文学

彼の声

この世界について、この社会について、この時代について、未来について、過去について、人々について、自分が日頃感じていることを率直に語る。

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彼の声 2018.8.6 「決断を促される機会」

2018/08/07

 何かやっていることの軌道修正を行う必要
が生じてくるとすれば、それはやってきたこ
との良し悪しを判断するというよりも、悪い
なりにも納得できるようなやり方を模索する
ことになるかもしれないが、無理に納得しよ
うとしてはいけないかもしれないし、納得し
ていないのに惰性でやり続けていることがあ
るわけで、納得していないということは自分
の感覚と合わないということであって、しか
もやり続けられているということは、そうい
う成り行きに自らが囚われていて、そんな成
り行きに自らの活動を合わせているというこ
とであり、納得できないのだからそれを否定
的に評価しつつも、それを行うことによって
現状が成り立っていることも確かなのかもし
れず、そうした活動の実態が自らの生活を支
えているとすれば、それに納得するのが妥当
と思われるかもしれないが、無理に納得すれ
ば、それとは別の成り行きに持っていける可
能性を放棄してしまうことになるのかもしれ
ず、そうであるならやっていることの現状に
関して無理に納得するのは、自らが囚われて
いる成り行きに屈してしまうことにもなるだ
ろうし、それが不本意なら納得しないままで
も構わないのかもしれないし、納得はしない
が現状の中で妥当だと思われるようなことを
やっていくしかないだろうし、その辺の微妙
な感覚を保持し続けることが肝心なのかもし
れないが、そんな自らの感覚に自ら裏切られ
ている可能性もなきにしもあらずで、そう思
われてしまうことが、現状に納得できないこ
とそのものなのだろうが、ともかくこうだと
決めつければ、決めつけただけ他の可能性を
捨ててしまうことになるだろうし、しかもそ
れで構わないのかもしれないわけだから、そ
の辺で逡巡してしまうのは仕方のないことか
もしれないが、いくら迷っても成り行きが待
ってくれるわけでもなく、周囲の状況から決
断を促されて、他の可能性を放棄して一つの
ことに照準を定めて、それをやることに邁進
してしまう成り行きになってしまうこともあ
るわけで、いつまでも判断を留保したニュー
トラルな状態ではいられないわけだが、待て
るなら待っていても構わないわけで、やりた
いことがやれる機会が巡ってくるのを待って
いるうちに、何もできないままとなってしま
うかもしれないが、それでも機会を伺うには
待つことが肝心だろうし、やはり何をやるに
もやらないにも、その良し悪しを判断する決
定権が自身にはない場合があるわけで、常に
どちらでも構わないのにどちらか一方を選ば
なければならない、という両義的な対応を迫
られているのかもしれず、それでは根本的に
判断しようがないわけだが、そこに判断の限
界があり、判断する基準が示されていないこ
とを自覚せざるを得ないのかもしれないが、
それでも結果的にはそれをやってしまうわけ
で、事の良し悪しを決められないまま、結果
的にやり続けていることがあるとすれば、そ
れは他の要因によってやらされている可能性
が高いだろうし、それをやる成り行きに囚わ
れていると判断しておくのが妥当なところな
のではないか。しかもそのやっていることに
納得していないとすれば、感覚としてそれと
は別の何かをやる機会を伺っているのかもし
れず、そんな機会が巡ってきたら、現状でや
っていることを打ち捨てて、それをやろうと
しなければならないのかもしれないし、実際
にそれをやろうとしてやれてしまうような成
り行きになれば、やはりその感覚の正しさを
実感することになるだろうし、はっきりとし
た自覚はないのかもしれないが、その時には
確かにそんな予感を感じていたわけで、それ
以前に不本意ながらもこれでいいのだと現状
に納得するように自らに言い聞かせるような
ことをやってしまうと、それに応じて感覚が
鈍ってきて、結果的に別のことをやる機会を
逃してしまうのかもしれないが、そこでもそ
うなってしまうことの良し悪しを自分では判
断できないのであり、たぶんどちらが良かっ
たかは他人が判断することであり、そんな他
人がいなければわからずじまいとなってしま
うのかもしれないが、それもそんな成り行き
に囚われていることにしかならないのではな
いか。

 実際に何かやっている現状がある限りで、
それをやる機会がもたらされていて、実際に
それをやっている現状の中に囚われているわ
けだが、そうなっている現状を肯定的に評価
するのも否定的に評価するのも、その時の自
身の気分次第でどうとでもなるのかもしれな
いが、それによってやっている現状を変える
ことはできないだろうし、そんな気分では変
えられない現状というのが、それをやらされ
ている成り行きに囚われていることになるわ
けだが、実際にそれによって現状が維持され
ている限りで、そんなことをやっていること
に対して妥当性が感じられてしまうわけで、
たとえそれを他人から批判されたり非難され
ても、それが妥当だと思われてしまう自身の
感覚を変えるわけにはいかないだろうし、そ
うなればそうした反応に対して反発したり反
感を抱くしかないわけだが、批判したり非難
する人にとってそれは不快に感じられる行為
なのだろうし、そんな批判や非難が妥当か否
かは、批判や非難を行なっている人の置かれ
た状況や、その人が抱えている事情にもよる
だろうが、それがメディアによって世の中に
拡散されると、そのことの良し悪しが広く一
般大衆の判断に委ねられることにもなるのだ
ろうが、それはメディアの伝え方にも影響さ
れるだろうし、それが否定的な評価を伴って
伝えられるようだと、一般大衆もそんな評価
に同調してしまうだろうし、やっていること
が明確に法律に違反しているようなら、ある
程度はそれでも構わないかもしれないが、政
治的な意図や思惑によって、どちらとも受け
取れるようなことが批判されたり非難されて
しまうことにもなるかもしれないし、また不
快な煽動行為によって事実に偏向したバイア
スが加えられたり、権力関係を伴った圧力に
よって法律違反がメディアによって黙殺され
るようなことにでもなれば、そうした作用に
民衆の支持や賛同や無関心が加わると、社会
全体がおかしな具合になってくるだろうし、
民主的な制度のもとでは、そうしたことのす
べての責任が最終的には民衆にあることにな
ってしまうわけだから、民衆の側でも責任な
ど取りようがなくなってくるわけだが、政治
的な領域ではそうなる前に選挙によって、お
かしな事態を招いている政権の転換を図る必
要に迫られるのかもしれないが、それも民衆
の側に政治に参加しようとする意識が稀薄で
あると、そんなわけにはいかないだろうし、
そうした事態が制度の形骸化を招くのだろう
が、たぶんそのことの良し悪しも民衆の側で
は判断がつかないところかもしれず、制度自
体のありように社会的な信用が生じないと、
何をやっても相手にされないだろうし、別に
それで世の中が成り立っているように感じら
れれば、それで構わないような成り行きにも
なるだろうし、そんな成り行きに社会全体が
囚われていれば、それで済んでしまうような
事態にもなりかねないのかもしれないが、そ
れで困るのは民衆の側だと明確に言えないと
ころが、制度や法律の限界なのかもしれず、
社会は制度や法律によって成り立っているわ
けではなく、実際にその中で暮らして活動し
ている民衆の状態が社会そのものなのかもし
れないし、いくらそこに制度や法律を張り巡
らして良い方向に制御しようとしても、そう
したやり方にはおのずから限界があるだろう
し、それが制度や法律に対する社会的な信用
や信頼感にも結びついてくるわけだろうが、
すでに制度や法律が社会に張り巡らされてい
て、それに基づいて様々な物事が動いている
現状もあるわけだから、そうしたことが行わ
れている程度に応じて、それなりに信用や信
頼が生じていることも確かであり、そうした
現状に民衆の側がどこまで自覚できるかが、
そうした制度や法律の活用にも影響が出てく
るだろうし、なるべく民衆から信用され信頼
されるような制度や法律にしていくことが、
政治的な活動の中では重要になってくるので
はないか。 

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創刊日:2001-03-26  
最終発行日:  
発行周期:不定期  
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