ビジネス一般

日本の支え「モノづくり」

日本の「モノづくり」への賛美と懸念を頭に置きつつ世の森羅万象を考える。図案屋稼業の傍ら、かって商社に勤務した経験も振り返り、書き溜めた著者自身の備忘録でもある。

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《66》 電話が社会を変えた(1)

2005/01/17

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    ┃モ┃ノ┃づ┃く┃り┃、┃あ┃れ┃も┃こ┃れ┃も┃ (続編)
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                         --浪費なき日本の繁栄のために--

 《66》 電話が社会を変えた(1)

固定から携帯、その先へと電話の進化が止まらない。

半世紀のスパンで見ると、進化の流れがよく分かる。
わたしが物心ついた戦後の時代、一般の家庭に電話はなかった。わずかに、
商店や税理士、医者、弁護士など、職と住を兼ねている家庭には見られた。
わが家の親戚にはあったものの、わが家だけ取り残されていた。ないなりに、
郵便を上手に使って間に合わせていたようだ。急用で連絡するような場合は、
電報で知らせた。それも、生死に関わるような重要な連絡の場合に限られた。
都内では公衆電話が普及していたので、わが家からする電話は容易だったが、
親戚たちは不便を感じていた。仕方なく近くの懇意の米屋さんに無理を頼み、
電話があると取り次いでもらった。米屋さんは、駆け足で知らせてくれたが、
わが家は大いに恐縮し、母があわてて店の電話口まで飛んで行ったものだ。
もちろん、迷惑がないよう緊急の連絡だけにした。

わが家にも一般の家庭より遅れて電話が引かれた。
忘れないのは、東京の大崎電話局(当時)から割り当てられた電話番号だ。
492‐5648で、知人には「死の国の殺し屋」と記憶してもらった。
面白半分だったが、中には気持ち悪そうにした人もいた。

1970年代、電話に加入するのが大仕事だった。
新婚時、神奈川県の上大岡で小さなアパートを借り、電話を申し込んだ。
電々公社(当時)は、インフラ整備を急ピッチで進める途上だったのだろう。
新興地ということも影響したようで、設置されるまで1年以上も待たされた。
電話加入権*なるものも買わされたが、安月給の身には大きい負担になった。
生涯を通じる一大事業だったといっても大袈裟でない。
http://www.hou-nattoku.com/enq/archive/02_ntt.php

会社では、電話交換手が大量に失業する事態があった。
大きい会社は、社内に数百台もの電話を抱え、内線番号を振ってあった。
社外から「局番‐1111」などの代表番号にかけ、交換手が最初に受ける。
電話の主から電話先の氏名などを聞き取り、該当する内線番号につないだ。
腕の見せどころは、待たすことなく内線番号を探してつなぐことにあった。
しかし、「ダイアルイン」方式の導入で、交換手を通す必要がなくなった。
名刺などにある「局番‐内線番号」をダイアルすれば、相手が直に出た。
電話技術の新しい進化が、手間と時間を省いた。

その他の進化も、職場の中で体験した。
モデルチェンジされた電話器が、黒一色から解放され、心持ち軽くなった。
長電話になると、受話器を持つ腕がだるくなることがあったが、恐らく、
電気部品が小型化され、プラスチックの外装なども軽量化された結果だろう。
さらに、数年後には、円形の文字盤をジーコ、ジーコいわせて回す方式から、
白いボタンを横3列、縦4段に12個並べた「プッシュホン」に変わった。
記憶力の鈍さを「短縮ダイアル」が補ってくれた。

会社で活躍したのは、「テレックス」(加入電信)だ。
電々公社が、1956年(昭和31年)に東京と大阪から始めたという。
電話は記録が紙に残らない。商社に限らず、紙に残したい情報が膨大にある。
しかも、決算の帳尻などは、郵便より一刻も速く本社に伝える必要があった。
海外の出先や顧客とのやり取りにも使われ、休みなしに活躍した。
しかし、今やインターネットの世界に埋没して姿がない。

その後、商社にも大型のコンピュータが導入された。
前にも書いたが、情報を一元管理するには欠かすことのできない道具だから、
大金をはたいて導入し、手始めに経理業務のコンピュータ処理から着手した。
わたしは名古屋にいたので分かったのだが、磁気ディスクに収めたデータは、
東京にあるホスト・コンピュータに、一刻を惜しんで取り込む必要がある。
それでこそ、会社全体の日々の最新の数字を正確に把握することができる。
しかし、ディスクのコピーを郵送すれば、1日の時差が生じる。

その時差を画期的に解消すると称し、奇策を考えた人がいた。
名古屋から東京へ向う新幹線の棚に、ディスクをこっそり載せておく。
2時間後には、東京駅で待つ本店の社員が、何食わぬ顔で棚上から持ち去る。
両駅の入場券を買う費用で、最速でデータが東京に届くというのだ。
冗談とはいえ、リアルタイム化に腐心していた姿があった。

この問題を解決したのが「データ通信サービス」だった。
時代の要請を受けた電々公社が、1968年(昭和43年)から始めた。
専用の通信回線を民間にも開放し、コンピュータの間をオンラインで結んだ。
遠隔地の端末の大量のデータも、通信で短時間に取り込めた。

もう1つの画期的な進化は、「電話ファックスサービス」だ。
1973年(昭和48年)から始まったサービスという。本店に転勤後、
大阪支店へ簡単な図面を送ったことが初体験だった。予想以上に感謝され、
その威力を知った。電話でなかなか理解してもらえない部品の複雑な形状が、
一目瞭然で理解されたのだ。当時の記憶では、その1台だけしか本店になく、
雑然とした物置きのような場所にポツンと置かれていた。通信部の担当者が、
スペース不足の時に、余計なものを置かされたといった不快気な表情だった。
電々公社だったか、メーカーだったか、頼まれて試験的に置いた由だったが、
通信のプロも、ファックスのその後の広がりを想像できなかったようだ。
今や隔世の感で、一般家庭にまで置かれている。

携帯に至っては、誰もが想像できなかったのも無理ないと思う。
知らず知らず、電話の進化が社会を確実に変えた。

つづく

さぶみ・ごろう

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創刊日:2001-04-23  
最終発行日:  
発行周期:3週間毎  
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