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彼の声

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彼の声 2018.10.1 「視覚的な表層」

2018/10/02

 物事の表層を見るという比喩には、逆に物
事の深層を想像することの虚構性を明らかに
するという意図があり、もちろんそれを比喩
として使うこと自体が皮肉で倒錯した表現な
のだが、またそれによって表層がうわべだけ
の内容であり、深層こそが本質的な内容を含
んでいるという錯覚も明らかにしたいのかも
しれないが、だからと言って物事の本質的な
内容が、その表層に浮き出ているというわけ
でもないし、表層はただの見えている面に過
ぎないとしても、それが見えていること自体
の真実であり、実際にそれを見れば、見えて
いる光景がその表面を構成しているだけと思
っておいて差し支えないだろうし、それを見
ること自体はさして困難ではないし、それに
ひきかえ物事の深層は目には見えないし、実
際に見ようとすれば、その表層を取り除いて
みないと見えてこないものだから、それだけ
見るには手間がかかるわけで、そうした手間
が思考することだと捉えれば、何やら比喩的
には、物事の本質的な内容を思考によって導
き出すような意味合いが得られて、それに適
合する対比的な表現として、安易に物事の表
層を見ただけでわかったような気になるので
はなく、もう一手間かけて物事の深層まで見
えるようにすることが思考することであり、
それが物事の真相に辿り着くことであるかの
ような幻想をもたらすのだが、それが幻想で
はなく真実だとみなせば、例えば物事の表層
しか見ないような行為が、気楽で安易な観光
的な視線の遊戯でしかないのに対して、物事
を思考によって解体して、その全てを白日の
もとに晒す行為こそが、見ただけでは知り得
ない物事の謎を解き明かす行為でもあり、そ
れこそが考える葦である人の特性を反映した
理性的なやり方だと肯定できるかもしれない
のだが、それ自体が比喩的な表現でしかない
わけで、本当に思考することが物事の深層ま
で見えるようにする行為だと言えるかとなる
と、考えることを物事を切り裂き分解してそ
の内部構造や仕組みを探る行為にたとえてい
るだけであって、中にはそうした比喩が当て
はまる場合も多々あるだろうし、そういった
表現が何やら真実味を帯びるようなケースを
思い描けるから、もっともらしく思われるの
かもしれないが、そもそも見ることを考える
ことに結びつけることが、見ればわかったよ
うな気にさせているわけで、そうなるとそれ
が錯覚かもしれないのに、そんなことは考慮
されないだろうし、そこに短絡的な思考作用
が介在しているのかもしれないが、言葉で表
現しようとすると、どうしても何かにたとえ
ないと表現できないわけで、そうなると見る
ことを考えることにたとえるのが手っ取り早
いのかもしれず、実際に人間の構造的な特徴
としては、他の感覚よりも視覚的な情報が優
先される傾向になっているわけで、実際に対
象を見ながら考えていることもあるだろうし、
何よりも言葉で表現された文字情報はそれを
見ることによって読み取れるわけだから、ど
うしても思考に関する感覚が視覚過多になる
傾向は否めず、別にそれを他の聴覚や触覚や
味覚などの強調によって覆そうとするのもお
かしいわけで、そうなるのは自然な成り行き
でしかないわけだが、だからこそ見ることか
ら得られる情報は、事物の表層からしか得ら
れないと考えるのが妥当なのだが、たとえそ
の表面が透き通っているとしても、その先に
見えるのは深層の表面でしかないだろうし、
それも表層ではあるわけで、要するに表層を
切り裂いてみれば、またその下に埋もれてい
た別の表層に出くわすことになり、いくら皮
をむいてみても、それは玉ねぎの皮のように
なっているだけで、表層の表面にも深層の表
面にもそれぞれに表面が見えているだけだと
いうことが理解されなければならないわけだ。

 そうであっても思考には一般的にいって物
事の真実を見抜く力が求められているわけだ
から、それが思考力であり、そこでも見抜く
という見る表現に思考が伴っているのは疑い
ようがないわけで、見ることと考えることの
結びつきが強い傾向を示しているのは事実で
あり、比喩的に両者を同一視することも一般
化しているわけで、同一視という表現自体も
見ることと考えていることに関係しているわ
けだから、見ることが考えることを伴ってし
まうのは避けようがなく、それ自体は何ら問
題ではなく、むしろ推奨されていることであ
り、積極的に見ることを考えることに結びつ
けるべきであり、だから視覚に関するたとえ
を使って思考を表現することに、いちいちい
ちゃもんをつける必要もないわけだが、一方
で見ることは物事の表層を見ているという事
実にも結びついていて、その事実が皮相上滑
りのような否定的な思考表現にも結びついて
いて、物事の表面に気を取られて本質を見抜
けないことのたとえにも使われるわけで、確
かに見ること自体はその表面しか見えていな
い事実がある一方で、表面的ではないところ
に物事の本質があって、その容易には見えな
い本質を見抜くことが思考に求められていて、
思考力を使って物事の真相を探ることが、表
層の下にある深層にたどり着くことにたとえ
られてしまうわけだが、その一方で見ること
は錯覚にも結びつき、錯覚は幻想をもたらし
て、錯覚が見ることから生じて、幻想が考え
ることから生じるとすれば、そこでも否定的
な意味で見ることと考えることが結びつくわ
けだが、そうした悪い意味での結びつきが生
じてしまうと、視線も思考も誤った方向へと
導かれて、そこから思い違いや勘違いが引き
起こされて、意識がありえない妄想の虜とな
ってしまい、そのうち見えないものまで見え
てくるかもしれないが、そうなるのが嫌だか
らといって、見たくないものは見ないように
して、見たいものだけ見るようにしていれば、
自分の好みに合った自己中心的な世界観が意
識の中で形成されて、自らの世界観に合わな
いものは生理的に受けつけないような偏狭な
性格に陥ってしまうかもしれないが、どうな
るにしても、まずは物事を見るということが
その表層を見ていることは自覚しておくべき
で、見るという行為によっては見ているもの
の表面しか見えていないわけで、そうした事
実を踏まえながら思考を働かせて、見ている
対象に意識を集中させて、その機構や機能や
仕組みや、それに関係して引き起こされる現
象や出来事を考えるにしても、それらの何が
本質的なことだとみなすにしても、それに関
する様々な条件づけや水準によって、物事の
本質が異なってくる可能性もあるだろうし、
それらの物事の中で何に注目するかによって、
それに関係して起こる現象も異なってくると
いうか、現象にも様々な面があって、それを
見る角度や方向に応じて、現象のありようも
変わってくると捉えられるかもしれないが、
それが一つの現象の部分的な側面であったり、
あるいは複数の現象が複雑に混じり合ってい
て、それぞれを単独で取り出して見るわけに
はいかなかったり、見えている表面だけでは
計り知れない量や捉えきれない内容を含んで
いることを、それについて思考することによ
って理解できるかもしれないが、それでもな
お見えているのは表層であり、そこからは物
事の一面的な理解にしか至らず、多面的かつ
全面的な理解に至るには、見ることだけでな
く思考することが必要となってくるわけだが、
見ることが思考することにつながるには、そ
こから疑念や疑問が生じないと、考えるには
至らないわけで、見たいものをいくら見ても、
疑念や疑問は生じないだろうし、この世に見
たくないものがあることから、なぜそんなも
のがあるかを考える契機が生じて、それが自
らの視線の限界や思考の有限性を意識させた
り、自らを取り巻いている世界に対する自分
なりの理解にもつながるわけだ。 

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創刊日:2001-03-26  
最終発行日:  
発行周期:不定期  
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