文学

彼の声

この世界について、この社会について、この時代について、未来について、過去について、人々について、自分が日頃感じていることを率直に語る。

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彼の声 2015.12.30 「予想される結果」

2015/12/31

どうも人は自らが置かれた立場や境遇の中で、
その立場や境遇に合った役柄を演じているに過ぎず、
それをうまく演じられれば好人物に思われたり、
逆にうまく演じられなくて
周囲との間で軋轢を起こしてしまったり、
元の素材としての人そのものには大した違いはないのだろうが、
その人が置かれた立場や境遇に伴ってそれ特有の性質が生じ、
その社会的な役柄に合わせて、
人格や思考や行動が形成されているように感じられるわけで、
そこに見出されている人格や思考や行動自体が、
その人に課せられた役柄を演じることから派生していて、
元からそんな人格ではなかったのかもしれず、
それが役柄をこなすことによって後天的に生じた性格だとすると、
その思考や言動や行動も、
やはりその人が置かれた社会的な立場や境遇から
派生しているのではないか。
もちろんその人の意識の中では、
自ら進んでそのような立場を選び取ったと思い込んでいたり、
偶然の成り行きで
そのような境遇になってしまった場合もあるのだろうが、
例えば怒りっぽい性格だと、
周りに怒る対象がいないと怒れないわけで、
多数の部下を従えていたり、
教師のように生徒を教える立場になると、
うまくいかないとすぐに部下や生徒に
怒鳴り散らすような立場にもなれるわけで、
そういう行為がその場で通用していれば、
延々とそれをやり続けて、
怒りっぽい性格のままになってしまうのだろうが、
それではうまくいかない状況になってくれば、
別のやり方を試すしかなくなってくるだろうし、
そうやって怒るのとは違う指導の仕方がうまくいくと、
怒りっぽい性格は鳴りを潜めてしまうのかもしれない。
また特定の思想信条に傾倒して、
ネット上で対立しているつもりの陣営を誹謗中傷している人たちも、
SNSや掲示板などの
ネット上のコンテンツがそれを可能としているわけで、
そのような人たちの性格や思考や行動に、
同じような一定の傾向が見られるとすれば、
それはネット上のコンテンツから派生していて、
その自覚がなくても
彼らはそこから派生している役柄を演じているわけで、
それを演じさせる社会的な立場や境遇が、
そこに生じていると言えるのではないか。
そして役柄を演じることと実際に思考し行動することの間に、
差異を感じ取れなければ、
それが演技であるという自覚など生じないだろうし、
誰も自分が特定の役柄を演じさせられているなどとは思わず、
そんなことは信じられないだろうが、
演技の舞台となる特定のコンテンツがなければ、
そのような現象では盛り上がらないと考えるなら、
特定の思想信条に凝り固まるのが、
果たして自発的にやっていることなのかどうか、
その辺に疑問を感じざるをえないのだが、
敵とみなした人や勢力をヒステリー気味に罵倒したり、
無理に屁理屈をこねながら嘲笑したりする表現が、
紋切り型で画一化されすぎている印象があり、
それを自発的にやっているとしたらお粗末すぎるだろうし、
やはりそれらのコンテンツに踊らされていたり、
特定の役割を演じさせれているとみなした方が無難なのではないか。

そうなることの良し悪しではなく、
誰に頼まれたわけでもないのに、
自発的にそうしていると思い込めてしまうところが、
そのような社会的な現象の特徴なのかもしれず、
他の多くの人たちと一緒になって、
同じようなことをやっていることに、
それほど違和感がなく、
別におかしなことを考えていたり
やっているわけではないと感じられるだろうが、
それは自らに関わりのある
周りの状況に適合しているからなのかもしれず、
そう感じられている時点で、
自らの立場や境遇から生じている役柄を反映した性格になっていて、
その役柄に沿った思考と行動を伴っているから、
やっていることにも考えていることにも違和感がなく、
周囲とのずれや軋轢を感じないのではないか。
それは自らを取り巻く状況と自らが一体化している証しだろうし、
そのような状況や成り行きに対しては、
正しい姿勢で正しい行いをしていることになり、
そうなると状況や成り行きに踊らされていたり、
それに応じた役柄を演じさせられている自覚など抱けないだろうか。
そんなふうに自らが考えていることや
やっていることに疑問を感じないとすれば、
それは幸せなことで、
そんな幸福な状況がいつまでも続くなら、
それに越したことはないのかもしれないが、
そうすることで他が迷惑を被るような現状があるなら、
やはりそれは何かがおかしいわけで、
そこで社会の矛盾が露呈していることになるのだろうか。
あるいは別におかしいわけではなく、
それが当たり前だとすれば、
その社会が深刻な対立を内部に抱えていることにでもなるのだろうか。
社会の中で何かをめぐって対立や軋轢がないなんてありえないならば、
それは当たり前のことだろうし、
その存在には他との対立や軋轢を生むような特性があり、
そのような立場や境遇を担っている人が、
その立場や境遇にふさわしい動作をすれば、
やはりそこから当然のごとく、
その動作によって他との対立や軋轢を生じるのではないか。
そしてそのような結果を当然のことと思っていれば、
そうすることによって他との対立や軋轢が生まれることにも
疑問を感じないだろうが、
それに疑問を感じるようなら、
何かがおかしいと思うだろうし、
正しいと思ってきた自分の考えや行動に疑念を抱くことにもつながり、
自分を取り巻く社会の構造や動作が
問題を抱えているように思われてくるだろうか。
そうは思わずに、
自らの考えや行動の正しさを信じるならば、
それと対立している人たちの方が間違っているのであり、
その間違っているとみなされる考えや行動の担い手たちを、
より一層激しく非難し攻撃することになるだろうか。
実際にそうなればさらにより一層自らが担っているつもりの
立場や境遇にふさわしい考えや行動を押し通すことにつながり、
対立する双方の正しい動作によって、
社会の対立から生じる亀裂がより一層深まることになりそうだが、
果たしてそのどちらかが勝利してどちらかが敗北すれば、
そのような対立は解消されるのだろうか。
どうもその辺が違うような成り行きと結果を伴うのではないか。

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創刊日:2001-03-26  
最終発行日:  
発行周期:不定期  
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