文学

彼の声

この世界について、この社会について、この時代について、未来について、過去について、人々について、自分が日頃感じていることを率直に語る。

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彼の声 2018.9.8 「強いられた行為」

2018/09/09

 たわいないことに血眼になっている人たち
は、それがメディア上で行われていることな
ら、広告宣伝現象に操られていると言えるか
もしれないが、何が広告宣伝なのかと言えば、
たぶん売名行為は自身の広告宣伝であると言
えるだろうし、自身の存在を広く世の中に知
らしめることが、たわいないことだとは思え
なければ、血眼になってそんなことを行なっ
ていると見えてしまうわけだが、そうするこ
とによって利益がもたらされるなら、それが
たわいないことだとは言えないような気にな
るだろうし、功利的な行為ともなれば、どの
ようなやり方で利益を得ようと変わりないよ
うにも思えるかもしれないし、少なくとも合
法的な行為であれば、社会的にも許されるよ
うにも思われてくるわけだが、では倫理的に
許されるかとなると、何か微妙な感じがしな
いでもなく、自らのやっていることが、売名
行為以外の面でも、あるいは功利的な面以外
でも、例えば社会貢献となるようなことをや
っていると思えるなら、自らが重視する倫理
観にも合致するかもしれないが、自らの利益
と社会の利益を合致させるには、自身ととも
に周囲の人々もやっていることに賛同してく
れるなら、何やらその気になって、自らの行
為を正当化してもいいような気になってくる
だろうし、社会貢献とはそういうことなのか
と問うならば、何が社会のためになるのかは、
それほど明確な基準があるとは言えないのか
もしれないが、その辺で安易には決めつけら
れないにしても、何だかわからない曖昧なこ
とをやっている限りで、そういう捉え方があ
る意味で責任逃れのようにも思われてくるの
だろうが、自らがやっていることについて、
自らに責任があると自覚できるのは、それが
明確に他人を巻き込んでいる場合であり、実
際にそうなっているか否かが、判断基準とな
ってくるだろうし、そこから社会的な責任も
生じてくるのだろうが、しかも他人に不利益
を生じさせているとなると、その他人に賠償
しなければならなくなる場合も出てくるわけ
で、そうした自身と他人との関わり合いから、
自身と社会との関わりも自覚できるようにな
るわけだが、単に自らの倫理基準が、他人に
迷惑をかけているか否か、ということにもな
らないのかもしれず、たとえ他人に迷惑をか
けていても、自分が納得していれば苦になら
ない場合もあるだろうし、結果的にそうなっ
てしまうのだから仕方がないと割り切ってし
まえば、いくら他人に迷惑をかけようと、や
っていることにそれ以上の価値があるように
思われてくると、周りに多くの犠牲を強いる
ようなことでも、やる意義があるように思わ
れてくるだろうが、それ以前に自分が主体的
にやっているのではなく、何らかの事情でや
らされていることともなれば、やらせている
側に責任があって、やらされている限りで受
動的な立場でいられるから、その分楽な立場
でいられるような気にはなれるだろうし、そ
れがそうしたことをやらせる集団に所属する
ことから生じる居心地の良さにもつながって
くるのかもしれないが、たぶん周囲に多くの
犠牲を強いるようなことは、集団で行われる
ことが多いだろうし、単独で大量殺傷事件な
どを起こしたりするのでない限りは、これは
上からの命令でやらされていることなのだか
ら、どんなにひどいことをやっていると自覚
していても、自分にはどうすることもできな
いと思いながらやってしまう場合が出てくる
わけで、それが集団で行うことの利点かもし
れないし、それだけ理不尽なことを大っぴら
に行えるわけだが、また集団として組織的な
統率がとれていない時でも、群集心理として、
他の人たちがやっているのだから自分がやっ
ても構わないと感じられてしまう時などは、
例えば暴動が起こってそれに乗じて略奪行為
などが行われる時には、集団がそういう心理
状態に支配されていることになるわけだが、
ある意味でメディア的な広告宣伝現象の中で
多くの人たちが踊らされるような場合でも、
そういう心理が働くだろうし、他人がやって
いるのだから自分がやっても構わないと思う
だろうし、しかもそれがどう考えてもたわい
ないことであって、周囲にもそれほど迷惑を
かけていないと思われ、売名行為といっても
本名をさらしているわけでもなければ、それ
だけ無責任な気分で馬鹿げたことができるわ
けだ。

 人に無責任なことを行わせるのは、そうい
った様々な条件を満たしている限りで、それ
が可能となってくるわけだろうが、場合によ
ってはやりたいことをやっている気にもなれ
て、やる動機とかやっていることの理由づけ
として、そうした条件を持ち出してくること
もあるわけだが、中にはもっと切実な自らの
内から湧き上がってくるような情熱を持って
やっている人もいるだろうし、そういう何だ
かわからないような動機というのが、芸術な
どの方面では、やっている自らを正当化する
上で重視される傾向があるのかもしれず、そ
れを幻想だとみなしても構わないのだろうが、
自らの主体性を確立するにはそうした幻想や
妄想を利用しない手はないだろうし、そうい
った起源の定かでない原初的な動機というの
が、突き詰めて考えると自らの存在そのもの
に行き着いてしまうわけで、自らが存在して
いることを肯定的に捉えて正当化する上で、
自らが実際に行なっていることが、その存在
の証明にもなり、自らに関わる全てが、実際
に自らの意志で主体的に行なっていることの
中に凝集されているようにも思えるのではな
いか。そうなってしまうと他との関わりとは
無関係にやっているようにも思われてくるわ
けだが、そこで何を重視するかによって力点
も移動するわけで、単独で何かを行う傾向の
強い人ほど、独りよがりな妄想にとらわれる
傾向も強くなって、また他との協力や協調を
重視する傾向の強い人ほど、自分を突き放し
て見ていて、自分の能力や限界に関して幻想
を抱かない傾向となるのかもしれないが、自
分一人で全ての傾向を持つことは不可能だか
ら、様々な傾向を持った人たちを用途に合わ
せて効果的に組み合わせることによって、集
団の組織力を高めようとする傾向にもなるだ
ろうし、実際にそういう集団に関わってみて、
その関わっている事業などが大成功している
ようだと、集団としての能力や強さに関して、
何か万能であるかのような幻想も抱いてしま
うのかもしれないが、それもその集団だけで
単独で存在しているわけでもないだろうし、
それに関わってくる周囲の人や他の集団との
相対的な力関係の中で存在しているわけだか
ら、結局個人にしても集団にしても、それだ
けについて考えてしまうと、その中にそれ相
応の力がみなぎっているような幻想を抱いて
しまうわけで、場合によってはそういう能力
に関する過大評価が仇となってしまう事態も
生じてくるわけだ。それは国家や民族や宗派
などにも言えることかもしれず、過大評価す
る要因に事欠かないだろうが、それらを脅威
に感じること自体がすでに過大評価を伴って
いるわけで、一方では他国を過大評価しなが
ら脅威に感じたり危険視しながらも、もう一
方では貶めて欠点をあげつらって批判するよ
うな成り行きも生じてしまい、それらのどこ
からどこまでが本当の実態を反映しているの
か理解に苦しむかもしれないが、そうした幻
想や妄想を抱かせること自体が、そうなって
しまう自らの自信のなさが反映されているの
かもしれし、そんなふうにあることないこと
混ぜ合わせて妄想を膨らませるように仕向け
てしまう原因が、そんなことをやっている自
らにあり、その対象が他国なら、自国にその
原因があるわけだろうが、自らの自信のなさ
を紛らわすために、他人の欠点をあげつらう
ように、自国のどうしようもない現状から目
をそらすために、他国の欠点や問題点を盛ん
に論じる傾向も出てくるのかもしれないし、
そこからさらにまた、自国のどうしようもな
い現状を盛んに言い立てることが、そのどう
しようもない現状に直接取り組んで、状況を
改善するための手段を欠いている絶望感につ
ながっているのかもしれないし、いずれにし
てもそれは責任逃れというよりは、自らがそ
のことに関して責任を取りようのないどうし
ようもなさを実感させるのかもしれず、そう
いうことがメディア上で盛んに言い立てられ
ている現状があるとすれば、それと自覚する
ことなくそういう人たちが悲鳴を上げている
と判断しても構わないのではないか。誰もが
そういう状況の中で疑心暗鬼に陥っているだ
ろうし、根本的なところで何をどうすればい
いのかわからないから、絶えずそこから外れ
てしまうような逸脱の中で、自らをはぐらか
すような言動に終始しているのではないか。 

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創刊日:2001-03-26  
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