文学

彼の声

この世界について、この社会について、この時代について、未来について、過去について、人々について、自分が日頃感じていることを率直に語る。

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彼の声 2015.12.10 「法律の活用」

2015/12/11

宗教を批判したところで、
神は何も語らない。
神に代わって人が語り、
その語りに感銘を受けて、
人は神を信じるようになる。
聖書やコーランが読み継がれ、
語り継がれて今に至る。
そして今に至った結果がこの有様だ。
全てを宗教のせいにはできないのはもちろんのこと、
宗教のせいにしたがる人々の言わんとすることもよくわかる。
何が宗教で何が宗教でないかを区別できるだろうか。
全てが宗教で他は何もないというのもあり得るかもしれない。
人は神に支配され、
世界は神に支配されている。
この世界は神によって創造されたもので、
創造物の中には人も含まれている。
そうだとすれば人はこの神が創造した世界の中で
何をやればいいのか。
実際にやっていることを続けていればいいのだろうか。
そうだとすればやっていることのすべては、
神の意向が反映されたものなのではないか。
そうなると人を殺めたり物を盗んだりする行為も、
神の意向で行われていることとなり、
それらを肯定する宗教は信じられないから、
神の他に悪魔を登場させ、
人に害を与える悪い行為は、
悪魔にそそのかされて行っていることだとすれば、
神の無謬性が保たれるだろうか。
だがそんな幼稚な原理では、
他人から馬鹿にされてしまうかもしれない。
では現代において、
普通の一般人に信じてもらえる宗教とは、
いかなる教義を必要とするだろうか。
その辺はあやふやにしておいて、
例えば冠婚葬祭を仕切る役割に徹していれば、
何とかその体裁を保っていられるかもしれず、
一般の人たちにはあまり教義云々は明かさず、
教会や寺社にくる人たちには、
儀式以外では人生相談の問答などで乗り切れば、
宗教教団として一応は成り立つだろうか。
もちろん中には
真面目に宗教について考えている人たちもいるだろうし、
宗教哲学みたいな学問もあるのではないか。
そこで宗教的な意味での
世界を律する原理なども提示されているかもしれないが、
一般の人たちはそういう方向で宗教について考えることはなさそうで、
何か特有の服装や習慣によって
その宗教や宗派に帰依しているのを認めるだけで、
それ以上は詮索しないだろう。
要するに宗教の中身にはあまり関心はないが、
特定の宗教や宗派に属する人たちが、
それを利用して他の人々に害をなすような行為に及べば、
場合によっては差別したり弾圧するだろう。
テロに及ぶ人たちがイスラムの名においてやっているから、
イスラム教徒が差別されたり弾圧されるのは、
ある意味で当然のことなのだろうが、
イスラム教徒にしてもキリスト教徒にしても、
あるいは仏教徒やユダヤ教徒にしても、
異教徒と戦って、
勝って異国を占領して、
そこに国家を築いた歴史的な経緯があるわけだから、
テロを繰り返す武装組織なども、
それの再現をやろうとしているのだとすれば、
彼らの論理ではそれほど間違ったことはやっていないのかもしれない。
そしてそうだとすれば彼らにとっては敵である異教徒側も、
応戦しなければならなくなり、
現状がそんな宗教的な聖戦のただ中にあるとすれば、
そういうことになってしまうのではないか。

宗教的にはそんな解釈で構わないのかもしれず、
それはそれとしてそんな捉え方をしておけばいいのだろうし、
別にそこに戦争反対などの
人道主義を紛れ込ませる必要はないのかもしれない。
宗教であれ何であれ、
世界に原理を導入しようとする人たちは、
それを受け入れない人たちと戦う宿命なのであり、
それが武装闘争なのだろうから、
戦争をしているつもりなのだろうし、
聖戦に勝利すれば、
自分たちの宿願を達成したことになるのではないか。
冠婚葬祭や人生相談などではなく、
真面目に宗教について考えて行くと、
宗教の性質上そこに原理を導入せざるをえなくなって、
そこから世界を律する法のようなものが導き出されるとすれば、
その法によって世界を従わせるには、
法を受け入れない人たちと戦うのは避けられないだろうか。
イスラム法を厳格に守らせるために戦う大義があるとすれば、
戦うことが正義ともなるだろうが、
イスラム法でなくても、
国家が規定する法律を守らせるために、
警察や軍隊などのように暴力を行使できる機関があることは、
法律を守らない人たちとの戦いが、
世界中で行われていることを意味し、
それらの戦いの延長上に戦争があると考えれば、
紛争地帯でも平和な地域でも、
それがどのような形をとるのであれ、
戦いは日常茶飯事で行われていて、
そこには合法や違法や超法規的な戦いがあり、
そこで効力を発揮している法律に照らし合わせれば、
やっていい戦いとやってはいけない戦いがあるのだろうが、
それが戦いである限りにおいて、
やっていい戦いからやってはいけない戦いへと、
移行したり発展する可能性は常にあり、
警察などの治安機関が正常に動作している地域であれば、
やってはいけない戦いは取り締まりの対象になるわけで、
それによって地域の治安が保たれ、
そのような法に基づく秩序を人々が受け入れていることになる。
そういう意味で世界中で行われている戦いは、
法を守らせ従わせるための戦いであり、
それがゲームやスポーツともなると、
ルールを守りルールに従いながら戦うことにもなるわけで、
宗教の戒律であれ国家の法律であれゲームのルールであれ、
守らせたり従わせたりすることは、
人の自由を奪う行為になるわけで、
それは必ずそれに逆らったり破ったりする者の出現を許すことになる。
そうなるとそれを守らせたり従わせたりする側と、
それに逆らったり破ったりする側との戦いになるのは避けられず、
つまり世界に戒律や法律やルールがある限り、
それを巡る戦いは永遠に続くことになり、
やはり人は人と戦う宿命にあるのではないか。
そして法によって
やってもいい戦いとやってはいけない戦いとの間に、
境界を設けるのだろうが、
その境界はいつでも侵犯され越境の対象となり、
やってもいい戦いからやってはいけない戦いへと発展するのだろうし、
法の類いには戦いをやめさせる効力はなく、
逆に法を巡って戦いを活性化させるのであり、
法を用いて戦っている自身を正当化するわけで、
要するに人は人と戦うために法を必要としているわけだ。

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創刊日:2001-03-26  
最終発行日:  
発行周期:不定期  
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