文学

彼の声

この世界について、この社会について、この時代について、未来について、過去について、人々について、自分が日頃感じていることを率直に語る。

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彼の声 2018.7.10 「予定調和の二項対立」

2018/07/11

 世間の話題となることが人々の関心を呼ぶ
のは当然のことかもしれないが、人々の関心
を呼んだから世間の話題となり、人々の関心
を呼ぶことと世間の話題となることは同じこ
とだとも言えるだろうし、別にどちらが先で
あっても構わないのかもしれないが、別に世
間の話題とはならずに人々の関心も呼んでい
ないことであっても、世の中では様々な出来
事が起こっているし、メディアが取り上げな
いことであっても、様々なことが行われてい
て、特にそれらに直接関わっていなければ、
そうしたことについて関心を持つことも言及
する必要もないかもしれないが、そもそも知
りもしないことについて語れるはずもないの
だが、それでも世の中の傾向や風潮などにつ
いて批判的に語ろうとするなら、それなりに
知識のある人なら難なく語れるだろうし、そ
れがそれなりにもっともらしく感じられると
すれば、それなりに説得力のありそうな内容
になるのではないか。そしてそこから何が言
えるかというと、世の中で起こっていること
に関して、様々な出来事の間で関連性や実際
に結びつきがあれば、それらが社会全般の傾
向や風潮と地続きであるように思われるだろ
うし、それらに関して批判的な姿勢で何か語
れるとすれば、批判的に取り上げる傾向や風
潮に関して、それが世の中の主流を構成して
いる人や集団が行なっている行為や動作とし
て、あるいはその典型的な事例として批判的
に取り上げられることが多いわけで、そうし
た主張に何か説得力があるように思われるな
ら、そうした問題となっている行為や動作を
改めれば、世の中が良い方向へ変わっていく
ように思われるだろうが、そういう批判され
るようなことを行なっている人たちが世の中
の主流を構成しているわけだから、少なくと
もそれらの人たちが社会の中で主導権を握っ
ている可能性が高いだろうし、だからそうし
た行為や動作が社会の中で目立つのであり、
批判的に取り上げられるほどの話題性もある
のだろうが、そうだとしても少なくともそれ
らを批判している人たちは、社会の中で主導
権を握っていない可能性が高いだろうし、と
いうことはそれを改めるには、現状で主導権
を握っていない人たちが主導権を握って、日
頃から批判していることについて改めさせる
ようなことを行わなければならず、そういう
成り行きで改革を行わない限りは、批判して
いることが改まる可能性は低いだろうし、そ
して現状で主導権に握れていない人たちが、
主導権を握れる可能性があるかというと、メ
ディアでその手の批判が話題となるのだから、
そういう部分では主導権を握れているわけで、
そうした批判に同調する人が多ければ、世の
中の主流を構成するような人にとっても、そ
れは目に余るような許し難い行為と映るのだ
ろうし、要するにやり過ぎなことをやってし
まったから、メディアで取り上げられて批判
されてしまうわけで、できれば何かもっと穏
便に事を運べば、表沙汰にならなかった可能
性があるわけで、要するにやり過ぎなことに
ならなければ黙認されるような行為というも
のがあって、そういうことをやるのが世の中
の主流を構成する傾向や風潮となっているの
ではないか。

 やり過ぎということは配慮が足りないとい
うことであり、結局メディアを通して批判さ
れるような行為は、やり過ぎなければ広く世
間一般で容認されているような行為であり、
それを誰の目にも余るようにあからさまにや
ってしまうと、その程度がひどすぎて見過ご
すことができなくなってしまうのだろうし、
そうしたことはなるべくやらないという社会
通念としての建前を維持できなくなってしま
うわけだ。その時点でそうした建前としての
演技をかなぐり捨てて本音の部分がむき出し
になってしまったというところだろうが、そ
うなるとなぜ批判にさらされるのかと問われ
るかもしれないが、普通に考えて問題点を指
摘せざるを得ないとなると、それが社会の主
流を構成している人たちの本音なのだから、
それを改められる可能性が低くても、現状で
良くない点を指摘することが批判なのだから、
批判とはそういうものだと捉えるしかないの
かもしれないが、そうした世の中の主流とな
っている現状の動作を肯定するのではなく批
判しているわけだから、現状で主導権を握っ
ている人たちを批判している時点で、少なく
ともその部分では批判者たちは主導権を握れ
ていないことなり、それが主流派ではなく反
主流派という役柄を担っていることも確かか
もしれないが、その主流派と反主流派という
役割分担自体が、世の中の主流を構成する社
会通念なのかもしれず、誰の目にも余るよう
な行為をあからさまにやってしまうと、やり
すぎのレッテルを貼られて批判せざるを得な
いという動作を引き起こすのも、世の中の主
流を構成する動作であって、そうなった時点
で即席で反主流派が構成されて、何やら現状
批判のような動作が構成されるわけで、そう
考えると主流派も反主流派も裏でつながって
いて、そういう動作も含めて一連の演技なの
であり、やり過ぎたことに対して一応は反省
を試みるような意思表示が、メディア上で行
われる批判として構成していて、それこそが
予定調和の二項対立なのであり、実質的には
反省なき反省として社会が構成する言い訳の
類いで、喉元過ぎれば熱さを忘れるように、
一過性の現象として世の中の主流派が演じて
みせるお祭り騒ぎなのだろうし、やり過ぎた
人たちを生贄としてそうした儀式の供物に捧
げるわけで、それが日本の最近の事例で言え
ば、日大のアメフト部が組織的に行った悪質
なタックル事件であり、またサッカーのワー
ルカップで日本代表がやって話題となった、
グループリーグを通過して決勝トーナメント
に出るための戦術としての意図的な怠慢プレ
ーによる時間稼ぎとなったわけだが、そんな
ことに飛びついてここぞとばかりに正論を述
べて批判を展開してしまう人たちが陥りがち
なのが、反主流派的な立ち位置であるわけだ
が、それ自体が一時的な予定調和の二項対立
でしかないわけで、それは誰もが意識せずに
意図している演技でしかなく、結局そういう
ことをやってしまう人たちは条件反射的にそ
うした演技ができること自体に関しては、優
秀な人の部類に入ることは確かだろうが、そ
れ自体が紋切り型的な行為であり、結局いつ
の時代でもそういう人たちはいたのであり、
そうやってなんとか世間的な建前を維持しよ
うとはするわけだが、だからと言って主流派
が構成する本音の部分を改めさせることなど
できはしないだろうし、ただやり過ぎてしま
ったことの言い訳として機能しているにすぎ
ず、やり過ぎなければ黙認される行為として
はこれからも行われるような行為でしかない
わけだ。 

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創刊日:2001-03-26  
最終発行日:  
発行周期:不定期  
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