島で購入した最新版)を調べてきたが、瀋陽から通化へは高速道路がないので8時間はかかりそう。長春からは、高速道路が完成しているので、うまくすれば五時間半でいけるのではないか?
 実際には4時間ちょっとで通化に着いてしまった。
通化市のバスターミナルは新駅、鉄道駅の対面。ようするに町はずれなのだが、それは後刻判明したことで、なにしろ通化市内の地図など日本で入手できないばかりか北京空港の書店にもなかった。
そこで駅前を荷物を引きずりながら15分ほど、旅館探しに費やし、結局旅籠よりは多少はましにみえた郵政賓館に泊まることにした。
 だいたい全土どこでもある郵政賓館は、民航飯店とならんで安普請、サービスが悪い。シャワー共同が多い。一泊120元。昼飯17元(ビール込み)。鉄道駅まで行って、ようやく地図を見つけた。3元。
 持参した松原一枝『通化事件』の扉に日本時代の通化市内の地図、とくに通化事件現場などの主要な略図があり、それと最新の地図を照らし合わせるのにおよそ一時間を費やした。
それからおもむろにタクシーで出発。狼煙を上げた山、藤田中将が隠れた竜泉ホテルの址、日本人が大量に殺された監獄址、特攻警察址、ソ連軍司令部址など、酷暑のなか、随分とあちこちを歩いた。
「通化」は30万都市だが、日本人が集められて犬のように殺された場所はこんもりとしている。攻め込んできたソ連司令部址はそのまま通化飯店として残存していた!。日本人の死体を投げ込んだ河、日本軍幹部らが当初隠れた竜泉ホテルなど、いずれも痕跡さえとどめていない。それらしい雰囲気でもあり、そうでもなかったり。
 3000名の犠牲といわれているが、この事件の本質は「日本人が反乱を企図」というデマを流して、国民党をあぶり出した共産党の謀略だと考えられる。戦後の混乱期のはなしなので現代史からはすっぽりと忘れ去られました。ルポをいずれ、何かの雑誌に書こうと思った。
 日本人がやたらめったら機関銃で虐殺され、死体は河に捨てられて血の河になった。市内を流れる通化の大河、何事もなかったように悠然と流れていた。気分が乗らないので山の上の別荘のようなホテルで食事。ウィスキーがないので地酒をもらい、ホテルへ戻るとぐったり。


(某月某日)通化からバスで集安へ向かう。北朝鮮国境までの路は山道、崖路、曲がりくねった坂道が多く、あの満州の荒野のイメージとは異なる。途中、こうりゃん、大麦、トウモロコシ畠がつづき、意外と緑が豊かである。
 さて集安は、想像していた以上に「開けていた」。人口も五万と聞いたが、10万都市の規模で、あちこちにクレーンが唸ってビルを建築中だ。中国では国境の街はいずれも活気がある。(あとで集安の人口7万人と判明)。
 図門も、丹東もしかり、ロシア国境のすい分河、軍春、黒河、満州里も、ベトナムとの国境の町・東興も、ビルラッシュは同じ。新築が多く、ひとの出入りが激しく、投資が急激にひとびとの生活スタイルを変貌させている事実が浮かんでくる。
 裏寂れた国境は小生の体験では、内モンゴルとモンゴルとの国境の村=ノモンハンだけである。
 バスターミナルの隣り翠園賓館に旅装を解く。三つ星? エレベータもないので、これは二つ星級、館内に食堂もない。広いロビィには土産屋が二軒、旅行代理店が一軒。韓国からのツアーばかり目立つ。であう人達は、一様に「韓国から?」と尋ねてくる。それほど多いのである。
 対面の海鮮料亭で昼を取った。海鮮は水槽から直接選べるのでメニューを見てときどきちんぷんかんぴんになることもない。川蟹を10匹蒸して貰い、平貝の山盛り、もう一品とビールを二本。勘定は四十一元なり。おなか一杯になる。
 北朝鮮との国境へ行くと、やはりモーターボートの業者が「韓国からか?」と質問。日本人? そりゃ、はじめてみるなぁ。そんなやりとりもそこそこにモーターボートを借り切って、鴨緑紅に乗り出す。目の前の北朝鮮へぐんと近づき、眼を凝らして風景を眺めるが、いやはや人っ子ひとり目撃できず、兵隊もいない! 
(これじゃ、夜中に泳いで渡ってきても見つかるわけないや)
 北朝鮮を写真に収め、つぎに「将軍塚」を見に行った。高句麗は中国の王朝が起源だ、と北京が嘯いてさすがの韓国はこれには怒髪天を衝く怒りを示した。
 この将軍塚は、世界遺産である。ミニのピラミッドで、やはり韓国からのツアーが登っている。


(某月某日)集安での目的は済ませたのでバスで瀋陽へ出ることにした。朝6時半のバスがある。8時間弱かかるとすれば、午後三時にはつけるから、瀋陽北駅、いつものグリーンホテルにでも泊まろうと考えた。
 バスは驚くべきことに雨上がりの道路を突っ走って、瀋陽に5時間半で到着したのだ。
 (これなら乗り継いで錦州まででよう)
と突如、旅程を変更し、駅前の簡便食堂で昼拵えのあと、二時発のバスに飛び乗る。これまた錦州まで高速道路をぶっ飛ばし、僅か二時間で着いた。旧満州の沿岸部、かくのごとく交通インフラは迅速な変貌を遂げて、近代化しているのは驚きである。
 ただし錦州ではホテル探しに手間取った。駅周辺にましなホテルがないので、随分とあるいたあとに、仕方がないのでタクシーを拾い、「この街で良いホテルにやってくれ」という。
女性運転手は、自分の好みにあわせて瀟洒なホテルにつけるが、いまいちぴんと来ない。「もうすこしましなところへ」と頼むなおすと、中心街の高層ホテルに着いた。この街は「二人劇」(中国版の漫才)がやたらと多いようで、繁華街は串焼き、トウモロコシ、たこ焼きの露店。風情が猥雑でひとびとは粗野にして野卑な印象をうける。
 金秋ホテルは朝飯付き一泊150元。部屋は掃除してあるが、なんとなく汚い。
 夕方、散歩がてら中心街をあるき、たくさん人がはいっている食堂でシュウマイ、小龍包、野菜、ビールの夕食。合計21元。結構旨い。
目の前の広場に人が集まりはじめ、「?」と思いきや夏祭りの盆踊り(民族踊り)の稽古。中年以上のおばさんが主体で男は老人ばかり。見物客も歩道橋に鈴なり。
(練習風景が珍しい?それともほかに楽しみはないのかな)。
 さて東京へ電話を入れたいがホテルの部屋からもちろん繋がらず、フロントに言うとビジネスセンターで繋がるというが、ここからも駄目。街の公衆電話も最近は日本同様に携帯電話の影響で少なくなり、しかも故障機がやたら多い。中国特有の電話屋にも「国際電話だ」と頼むが、全部、駄目。繋がらないのである。地方都市、とくに東北三省の通話状況はかくのごとし。
 三日後に北京でようやく東京へ電話がつながって、偶然だが錦秋、瀋陽、通化あたりから電話が繋がらなかった日々には、例の重慶のサッカー反日事件が起きて騒然としていたことが分かった。


(某月某日)朝、錦州で見学しようと思っていたのは遼瀋会戦の記念館だ。朝食後、すぐにタクシーで行った。駅の北側に位置すると聞いていたので(錦州の地図もないので方角がまったく分からない)、運チャンに行き先を告げると「あそこ、工事中だよ」と言う。何かイヤな予感。やはり当たった。大規模な工事をおっぱじめていて閉館中だ。
 (まさか、国共内戦はなかったことにするんじゃないでしょうね?)
 錦州も、日本の爆撃があったところで、重慶、上海と、その点は似ているが、反日感情が希薄なことも同上二大都市と似ている。この街には、しかしながら、日本の進出を感じさせるスポットが何もない! 日本人駐在なんていないんじゃないですかね。
 100万都市というのに、外人が泊まれるホテルも少ない。
 広済寺は門前街の振るわい、浅草の仲店通りの趣きがあり、この寺のなかに日清戦争の記念館があると聞いたが、どこをさがしてもない。取り除いてしまったようだ。
 かくして錦州へきた目的はふたつとも実現せず、がっかり。昼前のバスで戦前、日本人技師が多く住んだ炭坑の街・阜新へ行くことにした。
      (つづく)
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(読者の声)「我が国の歴代首相等の靖国参拝が問題とされる理由」
A級戦犯合祀や政教分離の事が挙げられているが、そもそもより根本的な背景には歴史の総括がなされていない事がある。太平洋戦争とそこに至る過程を近代世界史の中に位置付け、反省すべきは反省し説明すべきは説明し内外に表明する事が、8月15日に靖国参拝を行うか否かという形態的な問題以前に本来日本の首相がするべき事である。また、筆者はそれが国家のために死んで行った英霊を安んじるに不可欠であると考える。

◆開戦の背景
太平洋戦争開戦に至る流れを述べるためには、1868年の明治維新以前から辿らなければならない。15世紀の大航海時代を経た欧米列強は帝国主義に基づき、世界各地の植民地化を進めてきた。アメリカ等の圧力によって為された日本開国もその一環である。
 幕末の志士と明治の元勲達の巧みな舵取りに加え、アメリカが南北戦争で身動きが取れない等の当時の国際情勢の僥倖が重なり、開国後日本は富国強兵、殖産興業を図り、日清、日露の戦争を勝ち抜く事によって植民地にされる危機から次第に脱した。これらは、日本をロシア等による侵略の脅威から防ぐと共に、列強の植民地主義勢力の側に加わった事も意味した。帝国主義の時代においては、弱肉強食がルールである以上、地勢学的条件によっては防衛と侵略は明確には区分し難い。
 遅れてきた帝国である大日本帝国と同様に遅れて来て西部開拓の延長として西進を図るアメリカ合衆国は、中国等の権益を巡り必然的にぶつかり合う事になる。そして、イギリスに強いられた1922年の日英同盟解消が、日本がアングロサクソンと覇権をかけて対立する外交上のターニングポイントとなってしまった。また、1928年のケロッグ=ブリアン条約(パリ不戦条約)は侵略戦争を否定した進歩的なものだったが、これによって欧米列強が既存の植民地主権を固定化しようという流れが固まりつつあった。
 特に、1929年の世界大恐慌後は、先進する欧米列強がブロック経済等で守りの体制に入る事に対して、既に27年に金融恐慌に見舞われていた日本は、治安維持法の強化や31年の満州事変の様に、全体主義体制と侵略的要素を強めて対抗しようとした。
 これまでの帝国主義に基づく列強間のロジックによれば、満州事変による日本の満州(中国東北地方)の植民地化は、産まれたばかりのケロッグ=ブリアン条約はあれど滑り込みセーフだったのかもしれない。事実リットン調査団による「侵略」認定を聞き流しても当時の国際連盟は現在の国際連合以上に微力であり、満州の実効支配を続け日本の大陸進出をそれに止めれば、やがて国際的認知を得られたとの観測は近代史学者の中にも少なくない。
◆ 開戦と敗戦
しかし、日本はその道を選ばなかった。
内外の曲折を経ながら、32年の松岡洋佑外相による国連脱退、37年の盧溝橋事件に続く日華事変、40年の日独伊三国軍事同盟、大政翼賛会発足、仏印進駐、41年の日米交渉、ハルノート通告と受諾拒否と続き、同年12月8日の真珠湾攻撃による開戦に至る。その後、日本軍はマレー沖海戦のイギリス東洋艦隊の主力を全滅させ、香港・マレー半島・シンガポール・フィリピン・オランダ領東インド・ビルマなど西太平洋および東南アジアのほとんどの地域を占領する破竹の進撃で緒戦を制した。
 だが、42年6月のミッドウェー海戦での敗北を契機に、日本は制海・制空権を失い戦局は逆転。同年後半からアメリカ軍を中心とする連合国軍が本格的な反攻を開始し、翌年以降、ガダルカナル島・アッツ島からの撤退、44年6月マリアナ沖海戦で海軍の空母・航空機の大半の消失、インパール作戦失敗、サイパン島の陥落、グアム島陥落、フィリピンのレイテ沖海戦での日本の連合艦隊壊滅、アメリカ軍のフィリピン上陸、同年11月からのB29による日本本土空襲本格化と敗戦色は決定的となった。
 45年3月東京大空襲、日本の主要都市は空襲で焼け野原と化し、硫黄島の戦での玉砕、4月アメリカ軍沖縄本島上陸、5月ヨーロッパでのドイツ降伏、7月米英ソ3カ国首脳が日本の無条件降伏をもとめるポツダム宣言を発表、2月ヤルタ会談でソ連の対日参戦等が密かに決定された。日本のポツダム宣言拒否を理由に、アメリカは同年8月6日に広島、ついで9日に長崎に原子爆弾を投下、日本政府と軍首脳部は天皇の聖断によってポツダム宣言の受諾を決定、14日に連合国側に通告、15日には天皇が玉音放送を通じて国民に知らせ、約4年間にわたる太平洋戦争は日本の敗戦で遂に終結に到る。

◆歴史的位置付け
このように、太平洋戦争は英米に対しては、アジア、太平洋の覇権を掛けての戦いであった。
 同時に東南アジア諸国に対しては、この覇権戦争のための物資供給を主目的とした侵略戦争であった面が強い。戦争目的としてのアジア開放は、これを純粋に考えていた者もいるが、八紘一宇の言葉が開戦後に初めて唱えられたことに示される様に、少なくとも体制的には後付けで考えられたものである。
 なお敗戦の原因として、物量面で元々勝てない戦いであった事以外に日本軍の数々の作戦の失敗を見るに当時の日本の全体主義が米英の民主主義、自由主義に較べてシステムとして著しく合理性を欠いていた事も否定できない。
太平洋戦争が起こり、日本が緒戦の勝利に引き続き大敗した事が、結果として欧米列強による植民地支配体制を終焉させる発端となった。敗戦により日本が去った後に戻ってきた旧宗主国は、東南アジア諸国を再び同じように植民地化する事は出来なくなった。この連鎖反応として、アフリカ諸国等でも民族意識が高まり、植民地支配を難しくした。
なお、もし日本が太平洋戦争を勝ち抜いていれば、日本によるアジアの植民地支配が形を変えて続いていた可能性は否定出来ない。植民地主義は、数世紀スパンで歴史の流れを俯瞰すれば、先進国の文化文明、産業が植民地に移植され世界に広まるための器であったとも言える。同時にそれは、現地民に流血や服従、搾取を強いた。この矛盾は、最終的には植民地支配の開放により解消され、世界がトータルで発展の方向に向う事になる。
 これを角度を変えて、歴史を「自由を目的とする絶対精神の自己展開」として捉える19世紀の哲学者ヘーゲルの世界史観に則せば、仮に欧米による植民地支配=「正」として、日本の進駐=「反」、これらを止揚する日本の敗北と解放戦争の勝利等による植民地支配体制の終焉=「合」との弁証法的展開の見方が大局で成り立つ。(なお、「正」「反」はヘーゲル哲学の用語であり、何らの価値判断を含まない。)筆者は、太平洋戦争は様々な要素を含むが、その実相、本質を短く述べるとすれば上記のような事だと考える。
 ◆通過義礼としての総括
 戦争責任という言葉があるが、負けた責任なのか、侵略した責任なのか、米英に刃向かった責任なのか、固定化しつつあった列強の権益を覆し当時の世界秩序を乱した責任なのか、極東軍事裁判の判決はともかく、この言葉は渾然とした曖昧な使われ方をしているのが現状である。太平洋戦争については、米英に刃向かった責任等は戦の習いで「勝てば官軍」の世界に過ぎないが、合理的に見ても元々勝てない戦争をして国民が苦しんだという失策の面と、結果的な植民地体制終焉を踏まえつつも侵略により国によって濃淡はあれどアジア諸国に流血と服従の苦しみを与えた事実の二つの責任が日本政府にはある。A級戦犯等の戦争指導者は指導者責任として上記の二つの点につきより重い責任を負うべきだが、翼賛体制以前は実質的に普通選挙制に基づく国民主権が成り立っていた事を考えるとこの責任は日本国民全体が負うべきである。
天皇の戦争責任については、当時の曖昧な体制を読み解き、旧憲法上は大元帥であった天皇に実質的に権限があったかどうかで判断されるべき問題である。
 なお日本国将兵が国家意思としての戦争に従事し、国家という「公」のために命を賭して任務を遂行した事自体は、国家の戦争責任とは切り離すべき別次元の問題であり、決して貶められるべきではない。また、現在もアジア諸国が国により違うが、全体的に欧米よりも日本に反感を持っている一因として、日本が植民地主義末期に参入して植民地経営のノウハウが稚拙だった事が挙げられる。
加えて、「赤き清き心」と「祓いと清め」の他は理論的、構造的な教義を持たない日本神道は、現地人を皇民化、日本人化する意外に教化する方法が無く、物理的にはともかく欧米によるキリスト教化より現地の文化、習慣を変更する精神的苦痛を強いた面が否めない。日本を含む近代以降の列強による植民地主義、帝国主義は、欧米諸国も総括出来てはいない。日本は過去の失敗を反省し教訓としつつも、開国後から太平洋戦争までの歩みを近代世界史の大きなパースペクティブの中に位置付け総括し、内外に向け表明す
べきである。
筆者は、それが日本がアジアのリーダーとして再び立つための通過義礼と考える。
    (KS生、千葉)


 (宮崎正弘のコメント)独特なご意見はともかくとして、「太平洋戦争」の呼称は「大東亜戦争」とすべきでしょう。

 (編集部からのお願い)ご投稿は大変ありがたいのですが、このメルマガの性格上、論文ではなく、文章はなるべき短くお願いします。◎
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◎宮崎正弘のロングセラーズ◎
『中国財閥の正体―その人脈と金脈』(扶桑社、1600円税込み)
『中国のいま、三年後、五年後、十年後』(並木書房、1500円+税)
『拉致』(徳間文庫、590円+税、以下同)
『ネオコンの標的』(二見書房、1500円)
『ザ・グレート・ゲーム』(小学館文庫、476円)
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