文学

彼の声

この世界について、この社会について、この時代について、未来について、過去について、人々について、自分が日頃感じていることを率直に語る。

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彼の声 2018.11.26 「話のリアリティ」

2018/11/27

 何をやるにしても、やっていることのつじ
つまが合わなくなるようなら、そこでやって
いることの全てを把握できていないから、や
っているうちに気づかないところでつじつま
が合わなくなってきてしまうわけだろうが、
それは何かについて語ることにも言えるだろ
うし、必ずしも語っている対象の全てを把握
しているわけではないから、語っている当人
が気づかないところで、つじつまが合わなく
なっているのだろうが、だからといって当人
がそれに気づいて無理につじつまを合わせよ
うとすれば、今度は今まではつじつまが合っ
ていたところで、つじつまが合わなくなって
くるのかもしれず、そういう意味で話のつじ
つまが合わなくなるのは、当人の技量を超え
る部分では仕方のないことかもしれないのだ
が、全てを語ることができないだけに、妥協
策としてつじつまの合う部分だけ語ろうとす
ると、何やらもっともらしくも嘘っぽい話の
内容になってくるだろうし、そういう話がフ
ィクションに特有のご都合主義的な恣意性や
自在性を纏うとしても、それだけ話にリアリ
ティを持ち得なくなるから、語っている当人
がどんなにつじつまが合っていることを強調
してみても、それを受け取る側には何か内容
が嘘っぽく感じられてくるし、しかも当人の
主張とは合わない部分は語ろうとしないから、
それだけ一方的で独善的な内容となってしま
うわけだが、当人がそうなっていることを承
知で語っている場合もあるわけで、中にはそ
んな嘘っぽい話でもありがたがって拝聴して
くる人がいるから、そういう人向けに商売を
している人もいるわけで、そんなつじつまが
合う嘘っぽい話と、つじつまが合わなくても
妙にリアリティのある話のどちらがいいかは、
それはそんな話を受け取る側の好みの問題と
なるかもしれないが、できればつじつまが合
って、しかもリアリティのある話になればい
いのだろうが、話のつじつまが合うことと話
にリアリティがあることは、必ずしも両立す
るとは限らないだろうし、また語っている側
にはリアリティがあっても、それを受け取る
側にはリアリティを感じられない場合もある
わけで、そういう面で話にリアリティのある
なしは、語っている側が一方的に決めること
は難しく、ある程度は語りを受け取る側の判
断に任されている面もあるわけだ。だから語
る対象に関して詳細に調べて、自らが言わん
としている論理に適合する部分を抽出して、
それを筋が通るように組み立てて、理路整然
とした話に構成して語っても、それを受け取
る側には何かできすぎた話に思われるような
ら、やはりリアリティを感じられないわけで、
話の内容にほころびがないことが、逆にフィ
クションのように思われてしまうわけだが、
では話にリアリティを持たせるにはどうした
らいいかとなると、語っている当人が語りた
いこと以外の内容が話に含まれていて、しか
も語っている当人がそのことに気づかない場
合などが、話に妙にリアリティが伴うわけで、
要するに語り手のコントロールを逃れる部分
がいかに語りの内容に含まれているかが、話
のリアリティに直結してくるわけだが、それ
は語り手にはどうにもならない部分であり、
手の施しようがない部分でもあって、それを
語り手の責任にするわけにもいかない部分で
もあるわけだが、やはりそれが含まれていな
いもっともらしい話は、どんなにうまく語っ
てみせても嘘っぽく思われてしまうし、語る
話術や文章の表現力などではごまかせないの
かもしれないし、だからこそ話を受け取る側
に直接リアリティをもたらすのだろうし、そ
ういう部分では、語り手はそういった話のリ
アリティに敗北を喫しているとも言えるのか
もしれないし、そういうところがごまかしの
利かない部分なのではないか。またそうやっ
て話の内容自体がその語り手を裏切る形で、
語り手の都合に合わせて話に施した嘘やごま
かしを、話のリアリティを通して話の受け手
に向かって、語り手に気づかれないように告
発しているわけで、話を受け取る側にはそう
した部分を見つける努力が求められているの
かもしれず、そういった語り手が気づかない
ような話の真実が、その語り自体を通して話
の受け手に伝わるようだと、やはりその話に
はリアリティが伴っているわけで、その部分
では語り手が話を制御できていないから、確
かに話のつじつまが合わないようにも感じら
れて、何かおかしいように思われるのだが、
そこが語り手の構築したフィクションとは異
なる話の真実の部分であり、話の内容自体が
語り手や作者を裏切ってでも、それを受け取
る人たちに伝えたい部分でもあり、話を受け
取る側がそういう部分を汲み取ってあげない
と、語り手や作者の話術や文章作成術の術中
にはまってしまって、何やらもっともらしく
も嘘っぽい話を信じてしまうのだろうし、ま
たそんな語り手や作者の信者となって、彼ら
が工夫を凝らして構成してみせるフィクショ
ンを楽しむだけとなってしまうわけだが、娯
楽としてならそれでも構わないだろうし、た
とえそれが深刻な社会問題や大げさな国家や
社会についての大言壮語であっても、楽しむ
対象としてなら何の問題もないのかもしれな
い。

 しかし話を楽しむ対象として以外に、どう
受け取る必要があるかとなると、それは話を
受け取る側のコントロールが利かない部分で
あり、どう受け取ったらいいのかわからない
ような話にはリアリティが伴ってくるのかも
しれず、またどう受け取ってみても腑に落ち
ないような話にも、その部分にリアリティが
感じられるだろうし、そんなどうにも解釈し
難いような部分にリアリティを感じるのかも
しれないし、そうなると受け取る側の都合よ
りは、話そのものの都合を優先させるしかな
く、要するに話自体を直接そのまま受け取る
しかないようなことになるが、話の内容をす
ぐに自身の都合に合わせた論理で単純化して、
それでわかったような気になるのを拒む部分
がリアリティを感じさせるわけだ。それは話
をする側にも言えることで、話す対象に自分
の都合に合わせた論理によって単純化を施し
て語ろうとすると、話自体に裏切られてしま
うわけで、話自体がそうした論理とは矛盾す
る部分を含んでいることに、話す側が気づか
ないと、そこで話のつじつまが合わなくなっ
てくるわけで、話を受け取る側がそれに気づ
くように話自体が仕向けてくるのだろうし、
それは話す側の技量を超えたところでそうな
ってしまうから、話す側としてもそういう部
分をコントロールしようがないわけだ。話自
体が話を受け取る側に対して、そう仕向けて
くるとはにわかには信じがたいだろうが、そ
ういう部分は話す側が話す内容によって語ら
されてしまうわけで、必ずしも話す側に主導
権があるとは限らず、話す対象が話す人にそ
れについて話すように仕向けている限りで、
そういう部分では話す側が話す対象によって
語らされている面があるわけで、そこで自身
が把握できないことまで語らされていること
に気づけないわけで、そういう部分が、話者
の思惑を外れて、直接話を受け取る側に届く
わけだ。そんな意識して語ろうしなくても語
らされてしまう内容が、その対象には含まれ
ているわけで、そういう話を受け取る側とし
ては、話者が恣意的に内容を自分の論理に従
えようとしているところを見抜く必要がある
だろうし、さらに話の対象の中で、自身の論
理にとって都合の良い部分だけを恣意的にサ
ンプリングしてきて、それらを組み合わせて
自身にとって都合の良い内容を構成している
部分も、把握できればそれに越したことはな
いだろうし、そして何よりも話の対象自体が、
話者の論理に逆らうようなことを、話者自身
を通して語らせようとしている部分に注目す
る必要があるわけで、そこで話者の論理が破
綻しているとともに、そこから話の真実が見
えてくるわけで、それが話者自身が認めがた
い真実でもあるわけで、話者自身は何とかそ
れをごまかして、それなしで話を成り立たせ
ようとしているわけで、そこを技術的にごま
かすことができれば、自身の都合や論理を反
映した、つじつまの合ったもっともらしい話
に仕上がるはずなのだが、話の対象がそれを
許さないのだろうし、どうやっても話者自身
が設定した話の枠に収まりきらない部分が出
てきて、そこを無理やりはめ込もうとすれば、
無理が生じてそこだけはなく、他の部分にも
ほころびが目立つようにもなるだろうし、そ
うした破綻を最小限に食い止めるために、持
てる技術を駆使して話に過剰な装飾や厚化粧
を施そうとするのだろうが、そういう処理ば
かりにかまけていると、今度はそういった話
を受け取る側が、そういう技巧の粋を凝らし
た工夫にわざとらしさや不自然さを感じるよ
うになるわけで、そして話者がそうしなけれ
ばならない理由をあれこれと詮索していくと、
そこに隠しようのない真実がむき出しになっ
ていることに気づくのかもしれず、なぜそう
なってしまうのかといえば、それには話者が
話す対象に惹かれて、それについて語ろうと
する理由を考えてみなければならず、そこに
自らの都合を反映した論理に合わない部分が
あることを、それと自覚することなく嗅ぎ取
っていると捉えれば、例えばそれについて執
拗に批判を繰り返している限りでは合ってい
るだろうし、またそれを事ある度に持ち出し
て賞賛しているとしたら、そこに自らの都合
を反映した論理に合う部分があることを、今
度は自覚しているわけで、そういう部分で批
判しているとしたら、批判の論理に適合する
ように語ろうとするだろうし、適合しない部
分は削ぎ落とそうとするのだろうが、それが
その話の核心部分を構成していると削ぎ落と
せないわけで、しかも批判したがっている部
分と批判とは適合しない部分が重なっている
と、そこで技術的なごまかしが必要となって
くるわけで、そうしたごまかしの最たる手法
が、あえてそこには言及しないやり方であり、
さらに自らが批判したい対象には、その批判
に適合する部分をことさらに強調して言及す
るが、その逆に自らが賞賛する対象には、そ
の批判に適合する部分には言及せず、また自
らが批判したい対象の中でも、賞賛に値する
部分に関しては言及を避けるだろうし、そう
やって批判の対象と賞賛の対象との両方で、
その都合の良い部分はことさらに強調して言
及するが、都合の悪い部分にはなぜかその言
及が及ばないわけで、しかもそうしたことを
無自覚に行っている場合さえあるわけで、そ
ういう部分で語っている当人に自覚がないと、
その人が語っている内容からごまかしの真実
が浮かび上がってくるだろうし、それに関し
て例えば特定の政治家や企業経営者などを批
判したり賞賛したりしていると、そういうこ
とが起こりやすくなるわけで、現状の中で曲
がりなりにも成功して著名人となっている人
たちなら、それが政治家であっても企業経営
者であっても、批判できる部分と賞賛できる
部分の両面を持ち合わせていて、だからこそ
の現状の世の中でまかり通っている論理に適
合して成功したと言えるわけであり、そこに
はそうした世の中の現状を批判的に捉えたい
人がその批判の中で適用する論理も含まれて
いて、結果的に政治家や企業経営者として同
じような立場を占めているにも関わらず、そ
の片方だけを著しく強調して批判したり、も
う片方だけを著しく強調して賞賛したりする
のはおかしいわけだが、批判や賞賛の論理と
してはそうせざるを得ないわけだ。 

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創刊日:2001-03-26  
最終発行日:  
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