文学

彼の声

この世界について、この社会について、この時代について、未来について、過去について、人々について、自分が日頃感じていることを率直に語る。

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彼の声 2015.12.25 「世界像」

2015/12/26

人と人との出会いはフィクションの中では何をもたらすだろうか。
語る上で重要な人物たちが出会わないと、
話が前に進まないだろうし、
出会って対立したり共闘したり、
そんな成り行きが物語そのものを構成しているわけで、
そこで出会った人々のやり取りが興味深く感じられ、
それがフィクションの魅力となるのだろうが、
物語的な虚構の話にそれ以外の何を期待できるだろうか。
主要な登場人物たちが全く出会わないまま、
すれ違いのままで話が終わることはないだろうか。
それでは話にならないだろうし、
そんなつまらない話があったとしても興味を抱けないだろうか。
普通に考えれば、
人と人とが出会わない限りは話にならないだろうし、
話にならない話というのは不条理そのものだろうか。
例えばイスラム国の戦闘員たちが
アメリカやロシアの大統領に出会うことはまずないだろう。
話を単純化するなら、
そんなありえないことが起こるのがフィクションかもしれず、
話の主人公が末端の戦闘員として戦っているうちに、
何かの巡り合わせで敵の最高実力者に遭遇して、
それを倒す話になれば興味深いだろうか。
もちろん話にリアリティを持たせるためには、
何か主人公が特殊な任務を帯びていて、
それが敵の最高権力者の暗殺であったりするのだろうが、
そういう特殊な事情を設定しない限り、
なかなか一兵士に過ぎない身分の者が、
敵の最高実力者を倒す成り行きには持っていけないだろうか。
普通に荒唐無稽さを排除するなら、
末端の戦闘員が末端の戦闘で死んで話が終わってしまえば、
何かそれが戦争の悲惨を訴えているような感じになるのではないか。
そしてそんな話の映画やドラマでは
儲からないと製作者側が判断すれば、
やはり荒唐無稽な娯楽超大作を製作したがるかもしれず、
そうなると敵の最高実力者と主人公との間には、
何やら浅からぬ因縁というのが設定されて、
また主人公が超人的な力の持ち主であったりして、
末端の戦闘などで死んでしまうわけにはいかなくなるわけで、
必ず敵の最高実力者と一戦を交えるような展開に
話を持っていかないと、
娯楽超大作である意味がなくなってしまうだろうし、
主人公と最終的に戦う敵の最高実力者も、
主人公を凌駕するような超人的な力を持っていたり、
とっておきの強大な兵器などを駆使して、
フィクションの中では絶大な力を誇示していたりするわけで、
その強大な兵器が使用されて大規模な破壊や大量虐殺が起こったり、
そういう大掛かりな仕掛けが
娯楽超大作のファンの願望を投影しているだろうし、
それは現実の世界に対する
人々の願望をそのまま映し出しているだろうか。
娯楽超大作と言っても一概にそんな傾向のものばかりとは限らず、
史実を基にしたものであれば、
例えば実在したどこかの国の大統領などを主人公に据えれば、
荒唐無稽な感じは薄れ、
そんな歴史上の政治的な権力者や、
それと関わりがある人物が世界を動かしたような話なども、
いくらでもありそうだが、
ともかく娯楽超大作となると、
主人公が大それたことをやらかしたことに
焦点を当てるような類いの話となるわけで、
それ相応の大げさな仕掛けを伴い、
それが一般の人々の誇大妄想的な願望にうまくフィットすれば、
それだけ絶大な人気を博して、
メディア的な話題を呼んで社会現象化するのかもしれない。

そうやって現実の世界で地道に生きている人たちの気晴らしとなれば、
それ相応に評価されるのだろうが、
一方で現実をありのままに
表現しようとするフィクションもあるかもしれず、
しかも何か大げさな事件や事故ではなく、
ただのありふれた日常しか描き出されなければ、
それは興味深い内容となるだろうか。
例えば何の誇張も歪曲もないありふれた人のありふれた生活を、
改めてフィクションとして体験したいだろうか。
それが批評的な視点で肯定的や否定的に描き出されていれば、
何か興味深く思われてくるのかもしれないが、
その批評的な視点というのが、
そこに製作者のこだわりが含まれてくるわけで、
そのこだわりが日常の誇張や歪曲と言えなくもないわけで、
興味深く思われるとしたら
そこに焦点が当たっていることにもなり、
その点が誇張されて話全体が歪曲を被り、
何やらそこに製作者の主張が盛り込まれているような
感じとなってしまうのかもしれず、
それをフィクションとして再構成しようとする意図そのものにも、
それがあらかじめ含まれているのだろうから、
話がフィクションである限りは、
何の誇張も歪曲もない
ありふれた人のありふれた日常とはなり難いのだろうし、
そこに製作者の意図や思惑が含まれていると捉えておいたほうが、
話に真実味がより増してくるのかもしれない。
要するにそれは普通の人々のありふれた日常への
批評として機能するのかもしれず、
時としてそこに普通の人々が抱いている夢や願望が映し出され、
そこから生じる錯覚や勘違いも導き出されたりして、
それを普通の人々に見せれば、
不快に思われるような現実も描かれてしまうかもしれず、
そういう部分から何やら教訓や啓蒙的な意味合いが生じれば、
そのようなフィクションが
気晴らし以外で評価される可能性もあるだろうし、
娯楽として消費されるだけではない、
フィクション特有の社会的な役割を担うのかもしれないが、
たぶん初めからそんな役割を担うために
フィクションが作り出されるわけでもないだろうし、
人々の興味を引きつけるための娯楽超大作でも構わないわけで、
商業的にはそれ以上の何を
フィクションに求めるわけにもいかないだろうし、
実際にそれを目指して
大掛かりなフィクションが作られている現状があるわけだから、
一般の人々にとっては
大衆娯楽として消費されることを目的としたフィクションで
十分なのではないか。
そこに教育的価値や啓蒙的な効果などを期待してしまうと、
途端に政治的なイデオロギーを挟もうとする
意図や思惑を感じてしまうわけで、
しかもそれが一方的な政治宣伝しか含んでいないように思われると、
作品自体の質云々以前に興味を失ってしまう。
別にそれは右翼的な政治思想だけを言っているわけではなく、
リベラル的な平和思想やエコロジカルな自然思想であっても
そうなるわけで、
たとえ人間愛に満ちたヒューマニズムであっても
おかしいと思われるわけだ。
要するに一方的ではなく、
それら全てを含んでいないと
何となくリアリティを感じられないわけで、
この世界と地続きな感覚を得られないのかもしれない。

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創刊日:2001-03-26  
最終発行日:  
発行周期:不定期  
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