文学

彼の声

この世界について、この社会について、この時代について、未来について、過去について、人々について、自分が日頃感じていることを率直に語る。

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彼の声 2015.11.27 「宗教」

2015/11/28

社会には人や組織を通して結ばれる様々な関係があり、
それらの関係の中で人が生かされているとすれば、
関係が人を支え、
またその意識に少なからず影響を及ぼしていて、
人を関係の中に束縛して自由を奪っているのなら、
結果的に関係がその人を支配していることにもなるかもしれないが、
それを自覚するのが難しい関係というのもあるだろうし、
とらえどころのない関係というのがあるだろうか。
社会の中でそれをわかりにくくしている不可視の構造があるとすれば、
それは何なのだろうか。
それを知りえないことが、
それと気づかずにそのような関係に囚われ、
その関係が強いる境遇から抜け出られなくしていて、
また逆にそれによって強いられた境遇に甘んじている限りは、
それなりに安定して生活できる構造となっているのかもしれない。
比較的平和で安定した社会の中では、
そのような関係が社会の隅々にまで張り巡らされていて、
そこに暮らす人を社会につなぎとめていて、
そのような関係の拘束力によって
社会全体の安定を保っているのだろうか。
そのように思われるとしても、
具体的にそれはどんな関係なのだろうか。
人々を社会につなぎとめておく関係とはなんなのか。
例えば戦争によって多くの人が難民となり、
国外へ逃れてしまう状況があるとすれば、
そこでは人々を社会につなぎとめておく関係が
切れてしまったと言えるかもしれないが、
そのような非常事態にならない限りは、
人はそこに留まろうとするだろうし、
そこで生計を立てて暮らそうとするのではないか。
たぶんそれは生きていく必要に迫られてそうするのであり、
そのためにはある程度の不自由は仕方がないと思うだろうし、
そこになんらかの社会的な慣習があるとすれば、
地域社会との無用な軋轢を回避しようとして、
できる範囲でその慣習に従おうとするのではないか。
それが人をその社会に縛り付ける慣習だろうと、
慣れてしまえばどうということはないだろうし、
慣習に従ってさえいれば、
他の住民はその人を排除しようとはしないだろうし、
逆に慣習を守る社会の一員として必要とされるのではないか。
そのような慣習があることが良いか悪いかではなく、
それによって多くの人が自由を奪われ、
社会につなぎとめられることによって、
その社会の平和や安定が保たれている状況があるとすれば、
その社会を支配しているのは、
誰もがそれに従わざるをえない慣習そのものであり、
その中身がそこに暮らす人々の
自由や平等を保障する民主的な憲法などの法律であれば、
その地域社会が法治国家としての
体裁が整っていることになるかもしれないが、
それとは別の慣習が広く社会全体に浸透している場合があるかもしれず、
例えばそれが特定の有力部族の地域支配を正当化するものであったり、
あるいは特定の有力政党以外の候補者には投票しない、
などという暗黙の申し合わせであったりすると、
それが不快な同調圧力となって地域社会に暗い影を落とし、
住民たちが精神的な圧迫にさらされることで、
時折陰惨な殺傷事件などが発生したりするだろうか。

普通はそういった具体的なものではなく、
もっと何気なく、
容易にはそれと気づかないようなものかもしれず、
例えばそれはネットや実用書などでよく見かける、
人との接し方や礼儀やマナーなどの指南に関するものであったりして、
それが高じると人生の送り方や生き方などにも及び、
こういう時はこうすればいい、
とさりげなく語りかけくる類いもあり、
そういうものに誘導され同調して、
それを実践していくと、
自然と社会人としての鋳型にはめ込まれて、
他の人たちと同じような価値観を持つようになり、
そうやって世の中の多数派が構成されるのかもしれないが、
そのような作用を担う人たちは、
善意で他人を誘導しているわけで、
中には人助けでそんなことをやっている気でいる人もいるのかもしれず、
例えば聖書の言葉が人が生きていく上で助けになるとして、
布教活動をしている人などはその典型だろうし、
実際に世界的な宗教などは
そうやって世界中に広まった面もあるわけで、
それを否定的に捉える人はほとんどいないだろうし、
そのような人生の教えに傾倒する人を批判するような人もいない。
だがそれもあえて悪く言えば
じわじわと効いてくる洗脳の類いには違いなく、
そのような言葉に癒されながら洗脳されるわけだから、
別に悪い気はしないわけで、
しかもそのような言葉が
人生の様々な局面で実際に役に立ったと思えば、
感謝の気持ちでいっぱいになって、
今度はその人が布教活動に精を出すことにもなるわけで、
本気でそのような活動が
世界平和に貢献すると思っているもいるだろうし、
そのような人の代表格がローマ法王であったりするわけだ。
それはイスラム原理主義が戦争を招いているのとは
逆のパターンかもしれないが、
イスラム教であっても平和に貢献しようする団体はいくらでもあり、
だからこそ世界的な宗教となったのだろうが、
果たして人は宗教を必要としているのだろうか。
それは結果であり、
社会の様々な関係から生じてくる軋轢や摩擦を癒そうとして、
宗教に救いを求める人がいるわけで、
またはっきりした宗教でなくても、
生き方を指南する箴言などの教えに頼ろうとする人もいて、
そこから得られる精神的に癒しが救いとなるわけだが、
それによって社会的な軋轢や摩擦がなくなるわけではなく、
それがあるから精神的な癒しを求める人が出てくるわけだから、
そこからもたらされる効果も、
問題の解決を目指すような方向には働かないわけだ。
つまりその地域で暮らす人たちの間で
宗教的な意識が強ければ強いほど、
その地域には何か解決することが困難な問題があるのかもしれず、
それが解決困難だからこそ、
そこからもたらされる不幸からの救いを求めて、
多くの人たちが宗教に向かうのかもしれず、
宗教を信じてもなお絶望的な状況が変わらなければ、
イスラム原理主義のように狂信的な傾向になるのではないか。

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創刊日:2001-03-26  
最終発行日:  
発行周期:不定期  
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