文学

彼の声

この世界について、この社会について、この時代について、未来について、過去について、人々について、自分が日頃感じていることを率直に語る。

全て表示する >

彼の声 2018.5.27 「勘の正しさ」

2018/05/27

 個人に社会的な役割があるとすれば、それ
は集団の組織的な構成員としての役割に限定
されるようにも思われるかもしれないが、絶
えず個人は自分自身への配慮を念頭に置いて
行動しているだろうし、所属している集団の
ためというよりは自分を優先する傾向にある
のかもしれず、それが場合によっては集団を
裏切ったり見限ったりする行動を選ばせるこ
とにもなるだろうし、そうした集団のためと
いうよりは自身のために行うことを最優先に
考えることを、自己中心主義と揶揄するよう
な成り行きにもなるかもしれないが、普段は
そこまではっきりとは意識していないだろう
し、どちらかといえば自分よりは組織のため
に働いているつもりにもなれるだろうが、自
分か組織かどちらかを選ぶような判断を迫ら
れた時に、どうなるかわからないのかもしれ
ず、できればそんな機会が訪れないように注
意深く行動していきたいだろうし、実際にそ
んな機会がやってくることも滅多には起こら
ないだろうが、中には自分のために動いてい
るのに組織のために動いていると思っている
場合もあるだろうし、さらに組織のためとい
うよりは社会全体のために行動するような心
境になる時もあるのかもしれないし、その辺
は実際にそうなった時を体験してみないこと
には、はっきりしたことは何もわからないの
かもしれないが、普通に考えて自分を活かす
ために行動するのが活動であるわけで、何と
か自分も属している集団も暮らしている社会
も、それらすべてのために行動しているよう
に装いたいのかもしれないが、そうした自覚
に至ることもあまりないのかもしれず、あま
りそういうことは意識せずに、ただ何となく
活動しているのが偽らざる実感なのかもしれ
ないし、現実的な妥当性としてその場ででき
ることをやっている実態があるわけで、いく
ら高邁な理念を考えても、できないことはや
れないわけだから、それが思考していること
とやっていることとの間で生じるずれとして
認識されるのではないか。そしてそんなずれ
を認識できるとしても、できないことをやる
わけにはいかないだろうし、実際に行なって
いるのはできると思われることをやっている
わけで、実際にやろうとしてやっていること
が自分のためにやっているのか、所属してい
る集団のためにやっているのか、あるいは暮
らしている社会のためにやっているのか、と
いう選択を迫られているわけでもなく、第一
に仕事として所属している集団にやらされて
いることもあるわけで、また私生活の中でや
っていることなら、当然自分のためにやって
いることになるだろうし、また家族のために
やっているというなら、仕事として集団にや
らされていることも、その中に入るだろうし、
自分一人で生活しているなら、生活の糧を得
るためにやっていることにもなるだろうし、
そうやって現状の中で生きていることから、
やっていることも限界づけられていて、現状
の生活環境の中でやらざるを得ないことをや
っている場合が大半だろうし、それらは主体
的にやっているというよりは、現状の生活を
維持するためにやらざるを得ないことにもな
っているのではないか。そしてそうした余裕
のなさからやっていることに対して、余裕を
作り出してその余裕を利用してやろうとする
ことが、主体的に取り組むべき活動だと思わ
れてくるわけで、そうした活動が自分の意志
としてやりたいことになるのではないか。

 そして何かのためという理屈とは関係なく、
それをやるべきと思われることをやっている
場合もあるわけで、しかもなぜやるべきなの
かがわからないまま、なぜかそれをやるべき
と思われてしまう場合まであるわけで、そう
した啓示を受けてしまう場合は、理屈を考え
ないでやっているわけだから、それをやるに
際して障害となることは何もないようにも思
われて、それが神からの啓示と考えればわか
りやすいのかもしれないが、神という存在も
知識として教育の過程で吹き込まれたことで
あれば、それなりに理屈を考えてしまいがち
になるかもしれないが、それさえもなければ
ただの啓示でしかないだろうし、やるに当た
ってシンプルにただやるべきことをやってい
るだけなら、特に何も考えずにやっているこ
とでしかないわけだが、果たしてそんなふう
に思えることがそう頻繁にあるとは思えない
だろうし、それが社会通念に照らし合わせて
やるべきと判断されるようなことではなく、
ただその時の勘としてそうすべきと感じられ
てしまうような場合には、理屈を考える以前
にそう思われてしまうわけだから、そこに至
るまでに身につけた感覚がそう思わせるのだ
ろうし、そう感じられてしまう勘を信じない
わけにはいかなくなってしまうから、そうせ
ざるを得ない状況に追い込まれているとも言
えるのかもしれないが、それもやっている内
容にもよるだろうし、それが深刻な事態を伴
うような行動なら、もっと慎重に物事の筋道
を立てて考えてしまうのかもしれないが、慎
重に考えたところで結果が思わしくなければ、
考えるだけ無駄だったことにもなってしまう
わけだから、その辺の判断も勘に頼っている
面もあるだろうし、微妙なニュアンスや印象
として、賭けの要素も入ってきて、そうした
賭けに出ていること自体が、時に深刻な状況
をもたらす場合もあるわけだが、やはりそう
なってしまうとしてもやるべきと思われてし
まう場合には、後悔しないためにもやるべき
ことはやっておこうと判断してしまうわけで、
そうした判断が良い結果をもたらすか、ある
いは裏目となってしまうかは、運次第と思う
しかないのかもしれないが、宿命的に賽を振
る事態に至ってしまうのは、自らを超えた運
命の導きを経験する際にはよくありがちなこ
となのかもしれず、そんな時に理屈から考え
て慎重に事を運ぼうとすれば、かえって機会
を逃して平凡な結果にしか至れずに、ありふ
れた状況になってしまうだけで、何かを逃し
てしまったことすらも無自覚でいられるし、
普通はそれで構わないのかもしれないが、そ
こで思いがけない事態に遭遇するとしても、
それが自らの力量を超えた事態ならどうする
こともできないだろうし、結構そうなった時
に何かに成功するような幻想を抱くのかもし
れないが、それが幻想でしかなかった場合に
は、自らの力量を超えた事態に遭遇していた
のかもしれないし、実際に何らかの機会を逃
してしまったのかもしれず、それも結果的に
何も起こらなかったという事実を埋め合わせ
るための幻想にしか過ぎない場合もあるだろ
うし、そういうところで妄想が膨らんでくる
としても、その大半は妄想のままに終わって
しまうだろうし、結果的にはそれで構わない
のかもしれないし、何事もなく事態が進展し
たことについては、それで良かったと思うし
かないのかもしれないが、たぶんそうした何
事もなく事を穏便に済ませられたということ
自体が、その時の勘の正しさを物語っている
のかもしれず、何か災難を避けられた時にそ
う思う場合もよくあることなのかもしれない。 

規約に同意してこのメルマガに登録/解除する

メルマガ情報

創刊日:2001-03-26  
最終発行日:  
発行周期:不定期  
Score!: - 点   

コメント一覧コメントを書く

この記事にコメントを書く

上の画像で表示されている文字を半角英数で入力してください。

※コメントの内容はこのページに公開されます。発行者さんだけが閲覧できるものではありません。 コメントの投稿時は投稿者規約への同意が必要です。

  • コメントはありません。