文学

彼の声

この世界について、この社会について、この時代について、未来について、過去について、人々について、自分が日頃感じていることを率直に語る。

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彼の声 2015.12.7 「フィクション」

2015/12/08

フィクションを理解することが、
そのまま世界を理解することに結びつくだろうか。
フィクションはフィクションであり、
世界は世界なのだろうが、
両者を結びつけるのが人の想像力となるだろうか。
人がフィクションを好むのは、
そこに人が好むような成り行きや結果が反映されているからかもしれず、
それが人為的に感動や驚愕をもたらしているように感じられ、
その人為性が人を安心させるのかもしれないが、
人も自然の一部として世界に属している以上は、
時としてそこに人知を超えた自然の脅威が顔を覗かせていたりして、
人が作り出すフィクションといえども、
侮りがたい部分があるのかもしれず、
フィクションにあってもそれを感じ取れるとしたら、
そこから世界の理解へと至る場合もあるだろうか。
世界を理解するために
フィクションを利用しようとしているわけではなく、
ただの娯楽でしかない場合がほとんどかもしれないが、
学問とは違う意味で、
どうもそこから何かしら学んでいる可能性があるのかもしれず、
世界に対する認識や、
社会の中で人が行動する上で、
典型的な動作などが、
フィクションの中に現れていると思われたり、
また現実の世界と比較した場合、
フィクション特有の限界がそこに現れていると感じられると、
それがとりもなおさず
世界に対する人の限界であるように思われてしまうわけで、
そこに登場する架空の人物が、
その環境からもたらされた固定観念にとらわれたまま、
何かのきっかけで身の破滅を招いたりすれば、
何やら現実の世界でもありそうな話だと思ったりするわけだが、
一方でそんな風に原因と結果を
簡単には結びつけられないような話となれば、
そこに自然からの作用として
偶然の巡り合わせが働いているとも思われ、
人の行動や言動が必ずしも理路整然と合理的な過程を通らずに、
思いがけない結果を招いたり、
わけのわからない紆余曲折や、
話のつじつまが合わないのに、
そうなる方がおもしろく思われたり、
ありふれた話の展開や予定調和の結末に
安堵する楽しみもあるのだろうが、
それ以上の何かを期待して
期待以上の驚きや感動がもたらされたら、
そちらの方がはるかにいいのだろうし、
そういう意味で人がフィクションに求めているのは、
フィクションを超えるような何かがもたらされることかもしれず、
そしてそのフィクションを逸脱するような何かの中の一つが、
自分たちが生きている世界の理解に結びつくことになるだろうか。
別にフィクションにそれを求めるのもおかしな話かもしれないが、
人を世界の理解へと導く文化的な作用の一つとして、
フィクションがその役割を担っている可能性も
なきしもあらずかもしれず、
初めからそうと認識するのではなく、
それを目的にフィクションを利用しようとするのでもなく、
何かのついでぐらいにそれに接していると、
思わぬところから思わぬきっかけとなったりするのかもしれず、
別にそれがフィクションでなくても、
ニュースでもドキュメンタリーでも構わないのだろうが、
ニュースの伝え方やドキュメンタリーの構成自体が、
どうもフィクションから影響を被っているように感じられて、
そこに登場する現実の世界で生きている人々が、
あたかも俳優が演じているかのような動作を
なぞっているように思われ、
そこでカメラに向かって何かを伝えようとするそぶり自体が、
自然と俳優の動作をもたらしてしまうのではないか。

直接何かを伝えるにしろ、
それを書き記すにしろ、
ここにはない何かを伝えようとしているわけで、
それは何かが起こっている現場で、
その起こっている状況をリアルタイムで伝えようとするのであっても、
それに関する話は、
時間的にさかのぼって、
過去に起こったことを伝えたり、
これから起こるだろう未来の出来事について予想したり、
やはりここにはないことを伝えようとするわけで、
そうなるとフィクション的な要素も話に入り込んできて、
話の中で伝えようとする現象を部分的に取捨選択したり、
その自覚がなくても話を誇張したり歪曲したり、
そのような編集作用が伴うわけで、
それこそがフィクションそのものの特性かもしれず、
そのようにして人が現実に生きている世界の中から、
伝えたいことを伝えようとする動作が、
フィクションをもたらしているのではないか。
もちろんそこで伝えたいことが伝わらなかったり、
また伝えたいこととは別のことが
伝わったりする現象も起こるわけで、
必ずしも思惑通りに事が運ぶわけでもないのだろうが、
ともかく何かを伝えたいという意思を持ち、
それを実現させようとする行為がフィクションを生み出し、
その意思通りに事を運ばせようとして、
様々に工夫を凝らしてフィクションを構成する過程で、
その意思を超えて世界の情報が注入されてくるのかもしれず、
そのようなフィクションに接した人たちは、
その自覚もないまま
世界に関する情報をそこから得ているのかもしれない。
そしてその得られた情報を通して世界を知ろうとしているわけで、
それがそれと自覚できるものから、
それとは気づかないものまで、
様々な水準で人の意識に取り込まれることで、
人の意識に影響を及ぼし、
その人の人格や行動や言動に反映されるわけで、
場合によってはその取り込まれた情報によって、
その人が制御されるようなことになれば、
それは洗脳と呼ばれる現象かもしれないが、
そもそも自分に思惑通りに
何らかの現象を制御したいと思うこと自体が、
やはりフィクションの実現へと向かわせるわけで、
その自分が制御しているつもりになれる現象が
フィクションなのではないか。
そういう意味で人は、
自分の思い通りのフィクションを作りたいわけで、
それが自分が伝えたいことを伝えようとする行為そのものであり、
作家でなくてもあらゆる人間は、
そのような思いから生じるフィクションにとらわれていて、
その自覚がなくても
フィクションを構成しようとしているのではないか。
そして絶えず構成することに失敗しているのかもしれず、
その失敗をもたらしているのが自然からの作用であり、
その中には他の人たちが邪魔する行為も含まれるだろうし、
邪魔をしようとする意思がなくても、
人がやろうとする行為に他の人が関わってくると、
他の人の思惑も働いてくるから、
その人の思い通りに事が運ばなくなり、
結果的に出来上がったものは、
当初にやろうとしていたことからずれていたり、
かけ離れたものであったりして、
またそれが出来上がる過程で、
それを製作しようとする人たちを、
その作品が変えてしてまう現象も起こるかもしれない。
作品を作ることによってその製作者が、
作品からの作用によって変貌させられる可能性があり、
そうなると作品が出来上がる頃には、
もはや当初に抱いていた目論見など
どうでもよくなっていたりするのではないか。

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創刊日:2001-03-26  
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