文学

彼の声

この世界について、この社会について、この時代について、未来について、過去について、人々について、自分が日頃感じていることを率直に語る。

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彼の声 2018.9.13 「信じるか否かの判断」

2018/09/14

 科学技術などを産業に応用する分野では理
論から実践が生まれ、実践から理論が生まれ
るのは当たり前のことかもしれないが、それ
が具体的に何の理論でどんな実践であるかに
よって、それに対する判断も評価も人によっ
てそれなりの偏差を伴うだろうが、そこで何
が考案されてどんなことが行われるかについ
ては、そうなる過程で一定の規則的な動作や
成り行きがあって、それに伴って生じる人々
の行動や言動に特有の作用や影響を及ぼしな
がら、それらを一定の方向や範囲に導いてい
るわけだろうが、だからと言って人の活動が
そうした理論と実践だけから成り立っている
わけではなく、それ以外の何だかわからない
ことも含めて様々なことが行われているわけ
で、その実態は理論と実践の関係だけからで
は掴みきれないのだろうが、その理論とも実
践とも違う何だかわからない何かを具体的に
説明できるかとなると、それを説明していく
過程で理屈が先行して、そこで法則のような
ものが説明されてしまうと、すぐにそれは理
論と実践の関係に還元されてしまうのかもし
れないが、では法則から逸脱する面があるか
というと、たぶんそれは偶然の巡り合わせで
あり、それらが混じり合って歴史的な経緯を
生じさせているように思われるだろうが、や
はりそれがわかりにくいところであって、歴
史にも何らかの法則が適用されて、それに基
づいて様々な出来事が起こるように説明され
ると、誰もが納得してしまうわけで、全てが
偶然に起こっているのではなく、そこには必
ず原因と結果の因果関係があるように説明さ
れてしまうわけだが、果たしてそうではない
ような説明が可能だろうか。少なくともそこ
で何だかわからないような出来事が起きると、
何かそれが興味深い現象に思われて、そうし
た現象が起こる必然性を考えていくと、それ
が起こる仕組みや起こるための条件や、そこ
に及ぼされる作用や影響などが導き出されて
くるわけで、それらが組み合わさって、そん
なことが起こるに際しての理屈が形成されて
くるのだろうが、たぶんそこからはみ出てく
るのが、わけがわからないことになってくる
わけで、それは偶然の巡り合わせとしか言え
ない面であって、何だかわからないが結果的
にそうなってしまうから、それが謎に満ちて
いて興味深く思われてくるわけだが、それで
はなぜそうなってしまうのかという疑問には
答えられないわけで、ではそうした面につい
てはどう処理すれば説明が成り立つのかと問
われるかもしれないが、ただそれを事実とし
て語る以外にはあり得ないのかもしれず、そ
れだけにとどめておけば済んでしまうような
ことかもしれないが、そこで何かが起こった
と語るだけでは説明になっていないだろうし、
なぜどうしてどうやって起こったのかを説明
しないと不十分に思われてくるとすれば、そ
うなるとそれと似たような現象を列挙しなが
ら、それらの現象の間に成り立つ関係をあれ
これと想像してしまうわけで、そしてそうし
た説明にあたかも理論的な裏付けがあるかの
ように匂わせると、何やらそこに科学的な根
拠があるように思われてくるだろうし、そう
した疑似科学のような、あるいは似非科学の
ようなごまかしが信じられてしまうわけだが、
それをいったん信じてしまえばごまかしとは
思わないだろうし、そうやって何かと何かの
関係が世界の方々で成り立っているような物
語が説明されてしまうわけだが、それは夢想
であり迷信でしかないのかもしれないが、そ
れも興味深く思われることは確かで、そこか
ら幻想や妄想が生まれて、そうした幻想や妄
想を信じることによって宗教が生まれるのか
もしれないが、宗教にも理屈が伴ってくると
哲学的な要素が追加されて、それが学術的な
対象ともなってくるわけで、どのようにして
そうした宗教が生まれて、それが人々の間で
信じられて社会に定着するかについての理論
的な考察とともに、学問としての宗教学が成
り立つわけだろうが、それはあくまでも宗教
についての外部的な視点からの考察であり、
そうした宗教の教祖や信者たちが見たり行な
って見せた奇跡の類いを信じているわけでは
なく、なぜそうした非科学的な奇跡を人々が
信じてしまうかについての考察にとどまるわ
けだ。

 何を信じて何を信じないかはその人の勝手
かもしれないが、信じられることと信じられ
ないことに関して何らかの理屈を設定できれ
ば、人が物事を信じるか信じないかの判断に
ついて、もっともらしい説明が可能となるの
かもしれないが、そうした理屈もその場の状
況に応じて異なってくるだろうし、それに関
して例えば何らかの宗教の信者と一般の人々
とでは、信じられる内容も傾向も違って当然
だろうし、そこには信じるに足る条件の違い
があるわけだが、それらの人々を取り巻く環
境も異なっているわけだから、環境が違えば
そこに及ぼされる作用や影響も異なってくる
だろうし、さらに時代状況や地域も異なれば、
信じられる内容も変わってくるかもしれない
し、そこに様々な条件付けがあって、その条
件を満たせば信じられることになるわけだろ
うが、そうなるとある人にとっては正しいこ
とであっても、別の人にとっては正しくない
場合が出てくるだろうし、それ以前に正しく
思われることだけを信じるかとなるとそうで
もなく、たとえ迷信だとわかっていても、そ
れが迷信であることを承知で信じている人も
いるだろうし、また科学的にその確かさが広
く世間的にも実証されているのに、それを信
じない人も出てくるわけで、理屈の上では正
しいことであっても、それだけで世の中が動
いているわけでもないから、いくらそれが正
しいことを証明して見せても、それでも信じ
ない人が出てくるわけで、そういう人に限っ
てたわいない迷信を信じている場合もあるか
もしれないが、それがいかにたわいない迷信
の類いであっても、気休め程度のことである
なら、それを信じようと信じまいと、大した
ことではないだろうし、またそれを信じる信
じないの基準ではなく、それとは別の基準に
よって物事が動いている場合もいくらでもあ
るわけで、その場でどのような基準を適用す
るのが妥当であるか否かは、そこで実際に行
われていることに合わせた基準があるだろう
し、さらにそうした基準がない場合も含めて、
そこで実際に行われていることが人の活動の
実態を物語っていて、そこで何ができて何が
できないかは、それを信じようと信じまいと、
実際に何らかの活動が行われている限りで、
そんなことが行われている事実を認めざるを
得ないだろうし、またそれを推進するにして
もやめさせるにしても、例えばやめさせなけ
ればならない理由を、いかに正しい筋道や理
屈を用いて説明してみても、実際にそうした
行為や活動に依存しながら生きている人にと
っては、やめるわけにはいかないことであり、
たとえそれによって周囲の人たちが迷惑を被
っていようと、強制的にやめさせられない限
りはやめないだろうし、そうなってくると科
学的な確かさがどうのこうの言ってみても無
駄で、何に基づいてそんなことが行われてい
ようと、実際にそこでそれを行えるという事
実が、何ものにもまさる真理となるわけだ。
そういうところでは信じるか否かの基準より
も行えるか否かの基準の方が優先されるわけ
だが、それが妥当であるか否かとなると、た
とえそれを行えるとしても、法律に違反して
いたり、公序良俗に反するような行為であっ
たり、倫理的にも道義的にも許されない行為
であったりすれば、それなりに様々な方面か
らそれ相応の反作用が及ぼされるだろうし、
そうした作用を退けながらも行えるなら、そ
うしたことを行なっている人や集団には、そ
れを行えるだけの力があると言えるだろうし、
それが権力であるか暴力であるか、あるいは
他の様々な力が複合的に重なり合ってそうし
たことを行えるだけの力を構成しているかは、
その場の事情となるわけだろうが、たとえ偶
然の巡り合わせが作用してそうなっていると
しても、実際にやればできるという事実があ
ると、時としてそれをやめる理由よりはまさ
ってしまうだろうが、それでもそれを実際に
やめた時には、そのやめた理由というのをや
めた後から見つけられるわけで、結局全ては
事後的に語られるわけだが、中には事前に語
られることもあって、それは予想であったり
予言であったりするのだろうが、その予想や
予言の正しさが証明されるは、やはり事後に
なってからでないとわからないわけで、要す
るに何かが行われたり何かが起こった後から、
それを信じるか否かの判断がされて、その判
断に基づいて、これから行われることや起こ
ることを信じるか否かの判断もされるわけだ。
 

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創刊日:2001-03-26  
最終発行日:  
発行周期:不定期  
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