文学

彼の声

この世界について、この社会について、この時代について、未来について、過去について、人々について、自分が日頃感じていることを率直に語る。

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彼の声 2015.12.20 「エピソード7」

2015/12/22

どうもその時間帯での記憶が定かではなく、
なぜかそこで何を観てきたとも思えなくなる。
たぶん何かを観たのだろうが、
意識はなかなかそれを認めたがらず、
後からどう記憶を辿ってみても、
それが何でもなかったようにも思われ、
その辺の記憶と辿っているつもりの意識が釈然としない。
それについて語るのを避けたがっているのかもしれず、
できればそれとは別のことを語りたいのではないか。
だが語りたいと言ってもその対象がはっきりしないし、
意識がそう感じているわけではなく、
思考していることを書き記そうとすると、
それとは違うことを記してしまうらしい。
思っていることと記していることが一致しないのは
よくあることだろうか。
意識してそうしているわけではなく、
時々思い出したように記憶の断片をつなげながら、
そうやって記された文章上で語られる内容が
気に入らないのかもしれず、
それが何かに語らされているように思われるならば、
そう思わされるのが気に入らないのだろうが、
気に入らないながらもそれを受け入れないことには、
何も語れないのかもしれず、
社会の中で暮らしているのだから、
客観的には世の中の状況や情勢に語らされているわけだが、
それとは別次元では、
直接語っているのではなく、
言葉を組み合わせて書き記している現状があるのだから、
文章を構成しながら文章上で、
何かを語っているように見せかけているわけだ。
要するに文章上には虚構の語り手がいて、
そこが何かを直接語っている場合とでは違いがあるのだろうし、
言葉を書き記しながら意識が何かを語っていると感じるなら、
それは錯覚かもしれず、
実際には書き記しているわけで、
そんなことはわかりきっているだろうが、
わかっているのに錯覚しているのではないか。
そしてその錯覚から生じているのが、
文章上の虚構の語り手と書き記している現実の作者との混同であり、
書き記している意識が書き記しつつある文章上の語り手を、
完全に制御できると信じ込んでしまうのかもしれい。
もちろん文章を構成するのに四苦八苦している現状があるなら、
現時点では記述を制御しきれていないことを自覚しつつも、
なんとかまともな内容になるように、
あれこれ工夫を凝らしながら記述しているつもりで、
文章の完全な制御を目指して記述しているのだろうが、
果たして文章上の語り手には、
それとは別の思惑があるように
文章が構成される可能性があるだろうか。
そしてそこで想像される語り手の思惑が、
作者の思惑と完全に一致することがあるだろうか。
実際に書き記した文章を後から読み返してみると、
自身が思っていることが、
そのまま文章上の語り手が思っていることなれば、
書き記しつつあるときの意識と、
後から文章を読み返しているときの意識が、
同じ意識であると思えるだろうから、
その文章が自分の思っていることを
そのまま語っていると感じられるかもしれないが、
ある程度時が経ってから読み直してみると、
書き記しているときの記憶が定かでなくなり、
何か今考えていることとは違うようなことが
語られていると感じられるなら、
その時の意識と今の意識との差異を感じ、
今と昔とでは物事の見方や考え方が
変わってきていると感じるかもしれないが、
それも語り手と書き手の差異を混同した錯覚だと言えるだろうか。

わざと話をこんがらがらせている感もなきにしもあらずだが、
いったん書かれてしまった文章には、
その時の書き手の意識が反映されていると考えるのが普通だろうし、
そうみなしておけば取り立ててそれを問題視することもなく、
それで済んでしまうのだろうが、
記された文章上の語り手が、
その文章の書き手との間に何らかの差異が生じていて、
その差異をめぐって何か語ることができるとしても、
その文章の内容について論じる場合は、
作者が語っているとみなして論じてしまうだろうし、
物語の登場人物が語っている場合でも、
その物語の作者が登場人物に語らせているのだろうし、
登場人物を介して作者が語っているように
単純化しても構わないだろうか。
その物語の内容にも語る内容にもよるだろうが、
そもそも物語の作者について何を語らなければならないだろうか。
それも語る内容にもよるだろうが、
例えばそれが映画となると、
製作者や脚本家や出演している俳優などよりも、
監督について語られる場合が多くなるだろうが、
それも映画の種類によって、
作品に占める監督の重要度も変わってくるだろうし、
その作品における監督の役割に応じて、
作品について論じる上で、
監督について語る内容も変わってくるだろうか。
無難なところでは作品そのものについて語ればいいのだろうし、
映画監督や小説の作者などに特別な思い入れがなければ、
それで構わないのだろうが、
語る上で監督や作者の存在が欠かせなくなれば、
自然と〇〇の映画とか〇〇の小説と語らざるをえなくなるわけで、
それが『スター・ウォーズ/エピソード7』となると、
監督もさることながら、
制作元のディズニーの影響力が強いのかもしれず、
ディズニー映画とみなしておいたほうが、
その特徴を語る上で妥当な解釈が可能となるだろうか。
そうみなすなら
それほどわけのわからない逸脱などありえないだろうし、
それを期待するのもおかしいわけで、
スター・ウォーズファンが期待している内容の
最大公約数的な作りとなるのは当然かもしれず、
それとかけ離れた実験的な内容などに挑戦するのは、
何よりもディズニーが許さないだろうし、
ディズニー映画である限りは、
公序良俗と節度をわきまえた健全な作品になるのは当然だろうか。
それとも監督の技量がすごいと、
ディズニーを納得させた上で
さらなるプラスアルファを作品に付け加えられるのだろうか。
何かディズニーが気づかないところで、
ディズニー映画にあるまじき内容を作品に盛り込めれば、
後世に残るような作品となるかもしれないが、
今後そんな幻想を抱かせるような作品へと
発展して行けば面白そうだが、
現状では作品の鍵を握ると思われるフォースの力が、
主に戦闘場面でしか発揮されていないように感じられ、
戦闘を有利に導く超能力のような位置付けではなく、
戦争を終わらせ平和に導くような力として発揮されるようになれば、
これまでのシリーズにはない新機軸となるような気がするのだが、
『エピソード7』を観た限り、
その可能性として、
フォースの力に導かれて
人と人が出会うような設定となっているのかもしれず、
広大な銀河の中でいかにワープ航法があろうと、
偶然の巡り合わせだけで
主要な登場人物たちが次から次へと遭遇してしまうのは、
かなり不自然で無理があるように感じられ、
もしかしたらフォースの力に導かれて人と人が出会い、
出会った人達が力を合わせて銀河を平和へと導くような話なら、
ディズニー的な健全性にも合致するのかもしれない。

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創刊日:2001-03-26  
最終発行日:  
発行周期:不定期  
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