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彼の声

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彼の声 2015.10.31 「機会をとらえて」

2015/10/31

人の行為は社会の中で評価される。
人が何かをやった結果から富や名声が付いてくることもあれば、
非難や批判が付いてくることもありそうだ。
何を目指して何をやっているつもりがなくても、
結果的には何かを目指して何かやっているとみなされたり、
その目指している方向が他人と同じだと、
そこに競合関係が生じて競争となったり、
場合によってはその他人と対決する羽目になったりするだろうか。
そういう現象に興味が湧いてくれば、
そんな内容の漫画でも読めば事足りるかもしれないが、
現実の世界ではそう都合よく対決とはならないだろうし、
プロスポーツのように
それが見世物として整備されているのでもない限りは、
対決は往々にして悲惨な結果に終わるだろうか。
時と場合によって対決したり、
それを回避しようとしたりするのかもしれないが、
現実に何が奨励されているわけでもなく、
そのような現象に巻き込まれた各自の判断に任されている面が大きく、
人の思惑や意図などとは無関係に、
そういう成り行きになってしまえば、
様々な水準で人と人とが対決することなどしょっちゅうあるだろうし、
何かしら共同作業などをしていれば、
お互いの意見が合わなくて衝突することなどあって当然だろう。
それが何を意味するわけでもないのだろうが、
その一方でほどほどのところで妥協しようとすることも、
よくあるのだろうし、
そんな衝突や妥協を繰り返しながら、
そこで行われる共同作業は何らかの結果をもたらすのであり、
たとえ自分一人だけで何かをやっているつもりでも、
それが世間一般に発表する機会を持てば、
そこで何らかの評価を得て、
それを気にすることになれば、
その外部からの反応とそれに対する自身の反応との間に、
やはりある種の共同作業が生まれ、
そこから生じる行為は
その反応に対する返答となって現れるわけで、
そこでも衝突や妥協のような作用が生じているのかもしれない。
何かをやっている限りは、
そのような作用から逃れることはできず、
逃げても向こうから追いかけてくるだろうし、
追いかけてこないようなら、
それは世間からの無視となって圧力を加えてくるわけで、
些細なことでしかないのに、
それを意識すればするほど、
社会からの同調圧力に屈するか争うかのせめぎ合いの中で、
不安に駆られながら何かをやらなければならなくなって、
そうなると自分勝手にやっているなんてありえないこととなり、
それが周囲からの無視であれ嘲笑であれ、
大なり小なりそんな被害妄想に逆らいながら、
その行為を継続させようとしてしまうわけだ。
そしてそんなことを重ねていくうちに自分を見失い、
知らず知らずのうちに、
それと気づかずに同調圧力に屈しているのに、
自分ではなおも世間に逆らい争っているようなつもりで、
延々とどうでもいいようなことを
やり続ける羽目に陥ってしまうだろうか。

それがどうでもいいことがどうかは、
やっている当人にはわからず、
それに興味のない人にもわからないだろうし、
何とも判断のしようがないことを
やっている場合があるのかもしれないが、
それをやめられなければ延々とやるしかなく、
そのような無理矢理の継続が常軌を逸しているのか、
あるいは趣味の範囲内でほどほどのところでとどまっているのか、
それもやっている当人にはよくわからないところで、
それに対する周囲の反応があってもなくても、
いったんやり続ける成り行きにはまってしまうと、
外部からの反応などもどうでもよくなって、
自分の納得がいくまでやるのが筋のように思えてきて、
結局はやり続けられるうちはやっているかもしれないが、
それが世間的な富や名声と無関係である限りは、
その行為はどこまでやり続けても、
独りよがり以外の何ものでもないだろうか。
それを否定的にとらえるならそういうことになりそうだが、
結果的にそうなるしかありえないのだとすれば、
気にはなるだろうが気にしたところでどうなるわけでもなく、
やはり気が済むまでやるしかないわけで、
それがどのような結果も得られないとすれば、
どう評価する必要もなく、
肯定も否定もしないままでも構わないのかもしれず、
やっていることを正当化する必要もないだろうか。
それが趣味だというならそうだろうし、
趣味でも仕事でもなく、
無為の行為と捉えるならそういうことでもあるだろう。
なんでもなくどうでもいいようなことを、
延々とやり続けていることに肯定的でも否定的でもなく、
利害とは無関係だからそう思われてしまうのかもしれないが、
ではなんなのかと問われれば、
そんな風に問う必要のない行為となるのかもしれず、
やる理由など問わなくてもいいのだろうし、
現実にやるに際して何も問われていないのではないか。
そして何も問わないことが継続の秘訣かもしれず、
それを肯定したり否定したり、
またやっている自らを正当化したりすれば、
たちまちそれ以外の何かを求めることになりそうで、
その何かが虚しくもはかない世間的な富や名声への幻想となるのか、
あるいは自己否定的な無への境地を空想するのか、
そういうありもしない状態を思い描いてしまうと、
やはり継続などありえないように思われてくるかもしれず、
もっと何か具体性があって、
社会の役に立つようなことを語ろうとしてしまうのではないか。
それもある種の幻想で、
社会の役に立つか立たないかという基準自体が、
世間の同調圧力から出てくるような価値基準なのだろうから、
あまり真に受けるようなことでもなさそうだ。

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創刊日:2001-03-26  
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