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彼の声

この世界について、この社会について、この時代について、未来について、過去について、人々について、自分が日頃感じていることを率直に語る。

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彼の声 2018.5.10 「可能性の中心」

2018/05/10

 必然的な成り行きというのはその場の状況
が作るものかもしれないが、その場でどう考
えてもそうした方がいいということがわかり、
実際にそういうことをやる成り行きになるわ
けだが、そうした状況が人為的に作られるか
というと、そう仕向けられていればある程度
はそうなるだろうし、また偶然の巡り合わせ
でもそうなってしまう場合もあるのかもしれ
ないが、どちらにしてもそうするのが必然的
な成り行きに思われるような場合には、その
場の状況に合わせて活動する成り行きになり、
積極的にそうしようと思う限りで、そうする
ことが必然的な成り行きだと思われるだろう
し、実際に強くそうしなければならないと思
われるわけだ。そしてそうすることが良いこ
とのように思われるなら、自らのやっている
ことに対して肯定的な評価を下すことにもな
り、そうなれば肯定できる活動とは、その場
の状況に合わせて何かを行うことになるので
はないか。またその場の状況に合わせること
は、場合によってはその場の状況に逆らうこ
とも含まれるのかもしれず、要するにその場
の状況に対応して、良かれと思うことをやる
ことになるのだが、その良かれと思うことが、
その場の状況に逆らうことだと判断すること
もあるわけで、そうなるとその場の状況に関
して否定的な評価を下していることにもなり、
否定的な状況の中で肯定的なことをやるとな
ると、必然的にその場の状況に逆らうような
ことをやることになって、結果的にそのよう
な成り行きも必然的な成り行きだと思われる
のではないか。ただそれはそう思っている限
りでそうなのであって、思い違いの可能性も
あり、実際に必然的な成り行きに思われても、
それが思い違いなら必然でも何でもなかった
ことにもなるだろうし、そういうところで勝
手な思い込みであったり、自意識過剰な勘違
いであることも十分にありうるわけだから、
やっていることの必然性に関しては、あまり
信用できない面もあるのではないか。それで
も自分で自分を信じられなくなったらおしま
いだと思いたいのなら、自分の勘を信じて、
そうするのが必然だと思うようなことをやる
しかないだろうし、大抵の人はその辺はあま
り深く考えないで、自分を信じて自分がやり
たいと思うことをやろうとするのかもしれな
いが、偶然に何かをやっている場合と違って、
必然的に何かをやっている場合だと、主体的
にやっている気になれるのは、自分で自分の
行いを肯定できるし、正しいことをやってい
るように思われるからかもしれないが、その
逆に意識して間違ったことをやれるわけでは
ないし、普通にやっていることは、やってい
る時点では正しいと思われることをやってい
るはずだが、それとは違って偶然に何かをや
っている場合というのは、それが正しいか間
違っているかという判断とは関係なくやって
いるわけで、それでもその場の成り行きに従
っていることにはなるだろうし、偶然にやっ
ている場合でもその場の状況に合わせて何か
をやっていることにはなるわけだが、ただそ
の場合は、自らが積極的にそれをやろうとし
てやっているわけではなく、その場の成り行
きで偶然の巡り合わせでたまたまやっている
に過ぎず、やっていることに関してあまり責
任感は感じないだろうし、軽い気持ちであま
り重要とは思われないことをやっている気で
いる場合も多いのではないか。

 ではそうした軽い気持ちが何をもたらすの
かというと、やっていることに対する思い入
れがないだろうし、いつやめても構わないよ
うなことをやっている気でいたり、実際に長
続きしないですぐにやめてしまうようなこと
を、その場の気まぐれからやっている場合も
あるだろうし、大して重要度の高くないこと
をやっている気でいるのかもしれないが、た
ぶんそれが仕事とはならないはずで、最初は
偶然からそんなことをやるようになったとし
ても、それが仕事になってしまうと、いつの
間にかやっていることの必然性を感じてしま
うのかもしれず、それによって生活の糧を得
ているとなると、それだけ重要度が高くなる
だろうし、その場の気まぐれで軽い気持ちで
やっているわけにはいかなくなって、何か真
剣に取り組まなければならないような作業と
なってきて、それにつれてやっていることに
対する責任感も生じてきて、それへの思い入
れも尋常ではなくなってくるのかもしれない
が、そうした作業へののめり込みが示すのは、
やらなければならないという強い気持ちがそ
うさせているのだろうし、そう思っている時
点で少なくともそれが勘違いだとは思えない
し、何かやっていることに対する必然性が生
じていると思われるのではないか。結局そう
だとするとやっていることに対する思い込み
が強いほど、それが必然的にやっているよう
に思われてくるだろうし、逆に思い込みが弱
いほど、何かのついでに偶然の巡り合わせで
やっているに過ぎないような気にもなるのか
もしれないが、やっていることの重要度はそ
うした思い込みとは別の事情が反映している
のかもしれないし、自分にとっての重要度と
しては確かに思い込みが強いほど重要度も高
いように思われるだろうし、その重要度とい
うのが自分の意識の中の重要度でしかなけれ
ばその通りだとしても、それが誰にとっての
重要度でもなく、誰もそんなことは重要だと
は思われないとしても、そうしたことがきっ
かけとなって世の中が変わるようなことが起
きれば、歴史的な重要度が高いことにもなる
だろうし、実際に現状でも誰もが大して重要
だとは思われないことを着実にやっているの
かもしれないし、それがのちの時代において
は歴史の転換点を象徴するようなことをやっ
ていたとみなされる可能性まであり、今この
時代の中でそんなこと意識することは不可能
かもしれないが、実際にそれが誰もがやって
いることだとすれば、やっていることに対す
る思い入れや思い込みがどうであろうと、そ
れが重要だと思われようと大したことはない
と思われようと、そうした思い自体が大して
重要ではない可能性もあるわけで、そうであ
るなら自らのやっていることに対してどう思
っていても、それは自分の意識の中での問題
でしかないかもしれないし、実際にやるべき
ことをやっていると自信を持ってそう思って
いても、そんな自分とは立場の異なる人から
見ればどうでもいいことであったり、他の人
がそう思うようなことであっても、自分にと
ってはどうでもいいことであったりして、そ
こに普遍的な価値や正しさを当てはめること
ができない場合まであるのかもしれないが、
問題なのはそうした価値や正しさではなく、
ただ他人のやっていることを尊重できるかど
うかに関して、そのやっていること自体も、
また別の他人のやっていることを尊重しなが
らやっているかどうかが、それが尊重される
べきか否かを巡って判断されるようなことな
のかもしれず、それは相対的なことなのかも
しれないが、何かそこに関係してくる物事が
独りよがりではない可能性が出てくるのでは
ないか。 

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創刊日:2001-03-26  
最終発行日:  
発行周期:不定期  
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