文学

彼の声

この世界について、この社会について、この時代について、未来について、過去について、人々について、自分が日頃感じていることを率直に語る。

全て表示する >

彼の声 2018.3.31 「個人と集団の関係」

2018/03/31

 それが行政が管理する公的な制度であって
も民間の企業が管理する経済的な利益を求め
る制度であっても、制度に様々な種類や傾向
があるのは、必要に応じてそれらの制度がこ
しらえられて、実際に利用されている限りで
成り立っているからだろうし、利用されてい
ることが社会の中で制度が機能していること
を示しているわけだが、機能しているという
ことはそこで何らかの活動が行われているこ
とにもなるわけで、それが制度を利用した活
動となるわけだが、それが制度を管理運営す
る活動と制度を利用する活動に分かれるとし
ても、管理運営する側は利用者とは異なる形
で制度を利用している面もあって、制度を管
理運営している機構そのものを維持するため
に制度を利用していると言えるわけで、その
ような利用によって機構が利益を出している
とも言えるわけだが、それが機構を維持する
ための経費だけであれば利益とは言えないか
もしれないが、例えば機構の職員が一般と比
べても高い給与をもらって贅沢な暮らしをし
ていれば、それ以上の利益を上げていると言
えるだろうし、また制度の運営によって機構
の資産が増えてゆけば、やはり利益を上げて
いることは間違いないだろうが、制度の利用
者が増加していくにつれて、それを管理運営
する機構の規模も拡大していくだろうし、規
模が拡大すれば資産も増えるのは当然のこと
であり、資産の増加を利益の増加とみなせば、
必要に応じて利益を出していることになるわ
けだから、何らやましいところはないだろう
し、それに関わっている人々の間でも利益を
出すのが当然視されるのではないか。そして
利益の源泉は利用者から手数料を徴収してい
たり、民間の場合は広告宣伝費で費用が賄わ
れていたりするわけで、その広告宣伝費とい
うのも商品の購入費から賄われているわけだ
から、それらは回り回って消費者が払ってい
ることにもなるだろうし、どのような経路で
維持経費が賄われているとしても、それが経
済活動から生じる利益になることは確かだろ
うし、さらに公的な制度を管理運営する行政
はそこから税を徴収しているわけだから、そ
れも経済活動から生じる利益から賄われてい
ることになるわけで、維持経費を必要とする
全ての制度は経済活動に依存していて、悪い
言い方をすればそこから利益をピンハネして
いると言えるだろうが、もちろん何の努力も
しないで利益を掠め取っているわけではない
し、規模の大きな制度の管理運営には多大な
設備投資や組織的な労力を伴うだろうし、そ
んな努力の甲斐もなく利用者が減れば制度自
体が廃れてしまうわけだから、結局は制度を
利用することで人や集団が利益を得られてい
る限りで、制度を管理運営する側と利用する
側が共存共栄の関係にあると言えるだろうし、
また制度を管理運営する側も他の制度を利用
する側になっている場合も多いだろうし、そ
うやって世の中で様々な制度が複雑に絡み合
って管理運営する側と利用する側が相互に入
れ替わっている状況もあるのなら、ただ一方
的に制度を管理運営するだけの立場は存在し
ないことになるだろうが、個人としては管理
運営する側に属したり利用する側に属したり
しているものの、集団としては管理運営を専
門とする集団が様々に存在することにもなり、
そうした集団に個人が隷属を強いられるよう
な成り行きがあるとしたら、そこから何らか
の問題が生じてくるのではないか。

 制度に関して問題となってくるのは、制度
を利用することで個人の活動が制約を受ける
ことかもしれないが、果たして社会で個人の
立場が尊重されるかとなると、制度を管理運
営する集団としての活動が優先される傾向に
あれば、個人は集団に隷属した存在となるし
かないだろうが、個人と集団を対立した立場
として捉えることが果たして妥当なのかと言
うと、個人は集団との関係の中でしか存在し
得ないと捉えるならそうでもないことになる
わけで、その場の状況や成り行きに応じて、
個人としての立場と集団の一員としての立場
を使い分けている場合の方が多いかもしれな
いが、集団の一員であるとしても日々の生活
の中で個人でいられる時間帯があれば、それ
で構わないと思う人もいるだろうが、集団の
ためにやりたくないことをやらなければなら
ないような事情が出てきた時に問題が生じて、
やりたくないことをやらされて心身に異常が
きたすような成り行きにもなるわけだが、そ
うした時に個人であることを優先させるか集
団の意向に従うかで思い悩むだろうし、果た
して病気になってまで集団の意向に従う必要
があるかとなると、その場の状況によっては
集団の意向に従わざるを得なくなって身の破
滅を招くような事例も多いだろうし、それを
避けるには常に集団から離脱できるように準
備しておく必要もあるのかもしれないが、そ
ういうことも含めて個人の立場は集団との関
係の中でしか存在し得ないかもしれないが、
そこに個人の立場があるとすれば、集団との
関係を解消できる限りで個人の立場が存在す
るとも言えるだろうし、そうした個人の立場
が存在しない社会では、例えば江戸時代の武
士階級のように主君から切腹を命じられれば、
その理由が何であれ自害して果てるのが当然
に思われるような制度もあったわけで、また
氏族社会でも個人が存在しない代わりに一族
という集団が存在していて、何があっても集
団の掟には逆らわないのが当然であったのだ
ろうし、何よりも自らが属する氏族の繁栄の
ために尽くさなければならないような制度と
なっていて、そうした制度の中で生まれ育っ
た人には個人という概念は存在しないだろう
し、実際に個人が主体となって存在するよう
になってきたのは、資本主義的な経済が発達
してきてからだろうし、人が資本家や労働者
として企業と関係するようになって、また公
的には国民として国家と関係するようになっ
てから、個人という概念が社会の中で構成さ
れるようになってきて、そういう面では個人
は企業や国家などの集団的な組織形態との関
係で構成されてきたわけだから、それらの組
織形態が管理運営する制度によって制約を課
せられた存在であるわけで、はじめからそれ
らの集団に対して弱い立場を強いられる宿命
にあり、そこに隷属を強いられる関係がある
から隷属を強いるような対象への反発や反抗
が生じるわけで、ではなぜ武家社会や氏族社
会では存在しなかった個人が近代の産業社会
では生じたかというと、企業や行政の制度が
人を個人として管理統治する仕組みにしてい
るからと言えるだろうし、それに対して武家
社会や氏族社会では一族として管理統治する
仕組みであったから、人がそれらの族から独
立した個人として存在する余地がなかったの
ではないか。そうであるなら個人も制度的に
生じてきた存在だろうし、アプリオリに個人
が存在するわけではないだろうし、産業社会
以前の時代でそうした個人を見出そうとする
と、結局現代の基準を過去の時代に当てはめ
ているだけであり、それでは現代から構成さ
れたフィクションにしかならないのかもしれ
ない。 

規約に同意してこのメルマガに登録/解除する

メルマガ情報

創刊日:2001-03-26  
最終発行日:  
発行周期:不定期  
Score!: - 点   

コメント一覧コメントを書く

この記事にコメントを書く

上の画像で表示されている文字を半角英数で入力してください。

※コメントの内容はこのページに公開されます。発行者さんだけが閲覧できるものではありません。 コメントの投稿時は投稿者規約への同意が必要です。

  • コメントはありません。