文学

彼の声

この世界について、この社会について、この時代について、未来について、過去について、人々について、自分が日頃感じていることを率直に語る。

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彼の声 2015.11.3 「多様性」

2015/11/03

現実は捉えどころがないだろうか。
現実を興味深く見せようとするなら、
フィクションに頼らないと上手く表現できないのかもしれない。
そこにフィクションとしての現実があり、
人はフィクションの中で興味深い現実に出会うこととなる。
映画でも観に行けばそれがわかるだろうか。
わからなくてもフィクションを楽しめるのではないか。
そこで人が思い描く興味深い現実の様々な傾向を知ることができる。
わからなくても興味深く感じれば、
映像が記憶に焼きつくかもしれず、
それが何らかの体験となって、
それ以降の人の生き方にも影響を及ぼすだろうか。
別にそうならなくても構わず、
単に娯楽として楽しめればいいのかもしれず、
娯楽を体験することが、
社会の中で生きていく上で必要不可欠というわけでもないだろうが、
時としてそれを体験して、
少しは気晴らしでもしないと、
息が詰まってしまうかもしれない。
それが何かの役に立つとか、
そういうことではなく、
単に興味深い対象に接しようとすることが人の習性で、
別にそんな習性に抗う必要もないわけだ。
その興味が持続しているうちは、
それに関わっていくことになるのではないか。
そうするようにメディアが促しており、
そのようなメディアが世の中の空気を作り上げている。
もちろんメディアに特定の意志や意図が
介在していることもあるのだろうが、
様々な傾向のメディアが様々な媒体を通じて
ひしめき合っている状況がある限り、
その特定の意志や意図が社会全体に浸透するには至らず、
特定の政治経済的あるいは思想宗教的な勢力を形成することはあっても、
世の中がそれ一色に塗り上げられることはないだろう。
そういう意味ではメディアの多様性が保たれていることが、
その社会の健全性を表していることになるだろうか。
健全であるかないかではなく、
人や人が寄り集まって形成する勢力が、
世の中に及ぼそうとする力が
複雑に絡み合っている証しとなるだけで、
そんな社会の実態を示しているに過ぎないのかもしれず、
そのような状態の中では、
社会全体を制するような権力を行使できない構造となっていて、
そのような状況を一掃するような政治的な試みが全体主義であり、
独裁体制を構築する試みとなるわけで、
それが軍隊や警察などの暴力装置を使って
推し進められる傾向にあるわけで、
これまでのところはそれが一国では
可能となる場合が多かったのだろうが、
世界全体をそれによって制するには至っておらず、
そのような試みにもおのずから限界があることは確かで、
特定の政治経済的あるいは思想宗教的な主義主張で
世界を統一するのは不可能なのだろう。

そのように放っておけば多様化し分散する力を、
一つに結集させ統一しようとする意志や思惑が働くのも、
人や組織の習性と言えるのかもしれず、
世の中を自分や自分たちの勢力の思い通りにしたい、
という人為的な作用なのだろうが、
それも社会の中で働いている力の一つなのかもしれず、
そしてそれに抗おうとする力とのせめぎ合いが起こっていて、
それが体制側と反体制側の闘争という形となって
顕在化していることは確かだが、
一方でそのような闘争に対する
傍観と無関心という無効化作用も働いていて、
その闘争に幻想を抱けない人が多ければ多いほど、
熱狂とは違う冷めた無反応が
社会の中で支配的となっていくのかもしれない。
そのような傍観や無関心が何に向かうかといえば、
娯楽へと向かうわけで、
体制側も反体制側も娯楽を通じて
人々を自分たちの勢力に引き込もうとするのだろうが、
娯楽には娯楽特有のそのような闘争とは別の方向性があり、
闘争の価値観と娯楽の価値観の間で
容易には重ならない部分があるのかもしれない。
要するに娯楽は娯楽として自己完結していて、
そのような闘争が娯楽へ影響を及ぼすことも、
娯楽から影響を与えることがあるにしても、
人は娯楽の中で自己満足に浸ることもできるわけで、
時として闘争に敗れた者の逃げ道として
娯楽が用意されていることもあるのではないか。
その娯楽が高尚なものとなると芸術や文学となり、
政治経済的な闘争に絶えず目配せをしつつも、
主な活動の場が芸術方面となれば、
実際の闘争には敗北しつつも、
とりあえず居場所は確保されるようなこととなるのかもしれず、
そのような人はその人なりのフィクションを構成し続ければ、
それで世間が認めてくれるような成り行きとなり、
政治経済的な闘争とは別の次元で自己主張が流通するのではないか。
もちろんそのような立場を手に入れるのは並大抵のことではないし、
限られた人にしかそのような居場所は用意されていないのだろうし、
それはそれで希少価値を伴った著名人として、
活躍の機会が与えられているのだろうが、
それも一つの方向性に収まらない
メディア的な多様性を支える現象と見なせばいいだろうか。
それは直接の行動や行為とは違う間接的な表現形態なのかもしれず、
その手の著名人が市民運動のデモや集会に参加して発言し、
政治経済的な闘争に直接影響を及ぼすこともあるだろうが、
職業として政治家や官僚や企業経営者やメディア関係者として、
専従している人たちほどには、
直接権力を行使する立場にはないと言えるのではないか。
それは市民運動に参加している一般の人たちにも言えることであり、
結局彼らが権力を行使できるのは、
選挙や住民投票などの時に限られ、
それも実質的には一人一票に限られているわけだ。

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創刊日:2001-03-26  
最終発行日:  
発行周期:不定期  
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