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彼の声

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彼の声 2017.5.19 「不快な制度」

2017/05/19

 それを無意識の連携というのはおかしいだ
ろうし、実際には連携しているのではなく対
立しているはずで、敵対して攻撃しているこ
とになるのだろうが、なぜか結果的には連携
しているように見えてしまい、ある面ではそ
のように事態が進んでいるのはなぜなのか。
どうやってもそんなことしかできないのであ
り、しかもそんなことしかできないからこん
な事態となっているのではなく、こんな事態
となっているからそんなことしかできないの
であり、事態を変えようとしているのではな
く、こんな事態の中で各自がやるべきことを
やっている結果がそう見えてしまうわけだ。
そこで誰と誰が何と何が連携しようと敵対し
ようと、もはや決まり切ったことしかできな
いということかもしれないし、その場を支配
する制度に従っている限りはそうなってしま
うのかもしれないが、制度に従わない限りは
誰も何もできないのであり、すでにそのよう
な場が形成されていること自体が、そのよう
な出来事をもたらすわけで、人も集団もそん
なことしか起こせないということだろうか。
人や集団がやっていることが反復的に繰り返
されるような成り行きだと、たぶんそこでそ
んな繰り返しを誘発するような場が形成され
ていて、そんな環境の中ではそんなことしか
できないのであり、それ以外のことをやろう
とする気も起こらないのかもしれず、実際に
はそれ以外のことをやっている人もいくらで
もいるのかもしれないのだが、それはメディ
アが伝えるようなことではないのだろうし、
メディアを介して伝えられることは、いつも
決まってそこで繰り返し行われていることで
あり、メディアが何かを伝えるという行為に
しても、そんな制度に従う限りで動作してい
ることなのだろうし、メディアも繰り返し同
じようなことを伝えなければならず、そこで
はいつもの同じ敵対関係があって、敵対する
者同士で同じようなことをめぐって対立して
いて、そんな対立している状況が伝えられて
いて、その種の報道はそれ以外の何を伝えて
いるわけでもなく、逆にそれ以外のことが起
こってはまずいわけで、同じことの繰り返し
が途切れないように、メディアとしては対立
を煽り立てるようなことまでしなければなら
ないのだから、そこには何としても敵対関係
が形成されていなければならないわけだ。

 彼らは何にとらわれているのだろうか。果
たしてそこにはどんな共通の利害関係が生じ
ているのか。そこで形成されている敵対関係
が自ずから利害関係を示しているはずなのだ
が、そもそもそこで生じているはずの敵対関
係や利害関係とは何なのか。ただその場で生
じている成り行きに従えばそうなってしまう
だけで、それ以外に何があるわけでもないと
すれば、もしかしたらそれは敵対や利害とい
うよりは、そこで生じている成り行きの中で
決められた役割を演じているに過ぎないので
はないか。そんな成り行きが生じなければ敵
対する必要はなく、そこに利害が生じている
ようにも感じられず、メディアが報じるよう
な毎度お馴染みの光景が繰り返されることも
ないのではないか。だからと言って誰もが自
発的にそれをやめられるわけでもなく、その
ような場が生じている限りは、魅入られ引き
込まれるようにしてそんな成り行きになって
しまうわけで、人や集団がその場を支配する
制度に従うことで敵対し合う配役が決まり、
そうやって割り振られた役柄に従って同じよ
うな劇が演じられ、それをメディアが伝えて
いることは確かなのかもしれないが、なぜそ
こではそれ以外の劇がありえないのかといえ
ば、それが演じられる必然性がないからだろ
うか。そう言ってしまえばそうなのだろうが、
こんなことをいくら説明してみたところで、
退屈で不快な劇の反復を止められるわけでも
なく、そもそも説明に止める力などないわけ
だが、成り行きの説明と成り行きを阻止しよ
うとする行為が違うのはいうまでもなく、阻
止できないから説明するしかないのかもしれ
ないが、やはり説明する以上はそれを理解し
てほしいから説明しているのだろうか。だか
らと言って具体的には何も説明していないの
であり、これが具体的な説明でない限り、具
体的な水準では何も理解することはできない
わけで、具体的に何を理解してほしいわけで
もないのではないか。ならば彼らは具体的に
は何をやっているのだろうか。そもそも彼ら
とは誰なのか。メディアで繰り返し報じられ
ている人や集団がそれなのだとすれば、もは
やそんな人たちが誰で何をやっているかなん
て、わざわざ説明するまでもないことなのだ
ろうか。しかしそれを演劇の類いに見立てる
ことに何の必然性があるのだろうか。ただそ
う感じられてしまうからそう述べているまで
のことか。そしてそこで演じられている敵対
関係や利害関係の中に割って入る必要も必然
性もないから、具体的なことは何も述べられ
ないのかもしれず、逆に具体的に説明してし
まうと、すぐにどちらかの陣営に関与して彼
らの応援団となってしまうのであり、そうで
なくてもどちらも応援するよりは嫌悪の対象
でさえあるのだから、こんなふうに説明する
しかないのだが、なぜあえてこんな説明をし
なければならないのかといえば、その場を支
配する不快な制度に逆らうには、それを説明
するより外はありえないということだろうか。
しかしあえて不快感を表明するのも制度にと
らわれていることの証しなのではないのか。
それが告白という制度だとすればそうかもし
れない。 

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創刊日:2001-03-26  
最終発行日:  
発行周期:不定期  
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