文学

彼の声

この世界について、この社会について、この時代について、未来について、過去について、人々について、自分が日頃感じていることを率直に語る。

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彼の声 2015.12.6 「統治形態」

2015/12/07

普通は何かと何かの間に差異を見出そうとすることから思考が始まり、
その何かと何かの違いを説明しようとするのだろうが、
その何かと何かとは具体的に何なのか。
それを知り得なければ差異も生まれず、
思考も言説も出てこないのではないか。
実際にそこに差異があるとは認められず、
何かと何かの区別がつかないのかもしれず、
何かが具体的に何なのかさえ分からないだろうか。
それがわからなくても構わないなら、
取り立てて差異を見出す必要などないのかもしれないが、
ではその区別のつかない何かと何かとは何なのか。
はっきりと区別できなければ、
安易にそれを特定するわけにはいかないだろうか。
昔がどれほど昔だったのかはっきりとはわからないが、
たぶん昔と今とでは、
そこへと至った過程が異なるのだろう。
昔と今との差異を見出せなければ、
なおさらそうなのかもしれず、
逆に差異を見出してしまっては困るのかもしれない。
このままでは昔のようになってしまう、
と危機感を煽る人たちにとっては特にそうなのだろうか。
確かに昔と今とでは状況が違うとなれば、
今からどのように事態が進展しても、
昔ようにはならない可能性が高くなり、
煽るはずの危機感が減じられて、
それを真に受ける人もあまりいなくなってしまうかもしれない。
実際にそうなってしまうと、
危機感を煽ろうとする人たちも焦ってくるだろうか。
そして状況を把握しようとする人たちにとっては、
そのような焦りこそが、
昔と今の違いを示す証拠と映るのかもしれないが、
実際に危機感を煽っている人たちは焦っているのだろうか。
現状ではなんとも言えないところかもしれないが、
事態がだんだん進んできて、
昔とは明らかに異なる兆候が出てきたら、
それらの人たちは素直に自分たちの勘違いを認めて黙るだろうか。
それともそれこそが自分たちが危機感を煽った成果だとして、
自分たちの行為が昔のような事態なるのを防いだと胸を張り、
そんなふうにして
彼らの自己正当化に余念がないような結果をもたらすだろうか。
願望混じりに予想するとすれば、
おそらくそうはならずに、
彼らが胸を張るような結果とはならないだろうし、
そうかといって昔のようになるはずもなく、
ではどうなるのかといえばどうにもならず、
いつまでたっても相変わらず現状のままとなるのではないか。
それ以上にも以下にもなりようのない現状の中で、
事態は停滞の一途をたどり、
何もかもが形骸化するにまかせ、
多くの人たちがその件については無関心となって、
さらに時が経てばそんなことなど忘れてしまうだろう。
そういう意味では今は危機的状況ではない。
そうでないとすれば今はどんな状況なのか。
停滞している状況なのではないか。
しかもその停滞で構わないのであり、
停滞以外にはありえない状況なのではないか。
間違ってもここから躍進する可能性などないだろうし、
無理に躍進させようとしても、
そのきっかけも材料も見つからず、
どうすることもできないから停滞するしかなく、
誰もが停滞に耐えるしかない状況なのではないか。
そしてそれ以上を求めても求まるわけがなく、
なにやら見え透いた掛け声は常に発しているようだが、
掛け声倒れであるのは誰もが分かっていることなのではないか。

そして今は誰もが、
世界中の国々が悪あがきの最中であり、
従来からある価値観に基づく繁栄を維持し、
継続させようとしているのかもしれないが、
それがうまくいかずに行き詰っているのかもしれず、
その行き詰まりを打破しようとして、
悪あがきの最中なのだろうが、
掛け声ばかりが虚しくこだまする一方で、
肝心の方策がないのかもしれず、
だから世界が停滞のただ中にあるのだろうし、
取り立てて打破する方策がないのだから、
それで構わないにもかかわらず、
やはり誰もが、
世界の主要な国々が、
悪あがきをせずにはいられないのであり、
そうしないと国家としての体面を保てないのではないか。
何か対策を施しているふりをしていないと、
民衆を納得させることができないのであり、
国を統治する役割を担っている行政機構や、
各省庁の中でその役割を担当する部署に配置されている人員や、
そこで指導する立場にある、
しかるべき地位にある人々が、
何かをやっているように見せかけておかないと、
それらの機関とそこに配属された人々は、
無駄で無意味なものとみなされてしまうので、
それを避けるには、
彼らには何かもっともらしい理由を得られるような仕事を、
割り当てておかないとまずいわけだ。
そんな仕事があればの話なのだろうが、
国を統治する仕事というのが、
もっともらしい理由を得られるような仕事なのかどうか、
統治するのが当然のことだと思われていれば、
何はともあれ何とかそれで、
それらの機関とそこに配属されている人員の必要性や根拠が
示されたことにはなるだろうが、
果たして統治とはどのようなことを意味するのだろうか。
統治と支配はどう違うのか。
例えばそこに暮らす人々が納得できるような支配形態が
統治と呼ばれるのか、
あるいは支配者が支配を合理化し正当化するために、
支配を統治と呼び換えているだけなのか。
支配と統治が本質的に違わないのなら、
では実質的にはそこで誰が何を支配し統治していることになるのか。
それに対する明確な答えを持ち合わせている人は
いくらでもいるかもしれないが、
その明確な答えに納得できるかどうかは、
その人の立場や主義主張によって異なるだろうか。
そして納得できない人たちは、
統治や支配について明確な答えは持ち合わせてないだろうし、
ただそこに統治機構としての三権分立を担う諸機関が存在していて、
それらが国を統治している事実は認めざるをえないだろうが、
その理由や根拠や必然性ついては、
それがないと困る程度の認識かもしれず、
実際にそれがあるのだから、
やはり必要だからあるのだろうし、
あるものがなくなれば困るのは当たり前のことで、
そこからそれらの諸機関がなければ困る理由が導き出されるだろうが、
なければ困るという思考自体が、
すでにそれらの存在を前提として考えてしまっているのであり、
例えば三権分立ではなく、
実質的には三権癒着構造になっている可能性もあるわけで、
そうだとすると三権分立が機能しておらず、
すでに困った事態となっているのかもしれず、
しかもそれが当然だと思っている人たちが、
それらの機構内で幅を利かせている可能性があり、
だから分立ではなく癒着しているわけで、
癒着することで共通の利益が得られる構造となっているのかもしれず、
従来からある建前のように、
行政と司法と立法の諸機関が、
相互に相互の権力を監視し合って、
どれか一つの突出を他の二つが抑える機能というのが、
有名無実化している方が三機関ともに都合がいいとなると、
その時点でそれらの機関の存在意義そのものが無化しているわけで、
三権が分立している理由がなくなってくれば、
三権分立という統治形態そのものの根拠や必然性について、
合理化も正当化もできなくなってくるわけだ。

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創刊日:2001-03-26  
最終発行日:  
発行周期:不定期  
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