文学

彼の声

この世界について、この社会について、この時代について、未来について、過去について、人々について、自分が日頃感じていることを率直に語る。

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彼の声 2015.12.2 「実感」

2015/12/03

現状がどのような情勢になっているとしても、
どうもこの先も大したことは何も起こりそうにないように思われ、
実際には何かが起こるのだろうが、
起こったからといって、
何の感動も感慨も湧いてこないような気がして、
自分が直接巻き込まれでもしない限り、
面倒臭がってそれをやり過ごしてしまうような気がする。
いつの間にか何事にも無関心となっていて、
そうならざるを得ない成り行きに流されているのだろうか。
別にすでに世の中の全てを理解しているわけでもなく、
何が起こってもうろたえない自信があるわけでもなく、
時勢を達観しているわけでもないのに、
そのくせ妙にわかったふうなことを語りたいのかもしれず、
要するに他人よりはわかっているふうを装いたいのだろうか。
その証拠かどうかははっきりしないが、
これから起こることに関して、
誰が何を予想しているとしても、
もはや予想すること自体が、
どうでもいいことのように感じられてしまい、
メディアに登場する識者の予想など、
どうせつまらない予想ばかりで気が滅入ってしまうから、
目を閉じ耳を塞いで、
何も見ず何も聞かなかったことにしたいところかもしれず、
また現実に予想通りに誰が何を起こそうとしても、
実際に起こしても、
結果としてもたらされるのは、
起こそうとしたり起こしたりしたことからはかけ離れた、
予想外の結果がもたらされるのであり、
しかもその予想外というのが、
何も起こらなかったのと同じような予想外の結果でしかなく、
何か想像を絶した物凄いことが起こるわけではなく、
実際に起こるのはその手の識者が狼少年になるような、
予想をはるかに下回るような結果でしかない。
だが本当に全てがそうだろうか。
たぶん実際はそうだったわけではなく、
予想以上の思いがけない結果に遭遇しているはずなのだろうが、
それを忘れているのではないか。
実際に数年前の地震や津波や原発事故でさえ、
予想をはるかに超える災害だったのに、
放射能汚染はこの先も何十年も続くはずなのに、
世間的にはすでに過去の出来事として忘れ去られようとしている。
それは何かが起こった後から施される対処が
功を奏しているからなのか。
それが批判されるような対処であることは間違いなく、
実際に批判を浴びているわけで、
またその批判をかわすようなことも行われ、
それも批判を浴びていることは確かなのかもしれないが、
批判を浴びている人たちはどこ吹く風で、
着々と既成事実を積み重ねて人々の忘却作用にまかせ、
それらの出来事が世間の話題に上らないようになるまで、
そのように対処し続けるのかもしれず、
それが功を奏して、
それらの出来事が大半の人々の記憶から消えて、
風化してしまえば、
そのような対処をしている人たちの思惑通りとなるのだろうか。
そうなってもならなくても、
原発事故に関してはこれから何十年も事故処理が続くわけで、
事故の記憶を風化させようとする人たちの対処も、
これから先何十年も続いていくことになるのではないか。
そしてそのような努力が何を意味するわけでもないようにも思われ、
結局それはそれらの人たちの自己満足をもたらすだけなのではないか。

たぶんこれからも思いがけず予想外の出来事や事件に遭遇して、
またそれに巻き込まれることもあるかもしれないが、
遭遇したり巻き込まれたからといって、
それを体験してなお生き残っていれば、
その経験を利用して何かやろうとするのであり、
とんでもない被害にあい、
悲嘆に暮れて絶望のどん底で死んでしまえば、
それまでのことなのかもしれないが、
生きていれば多かれ少なかれ、
その経験を生かさざるをえない成り行きになってしまうのではないか。
それが生き続けることそのものなのかもしれず、
死ぬ理由がそうであるならば、
生きる理由も同じこととなり、
そのような経験が死ぬことにも生きることにもつながってしまうのは、
不条理かもしれないが、
同じ理由で死んだり生きたりするのは、
死ぬ動作と生きる動作が、
それほどかけ離れたものでなく、
要するに死ぬまでは生きているということであり、
そのような経験のすぐ後や、
それからしばらくたってから死ねば、
それが原因や理由で死んだことになるかもしれないが、
しばらくたってからも相変わらず生きていれば、
そのような経験を糧にして生きていることにもなるわけで、
死や生は結果でしかなく、
そこに至るまでの過程で、
その経験が人にどのような影響を及ぼすかは、
人それぞれで異なるのかもしれず、
またそれに遭遇したり巻き込まれた時の状況によっても、
偶然の巡り合わせが作用して、
ある人はそこで死んだり、
またある人はかろうじて生き残ったが、
その痛手から立ち直れずに死んだり、
またしぶとく生き残って、
さらにうまく立ち回って、
あるいは幸運に恵まれて、
その後も平然と生き続けている人もいるのかもしれない。
だから同じようなひどい目にあっても、
そこで人の生死を分けるのは、
後から改めて考えてみても、
ほんの些細な要因かもしれず、
そういうことからも死んでしまうのと生き残ることには
それほど違いはなく、
その人の親族や交友関係にある人でなければ、
その人が死んでいようと生きていようと
大した問題ではないのかもしれない。
だから戦争や災害で大勢の人が亡くなっても、
メディアが騒ぐほどには深刻に受け止められない人は、
案外多いのではないか。
その辺のところで、
人道主義を訴える人などには誤解が生じていて、
他の多くの良心的な人たちが、
ともに戦争や政治的な弾圧に反対している
と思い込んではいけないのかもしれず、
戦争でも圧政でも、
それによって多くの人たちが死んでしまうとしても、
生き残った人々は
それを利用して利益を得ようとしているのかもしれず、
他人や近親者の屍を踏み越えて生き延びること自体が、
そもそもそういうことなのではないか。
それを人道的に美化してはいけないだろうし、
実際に身の回りが死体だらけなら平然としていられるのかもしれず、
特に見ず知らずの他人の死を悲しむ人など、
そこにメディア的なお涙頂戴の演出がなければ、
あまり見かけないのではないか。

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創刊日:2001-03-26  
最終発行日:  
発行周期:不定期  
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