文学

彼の声

この世界について、この社会について、この時代について、未来について、過去について、人々について、自分が日頃感じていることを率直に語る。

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彼の声 2018.9.9 「見せかけの世界」

2018/09/10

 何かを他人に向かって見せている人には虚
栄や虚飾がつきものだが、大抵は見せかけに
は仮の目的が設定されていて、その目的が見
せかける理由として世間的にも妥当だと思わ
れるから、そんな目的があるかのように装い、
それを他人に信じ込ませようとしているわけ
で、またそれとは違う真の目的があるかのよ
うに見せかけている場合でも、仮の目的が見
せかけであることをほのめかして、暗にそれ
とは違う真の目的を探させようと仕向けて、
そうやって見ている人に疑念を抱かせるわけ
だが、それに関してヒントとなるようなこと
をほのめかして、そのヒントから答えを連想
させて、それが真の目的だと信じ込ませよう
ともしているわけで、それこそが見せかけの
仮の目的であるとすれば、実際には当人にも
目的がわかっていないかもしれないし、初め
から目的などなかったりする場合もありそう
だが、そうやってたとえいくら独りよがりに
勝手に何かをやっているように装ってみても、
実際に世の中で何をやるにも、それなりの制
約や制限が伴ってくるわけで、それがそれを
行うための外部的な条件にもなってきて、そ
の条件を満たしているからそんなことができ
て、条件を満たさなければできないわけだが、
当人がそれを勝手にやっていると思い込んで
いても、当人には自覚できない心理的あるい
は物理的な制約や制限を課している境遇の中
で、できることがそれ相応に限られていて、
そんな中でもやっていることが仕事となると、
それが収入に結びつく限りで仕事とみなされ
て、その仕事が生じさせる価値を金銭と交換
できないと収入が生じないわけだが、それに
は交換に応じてくれる他の人や団体がいない
と、そういう類いの仕事は成り立たなくなる
わけで、それが仕事を成り立たせる上での外
部条件ともなるわけだが、そういう仕事以外
に、特に収入に結びつかないのにやっている
ことでも、趣味でやっていることをはじめと
して様々にあるだろうが、それらのどこから
どこまでが見せかけであるとしても、そうい
った見せかけの演技を行なう上で、なぜそん
なものを他人に見せようとしているのかに関
して、見せかけている当人の自覚以上の何か
が感じられるとすれば、やはりそこには、そ
んな見せかけの演技をもたらしている社会状
況があって、その人に見せかけの演技を課し
ている外部事情として、その人を取り巻く社
会状況がその演技に反映していて、そこで何
かを見せかけなければならない事情がその人
の演技を通して生じているわけだろうが、そ
んなメディアを通した見せかけだけの世界に
心を奪われていると、何か感覚が狂ってくる
だろうし、そこから見せかけ以外の真の現実
が他にあるかのように思われてしまうと、そ
れこそが感覚の狂いから生じる幻影に過ぎな
いのかもしれず、真の現実として、そこには
見せかけ以外の何もなく、見せかけこそが全
てであり、見せかけていない部分など枝葉末
節な取るに足らない些事であり、要するに何
かを見せたいと思うことこそが真の目的であ
り、それ以外ではないとしたら、そんな傾向
の社会の中で人々は絶えず自らの虚栄や虚飾
を見せたくてうずうずしていることにもなる
だろうし、それを特定の他人に見せたいとい
うよりは、世間に向かって誇示したいのかも
しれず、そうした感情を抑えきれないから、
そうした自己顕示欲を他人と競い合うように
して見せる成り行きが生じてしまうわけだろ
うし、またメディアをはじめとしてそうした
行為を煽り立てるようなことが盛んに行われ
ていて、絶えずそこに人々の関心を集めよう
としているわけだ。そしてそうした社会状況
が何をもたらしているのかといえば、単に見
せびらかしの演技が世の中に蔓延しているの
かもしれず、他より目立ちたいがための無用
な見せびらかしの競争が盛んに行われていて、
それだけ無駄な労力と資源が過剰に消費され
て、そうした成り行きの中で多くの人々が見
せかけの繁栄を謳歌していて、それを見てい
る他の多くの人々も、それを羨ましがったり
妬んでいるような社会状況がもたらされてい
るわけだ。

 果たしてそれ以外の真の現実と言える何か
を見い出すことができるだろうか。いくら見
出そうとしても、それが一向に見えてこない
限りは、何かとは何かでしかないかもしれな
いが、さらにそこから踏み出して、現状で見
えているとりあえずのものでしかない仮の現
実を取り去ろうとすれば、その取り去ろうと
する動作さえも、それを見せようとすれば、
見せかけの演技でしかなくなってしまうのか
もしれないが、そこで何に気づいて何に気づ
かないにしても、見せかけようとすると、そ
れ以外の何かが見えてしまう場合もあるだろ
うし、それが見せかけようとしている人には
気づかない何かになるわけだが、例えばそれ
が書き割りの舞台セットであったり、張りぼ
ての小道具であることに気づいたとしても、
それは見せかけようとしている人にも気づい
ていることであり、気づいていることに気づ
かないように演技しているわけだから、見せ
かけでしかないことを承知しながら演技して
いるわけだが、そんな見せかけの物語の中に、
それを演じている人も見ている人も意識が入
り込んでくる一方で、演じている自らもそれ
を見ている自らも張りぼてでしかなく、見せ
かけている舞台装置もそれを見ている観客席
も施設全体が張りぼてでしかないとは思わな
いだろうし、少なくともそれなりの中身を伴
っているからこそ、実態としてそこに経済が
生じていて、そこで人や物や情報を含んだ物
事が取り扱われているわけだが、とりあえず
はその誰もが信じて疑いようのない物事の中
身というのが、見かけとは違うことを証明で
きるかというと、たぶんそれが見かけ倒しに
なった時に初めて、見かけとは違うことに気
づくわけで、それを見せかけようとしている
限りで、わざとぐろい光景を見せようとする
にではない限り、その大抵は良く見せようと
しているわけだから、そのままの印象では見
かけと同じで、良い印象しか持たれないだろ
うし、その限りで見せかける行為が成功して
いることになるわけだが、それとは違う真の
姿としては、見かけ倒しになること以外には
あり得ないわけで、またその見せかけの演技
が見せかけでしかないことを暴いて批判しよ
うとする人たちも、それが見掛け倒しでしか
ないことを強調したがるわけで、そしてそう
いう面を強調しすぎると、見掛け倒しである
かのように見せかけようとして、かえって物
事の真の姿を取り逃がして、そんな批判自体
が見かけ倒しとなってしまって、見かけ倒し
に見せかけることにも失敗してしまうのだが、
そこで動作するすべての出来事が見せかける
ことを中心にして動いていくと、もはや見か
けに囚われた意識の中では見せかけること以
外の現実など存在しなくなるのかもしれず、
たとえそれが現実の中に存在していても、見
せかけることに心を奪われているのだから、
意識がそれに気づけないのも当然であり、そ
うなってくると結局は、自分の都合のいいよ
うに都合のいい部分だけを世間に見せたいと
いう意識に囚われている自らを意識できなく
なるわけだが、そういう見栄を張る行為以外
で、何か実態を伴った意味や意義を世の中に
見い出せるかとなると、たぶんそれ以外には
何もなくても、取り立てて不都合は感じない
のかもしれず、中には命に代えても見栄を張
りたい意識に囚われたまま自滅してしまう人
も出てくるかもしれないし、見かけこそが全
てだと強調しても、それほど反発を招かない
ような世の中になっているのかもしれないが、
やはりそうなると物事の表層で変化する些細
な濃淡の違いを強調せざるを得なくなるわけ
で、それが物事としての成り立ちや動作には
それほど影響を与えなくても、それを見る意
識には多大な影響を及ぼすわけで、ちょっと
の違いに過剰に反応して、しかもそれを自ら
の立場や境遇に応じた事情から生じる都合の
いいように解釈して、そんな都合に合わせた
色眼鏡を通してしか物事を見ようとせず、そ
れが他の事情から生じる別の人の都合を反映
した色眼鏡を通した物事とは違うように見え
ているとしても、そうした差異にも過剰に反
応するしかないだろうし、そうした過敏な視
覚神経が感知する意識の中では、物事を見る
ことだけに特化した世界に感じられるだろう
し、それ以外の感覚が劣化して衰えていると
すれば、それが何に対して衰えていると判断
されるかがよくわからないところかもしれな
いが、そのような判断の対象となる感覚の持
ち主からすれば、見栄を張るだけに特化した
視覚過敏な人たちは何か狂っていると感じる
だろうし、そういう人たちが張りぼて人形の
類いに感じられても仕方のないところなので
はないか。 

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創刊日:2001-03-26  
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