文学

彼の声

この世界について、この社会について、この時代について、未来について、過去について、人々について、自分が日頃感じていることを率直に語る。

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彼の声 2018.10.31 「必然性の支配」

2018/11/01

 偶然を活用できるかというと、偶然に巡っ
てきた機会を捉えて何かをやって、それがう
まくいけば、活用できたことになるのかもし
れないが、うまくいかなければ、機会を捉え
たと思ったのが勘違いであったかもしれない
し、そもそもそれは偶然に巡ってきた機会で
はなかったのかもしれないのだが、では何な
のかというと、何でもなかったのかもしれな
いし、そうでなければそうなることが必然と
呼べるような状況になっていたのかもしれな
いし、それを偶然と呼べるか必然と呼べるか
は、結果から判断することしかできないのか
もしれないが、同じ成り行きを偶然の巡り合
わせとみなしたり、あるいは必然というより
はもっと強い言い方で、宿命的な巡り合わせ
とみなしたりする場合もあるだろうし、どち
らであってもそれなりに説得力があり納得で
きるような状況なら、両義的な面があるとも
言えるわけで、物事の成り立ちや成り行きに
は、偶然的な面も必然的な面も両方の側面が
あり、それに対する見方や捉え方によって、
どちらかの要素や要因が強調される場合もあ
るわけだが、それはそうした物事に対する捉
え方の程度の問題であり、それをどう判断す
るかは、判断する側の主観に左右される面も
あるだろうし、それに関する説明の中でどこ
に重点を置くかにかかってくる場合もあるだ
ろうが、それでもどちらかを強調しないと話
のつじつまが合わない場合はそうするしかな
いだろうし、結局そこではそういうことだと
判断するしかないわけだ。そしてそこにはそ
う判断する側の事情も絡んでくるだろうし、
判断する側と判断する対象とが敵対関係にあ
るなら、判断する側は判断する対象を否定的
な捉え方をして、場合によってはそうなるの
が当然であるかのような断言口調で決めつけ
ることもあるわけだが、そういう決めつけに
対する反応にも賛否が分かれるだろうし、敵
対関係がその対象への決めつけられた判断や
評価への反応にまで表れて、その対象自体よ
りは対象との敵対関係が、対象への否定的な
敵意となって、そういう判断や評価を受け止
める側にまで影響を及ぼすわけだ。それは敵
対関係から生じる必然的な成り行きかもしれ
ないが、そういう判断や評価が説得力を持つ
か否かは、そういう判断や評価を下した人に
対する判断や評価にもよるだろうし、その人
の言動がいつも一方的な断言口調の決めつけ
ばかりだと、そんなことばかり言っている人
という判断や評価となってしまうだろうし、
そういう人に対する好き嫌いはあるだろうが、
そういう傾向を割り引いてなおそれを真に受
けるか否かの判断を伴ってしまうことは確か
で、そういった対象との敵対関係によっても
たらされる作用や影響を考慮してみないこと
には、そういう判断や評価が妥当か否かの判
断や評価も、説得力を持つかどうか微妙にな
ってくるだろうし、そんなことがそれに関係
する様々な事情となって積み重なると、そう
いう判断や評価も偶然にもたらされるわけで
はなく、そう判断すること自体が必然性を伴
っているようにも思われてくるわけだが、そ
こに至るまでの成り行きを重視すればそうな
るだろうが、そうだとしてもそういった対象
にたまたま出会ってしまうことに関しては、
全くの偶然性を考慮しないわけにもいかない
だろうし、何だか理由も原因も定かでないま
ま、誘い込まれるようにそういった判断や評
価の対象へと引き寄せられてしまう成り行き
というのが、時として信じられないような偶
然の巡り合わせとしか思えないような成り行
きとともに実現してしまうわけで、それは判
断を要する対象との相性でしかないのかもし
れないが、そうした出会いの脈絡のなさとい
うのは偶然の遭遇としかいえない面があり、
それをわざわざ無理に必然性によって説明し
ようとすると、不自然な感じを免れないだろ
うし、またそういうやり方に慣れてしまうと、
次第に憶測を用いて話のつじつまを合わせな
がら語るようになってゆき、そればかりだと
語る対象ではなく語る側の都合を全面的に反
映したフィクションとなってしまうわけだが、
語っている当人は自らが積極的にフィクショ
ンを語っていることにも気づかずに、絶えず
自らのこうあるべきという願望を語る対象へ
押しつけようとして、それに合わない目の前
の事実や現実から目を背けながら、自ら語る
フィクションの中で自閉するようになってい
くわけだ。

 そうなってしまう成り行きに関して、どこ
までそれを自覚できるかが、語る対象への謙
虚さの度合いを示していて、何でもかんでも
それについて自らが語る必然性があるかのよ
うにして語り始めると、途端にそこへ恣意的
な決めつけが入り込んできて、しかも語る対
象への否定的な決めつけを通して語っている
自らを正当化するような内容になると、それ
では単なる自己宣伝となるだけだろうし、そ
ういうところで語る必然性を和らげるような
配慮が伴わないと、どこまでも語っている自
己を正当化するために、語る対象を貶めてい
るだけの内容となってしまい、それを受け取
る側にとっては、そうまでして語っている自
己肯定への執着を示す内容が不快に感じられ
るだろうし、そうした語る対象への謙虚さを
欠いた言動が世の中で幅を利かせているよう
だと、そこで他人への攻撃的な感情が蔓延し
ているようにも感じられるし、何としても語
る対象を攻撃しなければならない義務感や焦
燥感などが、実際にそんなことをやっている
人たちをそうした行為に駆り立てていること
自体が、それに関して攻撃している側とも攻
撃されている側とも無関係に思われる人たち
に、別にどちらの味方になる気もなければ、
どちらかといえば攻撃することによって騒ぎ
を煽り立てている側に対して不信感を抱かせ
ることになるのではないか。そうでなくても
取り立ててどうしたわけでもない対象に、な
ぜそれほどまでの執着を示して攻撃を仕掛け
ているのか不審に思うだろうし、何かそうし
なければならない事情が攻撃している側に生
じているのではないかとも勘ぐってしまうだ
ろうし、そこに攻撃している側のやましさが
あるようにも感じられてしまうわけだが、そ
ういうねじくれた感情があらわになるのが、
執拗で粘着質的な攻撃の繰り返しとなるわけ
だが、特にそれが勢力の弱い側への攻撃とな
って顕著に現れる傾向にあるだろうし、しか
もそもそもの始まりとして弱い側が強い側を
批判しているのに、その弱い側を貶めて、結
果的に強い側を利するような弱い側への批判
となることが多いわけで、そういう受け止め
られ方をされてしまうと、不快な弱い者いじ
めのように思われても仕方のないことなのか
もしれないが、さらにそれが一層ねじくれて
変形を被ると、強い側が我関せずで傍観を決
め込んでいる前で、弱い者同士で非難合戦を
繰り広げるような状況となってくるわけで、
そういうのを目にするといたたまれなくなっ
てくるわけだが、当人たちは互いに非難合戦
を繰り広げている限りで、そんなことを自覚
できるわけもなく、そういう行為が世の中に
蔓延し出すと次第に精神の荒廃した雰囲気が
醸し出されてきて、それに呼応して多くの人
たちが世も末だと思うような成り行きになれ
ば、まだ救いがあるのかもしれないが、世の
中の多数派を構成する人たちはそうは思わな
いだろうし、またそうした弱い者いじめ的な
批判を繰り返している人たちも、結局はその
場で主導権を握っている強い側に媚びないと、
そもそも主要なメディア上でそんな批判をさ
せてもらえないだろうし、そうなると自然な
傾向としてまずは批判しやすい人たちを重点
的に批判するような成り行きになってしまう
のではないか。しかもちょうどよく批判しや
すい手頃な対象が、一般大衆の中から出てく
るわけで、そういう手頃な批判対象となる人
たちは、一般的にいって空気を読めない人た
ちであり、空気を読めないことを自覚できず
に、自分ではまともな意見を主張していると
思い込んでいるか、あるいは思い込んでいる
ふりをしているわけで、目立ちたいがために
ふりをしている人たちはわざと批判されるこ
とを望んで、そういう空気を読めない演技を
しているわけだが、一般の人たちにそれの見
分けがつくかといえば、そんなのはどちらで
も構わないようなことであり、攻撃対象とし
ておもしろければいいわけで、結果的に何か
話題になるような人に対して攻撃が仕掛けら
れて、それが実際に世間で話題となって、そ
の話題をみんなで共有できれば楽しいだろう
し、そうであればあまり悲惨な状況とならな
い程度にとどめておくのが大人の対応となる
だろうし、その辺のさじ加減が巧妙なら、そ
れなりに話題となって、その話題をそれなり
に長引かせることに成功すれば、それだけ楽
しい気分も長引くだろうし、そうなれば攻撃
する側もされる側もそれを見ている傍観者た
ちも、それなりの満足感を得られるわけだが、
一通りそんな話題で騒いでそれが自然に収束
すれば、また次の手頃なターゲットを探す成
り行きになるだろうし、そうやってほどほど
のところで調和や均衡が保たれている状態が、
そこで主導権を握っている側にとっては望ま
しい状況だろうし、自分たちが手を汚すこと
なく、次から次へと話題性のある犠牲者たち
が登場して、ほどほどの攻撃目標として世間
の話題をさらうような成り行きが繰り返され
る限りで、結果的に世の中の安定が実現する
ことになり、それが偶然を廃した予定調和の
必然性が支配する大衆市民社会の実態なので
はないか。 

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創刊日:2001-03-26  
最終発行日:  
発行周期:不定期  
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