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彼の声

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彼の声 2015.11.8 「解決法」

2015/11/08

どうもはじめに結論ありきで
そんなことを述べているのかもしれず、
その結論というのが毎度おなじみの論理となってしまうだろうか。
そしてその論理として導き出される、
単純化された損得勘定を批判しても意味がなさそうに思える。
何事も突き詰めるとそうなってしまいがちだが、
そこに至る過程こそが人をまどわせ、
結論に至る単純化を見えなくしてしまう。
そして結論ありきとなり、
その結論の言葉が正義を体現しているのだろうか。
では結論の言葉とはなんなのか。
それによって特定の誰かや、
政治的あるいは社会的な立場や役職の人を
批判することになりそうだが、
批判したらそれで終わりだろうか。
それとも何か他に付け加える必要があるのか。
そのような出来事や行為をもたらす背景となる、
社会状況とか政治情勢などを付け加えれば、
話に説得力を増すだろうか。
そうではなく、
何を批判する必要もなく、
社会状況とか政治情勢なども大して重要ではなく、
ただ事の成り行きを説明すれば
それで済んでしまうような気がするのだが、
それで何が済んでしまうのかといえば、
話が済んでしまうわけで、
話の中で特定の誰を批判する必要もないのではないか。
現象としてはただそうなっているにすぎない。
誰が何を発言して、
どのようなことをやったかを示せばそれで済んでしまう。
何かを語るとはそういうことなのではないか。
それ以外に何があるというのか。
それに関する評価や認識を示せばいいのだろうか。
そしてその評価や認識が批判となるわけか。
その辺はそれでも構わず、
それも批判のうちだと判断しておけば無難だろうか。
だがそこから何をどうすべきか、
という主義主張へと論を進めていくと、
なぜか途端に荒唐無稽な空理空論が展開されて、
実現不可能な理想論を一方的に語り始めている。
それもそれで構わないのだろうか。
たぶんそうだ。
そういう部分はスルーすればよく、
説得力のある状況の説明だけを拝聴しておけば事足りる。
知識は状況の説明からもたらされ、
自説の正当化など単なる付け足しに過ぎない。
その人の主義主張などあまり重要ではなく、
そのような主義主張をするに至った
社会状況や政治情勢を理解しておけばいい。
だから話の結論となる主義主張だけを提示されても、
そんなものは無意味でどうでもいいことかもしれない。
批判されている特定の政治家や学者やジャーナリストなど
物の数ではなく、
批判されるようなことをやったり、
述べたりしているだけでも、
社会の中でそれなりの力があるわけで、
その力の源泉はそれらの人々を支持する人達にあり、
そのような行為や言動によって、
彼らの支持者たちの願望を叶えているわけだ。
それはそれで大したことであり、
それなりに評価されるべきことかもしれず、
実際に彼らの支持者たちは評価しているわけだから、
それらの行為や言動を否定する人達がいくら批判しても、
支持者が付いている限りは、
その立場も地位も役職も安泰なのだろう。

それがメディアの社会的な特性なのであり、
そのような人達に脚光が当たるような
仕組みになっているのではないか。
そういうものだと認識しておいたほうがよさそうだが、
それを変えようとして変えられるわけでもなさそうで、
一般の人がネット上などでそれを批判することもできるだろうが、
無難なところでは、
それについて説明するだけにとどめておいたほうがよさそうだ。
批判ばかりしていると次第にそれが主義主張へと発展して、
気がつけば空理空論の理想論ばかり
繰り返し主張している事態となって、
はじめにそんな結論ありきで、
特定の誰かを批判することになってしまいそうで、
当人はそれが悪循環だとは絶対に思わないだろうが、
批判の対象が特定の誰かである限りにおいて、
批判すればするほどその誰かに対する憎悪の念が強まってゆき、
ついには激昂して罵倒にまで行き着いてしまうと、
同じ罵倒を共有する人以外には相手にされず、
そういう人はそこで放って置かれるしかなさそうだ。
そしてそれでも構わないのであり、
そういう人たちのためのメディアでもあるわけで、
憂さ晴らし的な動作を誘発するのも、
メディアの社会的な特性の一つなのかもしれず、
そういう人たちの溜飲を下げるために、
特定の人物を罵倒したり貶したりするメディアもあるのではないか。
それがメディアの全てではないにしても、
批判している人も、
その批判の対象となる人も、
メディア的な処理を施されると、
誇張や歪曲を伴ってたちまちリアリティを失い、
それを語る言説にとって都合のいい人物像に変形され、
要するに批判されるべき人として、
批判という物語の登場人物となって、
それを語る人の心情が投影される対象となってしまうわけで、
そこで他者の他者性が消失して、
その人について語られる範囲内では理解可能である反面、
それ以外の何かが欠けてしまうわけだ。
そしてその何かが、
その人がその批判させるような行為や言動に至る経緯であり、
そのような行為や言動に至らざるをえない
社会的あるいは歴史的な背景であったりするわけだ。
それを見落としてしまうと、
その人は単なる悪者として憎悪の対象となるしかなく、
あとはその人をその人たらしめている、
社会的あるいは政治的な立場や地位や役職から引き摺り下ろす以外に、
問題の解決はありえないわけで、
たとえ何かのきっかけからそれが実現したとしても、
ほとぼりが冷めた頃にまた同じような役柄の人物が登場して、
憎悪を一身に集めながら活躍することとなり、
そのような人が出現する社会的あるいは歴史的な素地がある限り、
代わりはいくらでも現れ、
いくらでも再登場を可能としているのが、
社会の構造であり国家の仕組みであり
資本主義市場経済の特性なのかもしれない。
そしてそこで暮らす人々はいつも安易な解決法にすがるわけで、
それが特定の人物を憎悪の対象に祭り上げる方法だ。

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創刊日:2001-03-26  
最終発行日:  
発行周期:不定期  
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