文学

彼の声

この世界について、この社会について、この時代について、未来について、過去について、人々について、自分が日頃感じていることを率直に語る。

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彼の声 2015.11.19 「認識の違い」

2015/11/20

受け入れがたい何かが人々の情念に働きかけ、
拒絶の態度として現れる時、
たぶんそこになんらかの理由が必要とされていて、
それはもっともらしい言い回しとして、
他の多くの人たちに向かって
同調を強いながら顕在化するのかもしれず、
その顕在化された理由が反論しにくい内容であればあるほど、
人々に対する抑圧として機能し、
もちろんその抑圧的な言い回しに従っていた方が、
正義を気取っていられるのだろうが、
それに屈せずに反抗を試みようとすると、
同調に従わない人間として無視や差別の対象となるだろうか。
その受け入れがたい何かというのが、
人々が日頃から都合よく意識せずに正当化している
欺瞞や偽善を突いていると、
なおのこと腹立たしく感じるわけで、
なんとかそれをなかったことにすべく、
もっともらしい言い回しを多用してかわそうとするのだろうが、
そうでなくても世の中で生きている限りは、
完全無欠の正義を主張することなどできないわけで、
ある程度は欺瞞や偽善を容認していないと、
たちまちのうちに自らの行動と思考の食い違いが表面化してきて、
それをごまかしながら生きてゆくしかないわけで、
そこに自らの主義主張を正当化することの難しさがあるのかもしれず、
他人がそうやっていることに気づけば、
場合によっては容認できずに批判を加えることになるわけで、
そうなるとその人の欺瞞や偽善を暴きたてようとするわけだ。
だがそうなると自分の欺瞞や偽善は許せるが、
他人のそれは許せないことになるわけで、
まさにそれではご都合主義そのもので、
それを日頃は都合よく意識せずに済ませてしまっていて、
実際にそれで済んでいるのだから、
それを他人が不意を突いて批判してくれば腹が立つのも無理はなく、
自分も他人に対してそうやっておきながら、
自分がそれをやられる番が回ってくると、
やはり腹が立つわけだが、
たぶんそれで構わないのだろうし、
他人を批判したければ
そうやって欺瞞や偽善を指摘しながら批判すればよく、
自分が批判される時もあることを覚悟しながら
批判すればいいのだろう。
批判すべきところは互いに批判し合っていないと、
批判されるような行為や言動の何が悪いのかわからないのであって、
批判し批判されることによって、
少しはそのような行動や言動を改める機会や可能性も
出てくるのではないか。
批判が何かの役に立つとすればそういう面で役に立つのかもしれず、
それが際限のない非難の応酬となると、
論争すること自体が無駄で無意味な浪費にしか至らないのだろうが、
ともすればそうなってしまいがちなのを、
気を利かせて穏便に矛を収めるような成り行きに持っていければ、
批判し合うのも少しは何かの役に立ちそうに思えてくるだろうか。
そういう意味では他人からの批判は利用すべきものかもしれず、
その批判を活用して新たな認識や思考へと到れたら、
その批判に感謝しなければならない場合もありそうで、
たとえその批判が的外れに思われるときでも、
注意深くその批判を拝聴すべきなのかもしれない。
もちろん直接面と向かって批判してくるようなケースはあまりなく、
ほとんどは皮肉交じりの揶揄の類いか、
誰に向かって批判しているのでもないように装いながらも、
それを回りくどくそれとわかるように仕向けてくるわけで、
こちらもそれを無視しているか、
それに気づかないように装いながらも、
相手の隙をついたつもりで不意にねじれた返しを仕掛けるのだから、
たぶんそうなった時点で意味不明なのかもしれないが、
ネット上ではそうなるしかないようだ。

それも幼稚なままごと遊びだと斬って捨ててもいいのかもしれないが、
こちらが被害妄想になって勘違いしているように装わないと、
なかなかそういった反応も引き出せないわけで、
ニュースメディアから受け取る情報も含めてあらゆる情報を活用して、
少しでも納得のいくような世界や社会についての認識に至れば、
それで構わないのだろうし、
そのような認識に至るためには、
やはり自分だけでなく、
他の人々の習性や動作を観察する必要が出てくる。
そのようにして人々の習性や動作を観察していれば、
この世界では誰が正しく誰が間違っているというのではなく、
誰もがある程度は正しく、
また誰もがある程度は間違っていると認識できるだろうか。
もちろんそのような相対的な認識では、
何を批判することもできないわけだが、
それを踏まえながらも、
ある程度は正しいところや、
またある程度は間違っていることについて語るしかなく、
その正しさや間違いも相対的なもので、
人の立場や境遇によってその程度も違ってくるかもしれず、
より強力な権限を持った人や政党や企業などの間違いは、
強く非難されるべきだろうし、
何の権限もないような一般人の間違いなど、
場合によっては無視されるようなものでしかないのかもしれない。
そしてそれらの行為や言動が正しいか間違っているかとは別に、
そうせざるをえないような成り行きになっている面も否定できず、
人はそのように行為し、
そのような言動に至らざるをえないような、
成り行きの中で生きているのかもしれず、
自分の欺瞞や偽善はそのままにしておいて、
他人の欺瞞や偽善を批判し、
糾弾せざるをえないような成り行きがあり、
何かを批判しようとすれば、
必然的にそのような成り行きになってしまうのではないか。
そして実際にそのようなことをやれば、
他人からそこを突かれて、
自分の欺瞞や偽善が批判され、
糾弾される立場に追い込まれたりするわけで、
そしてそうなってしまうのを恐れるから、
一般にはあからさまな批判や糾弾は避けられる傾向にあり、
やるとなると回りくどいやり方となりがちだが、
それが公的な立場の人たちであれば、
公的な範囲内で遠慮なしの批判や糾弾にさらされるわけで、
その公私の立場の境界をどこに設けるのかも、
議論を呼ぶところとなりそうだが、
場合によっては私的な利害関係こそ
批判され糾弾されるべきという考えもあって、
公共の場で私利私欲に走れば贈収賄などの対象となり、
公私混同は確かに批判や糾弾にさらされるわけだが、
何が公私混同に当たるのかも、
はっきりしている部分と曖昧な部分とがありそうだ。
政治家が国民のためにやっていることであっても、
それによって国民を弾圧している場合もあり、
果たして国民を弾圧することが
公共の利益に合致しているのかといえば、
それがその政治家の主義主張に反対している国民であれば、
国民のための政策に反対している国民を弾圧するのは、
その政治家を支持している人たちにとっては
許されることかもしれないが、
反対している人たちにとっては許されないことで、
政治家の私的な保身のために
政策に反対する国民を弾圧していると受け取られ、
弾圧そのものが
国民主権や民主主義に反した行為だと見なされるだろうが、
それを弾圧と見なすかどうかも、
政治家を支持する人たちと反対する人たちの間で、
真っ向から見解の分かれるところだろうし、
例えば沖縄で米軍の滑走路の工事に反対している人たちからすれば、
警察や海上保安庁などによる反対派住民を排除する行為は、
紛れもなく政治弾圧と見なされるわけで、
民主主義を踏みにじる行為だと非難され糾弾されているわけだ。

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創刊日:2001-03-26  
最終発行日:  
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