文学

彼の声

この世界について、この社会について、この時代について、未来について、過去について、人々について、自分が日頃感じていることを率直に語る。

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彼の声 2018.10.14 「世間の意味」

2018/10/15

 物事に関する凡庸な判断や評価というのは、
世間的な判断や評価の基準に従っている限り
で、多数派の支持を当てにできるわけだが、
なぜそれが凡庸に思われるかというと、あり
ふれているように思われるからだが、凡庸で
あるだけに否定的な批判にさらされるわけで
もないし、許容の範囲内に収まるような内容
であり、積極的に評価されるわけでもないが、
それなりに批判を免れつつも消極的な共感も
得られて、そういう判断や評価を下す人たち
は、他の人たちから安心感を持って受け入れ
られる可能性があり、そういう意味では世の
中でうまく立ち回っていると言えるだろうし、
無難なことをやりながら世間からの批判にも
さらされずに、ぬくぬくと生暖かい環境の中
で生きていけるように思われるのだが、意識
してそれを目指しているわけではなくても、
それと自覚することなく結果的にそうなって
しまう人が多いから、それが世間的に見て妥
当に思われるのだろうし、そういう判断や評
価が現状への消極的な肯定に結びつくから、
何となく妥当で無難な判断や評価だと見なさ
れるわけだが、普通に考えて現状を受け入れ
ないよりは受け入れた方が、そんな現状の中
で実際に生きているわけだから、それが妥当
に思われるのが当然なのだが、そんな判断や
評価ばかりしていると、現状を改善したり変
革していく可能性を潰してしまうことにもな
りかねず、時には批判されたり無視されるの
を覚悟で、世間的な判断や評価の基準から逸
脱したことを主張して、それに伴って世間と
敵対するような立場を強いられてしまうのだ
ろうが、日頃からその手の凡庸さに徹してい
ると、そういう機会を逃してしまうのかもし
れないし、逃してしまってもそれを悔やむわ
けでもなし、意識してそんな態度を心がけて
いるわけではないにしても、世間から漂って
くる長い物には巻かれろ的な傾向に無自覚で
いると、そういう雰囲気に慣れ親しんでしま
い、そうなるのが当然のように感じられてく
るわけだ。しかも逆に世間的な批判を受ける
立場というのも、必ずしもそうした凡庸さか
ら逃れられているとは言えないわけで、世間
からまたあんなことをやっていると呆れられ
るようなら、それ自体が凡庸さを体現してし
まっているわけで、それが世間との予定調和
の二項対立を構成している証拠ともなるわけ
だが、ではそうした凡庸さを免れるにはどう
したらいいかと問われるかもしれないが、そ
ういう方法論的な傾向にこだわって、一定の
やり方を模索してしまうと、常に世間が喜ぶ
ような紋切り型へと誘導されてしまうわけで、
世間は安心できない対象は無視して、その代
わりに批判するにしても安心して批判できる
ものを選んで批判する傾向にもあるわけで、
周囲からの反応を気にして世間の関心を集め
るような批判を心がけているうちに、安心し
て批判されるような凡庸な立場になっている
ことに気づけなくなってしまうわけだ。だか
ら世間的な判断や評価を気にかけている時点
で、意識が世間の中に埋没してしまっている
わけだが、たぶんそれを意識してもしなくて
も、世間的な判断や評価に関心を持っている
限りはそうならざるを得ないのかもしれない
し、そうでなくても普通に自分の感覚で判断
して、おかしいと思うことはおかしいと表明
するしかないのだろうが、そういう表明が世
間からの格好の攻撃目標として注目を集める
なら、そういうことを表明する人は世間の関
心の範囲内で活動していることになるだろう
し、世間に囚われている人たちは、そういう
対象を安心して批判したり攻撃するわけだ。
意識してそういう世間的な判断や評価の対象
から逃れようとしても、ただ無視されるだけ
かもしれないが、そうした判断や評価そのも
のがおかしいと思うなら、それを指摘せざる
を得ないだろうし、そこから世間的な判断や
評価に囚われている人たちのおかしさや愚か
さを積極的に批判することも可能となるので
はないか。もちろんそうした批判が凡庸な内
容となってしまう場合もあり得るから、そう
いうことにこだわっている自らの判断や評価
が、世間の基準からそれほど逸脱しているわ
けでもないことも踏まえておく必要もあるの
かもしれない。

 では世間が紋切り型と受け取って安心する
ような物事に対する態度とは違う態度をとれ
たからといって、それが何になるかと問うな
ら、世間の目を欺くことに成功するかもしれ
ないし、真の意味で世間をあっと言わせるこ
とにも成功するかもしれないが、それだけの
ことならどうしたわけでもないし、たとえ世
間が目を背けるようなことにあえて着目して、
それに世間の目を向けさせることによって、
世の中の二重基準やそれを隠そうする世間の
欺瞞や偽善を暴いて見せても、そればかりや
っていると世間の方でも慣れてしまって、そ
んなことをやっている人たちを称賛しておだ
て上げ、褒め殺すような成り行きに持って行
こうするだろうし、その挙句に些細な過ちを
大げさに咎めて、お前だってやっているじゃ
ないかと叩かれることにもなるだろうし、ど
うやっても世間を批判する少数派が世間を体
現している多数派に勝つことは難しいし、別
に勝ちにこだわる必要もないわけだが、少な
くとも世間に対して決定的な勝利を期待する
のは間違っているだろうし、そんな幻想に囚
われていると足元をすくわれるしかなく、ミ
イラ取りがミイラになるような事態を招いて、
気がつけばその手の成功者として世間的な権
威に祭り上げられてしまうのだろうが、そう
いう世間的な権威を崇め奉っているのが他な
らぬ世間でしかないわけだから、そういった
循環構造を絶えず意識していないと、世間も
認める著名人となった批判者とともに一般の
人たちも世間に組み込まれている事態に気づ
けなくなってしまうわけで、一般の人たちが
批判者の批判内容に賛同している限りで、内
容から判断してそれが良いことだとも悪いこ
とだとも言えるかもしれないが、そうした世
間を良くしていこうとするのは良いことだと
いう共通了解ともに批判者に賛同してしまう
と、世間というのがアプリオリに存在してい
るかのような権威主義に陥ってしまうだろう
し、それは社会という枠組みにも国家という
枠組みにも言えることかもしれないが、そう
した枠組みの中で特定の人物の存在を肯定し
たり否定したりするのは、その人物の言動や
行動の内容が良かったり悪かったりするから
であると同時に、大したことを主張している
わけでもないのに、その人物の社会的な名声
を考慮すると支持せざるを得ないとか、その
逆に名も知れない一般人の身の程をわきまえ
ない発言に腹がたつとか、しかも自らがそう
いう判断や評価を下していることを自覚でき
なかったり、自覚していてもそれが当然のこ
とのように思われたり、また人の後ろ盾とし
て世間や社会や国家という枠組みがあるかの
ように思われてしまうと、集団的な組織形態
としての企業や政府などの各種団体も、世間
的な評判や社会的な名声に依存して成り立っ
ていて、そこで評判を上げたり落としたり、
名声を博したり汚名を着せられたりするのが、
それらの団体の活動の内容からきているとし
ても、それを判断したり評価するのが世間や
社会という仲介物であるかのように思われて
しまうわけで、そうした世間や社会がフィク
ションだと言っても何を述べていることにも
ならないが、そうしたフィクションに人や集
団が依存しているように思われる限りで、世
間や社会がその意向に従うべき権威のように
思われてくるわけで、人や集団の活動を制限
したり制約を加えているのが世間や社会だと
思われると、実際にそうしたことに関して機
能している慣習や制度が、世間や社会の意向
に従って作られていると思われてくるわけで、
そこに人との間で微妙なずれが生じているこ
とに気づけなくなるわけだが、それらの何が
主で何が従であるというよりは、そこで様々
な物事が相互に依存し合うと同時に相互に排
斥し合うような傾向を示しているのかもしれ
ず、そのような現象が起こっている場を世間
とか社会とかみなすことができるにしても、
それはただの場であって、その場を支配して
いるのが何らかの勢力であると感じられても、
その場自体が何か特定の意向を示しているわ
けでもないのだが、それでも何らかの傾向を
伴っているように思われてくるわけだ。 

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創刊日:2001-03-26  
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