文学

彼の声

この世界について、この社会について、この時代について、未来について、過去について、人々について、自分が日頃感じていることを率直に語る。

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彼の声 2015.10.1 「判断」

2015/10/02

何かに気づくとき、
一瞬それが勘違いかと思うのだが、
よく考えてみれば、
やはりそれでいいような気がして、
心の中で迷っていることは確かだとしても、
それを決断する成り行きに引きずられて、
気がつけばそんなことをやっているわけだ。
たぶんそれでよかったはずであり、
いまさら後悔する気にはなれないのだろう。
それが些細なことであれ、
深刻かつ重大なことであれ、
やってしまった後からそんなことに気づき、
理由もなしにそのような行為に及んだわけでもないのだろうが、
やはり後から思えば不思議に思われるのかもしれない。
人はそこで何に気づくのだろうか。
気づくより先に行動している自らに気づいているわけか。
やっていることがうまくいけば、
それで構わないのだろうが、
うまくいかなければ、
先走らずにもっと慎重に事を運べばよかったと後悔するわけか。
だが今の境遇からすれば、
それほど勘が冴えているとは思えないのではないか。
論理的に物事を考えているからうまくいくわけでもなく、
感情的な好き嫌いだけでここまでやってきたわけでもないだろう。
では何が良くて何が悪かったのか。
要するに現状では、
うまくいくはずのない機会と時間を与えられていると見なせば、
納得がいくだろうか。
一応はそうではないと思って、
何かをやってみるべきなのだろうが、
やったからといってたかが知れていて、
何か画期的なことができるわけでもなく、
これまで通りの延長上で、
その場の思いつきで、
何か新しそうなことを付け足せればいい方だろうか。
だが思いつきのほとんどはくだらないことで、
それが何に結びつくとも思えず、
ただ無駄で意味のないことを、
思いついた端から忘れてしまうようなら、
何をやってもうまくいかないのは自業自得と言えるだろうか。
そこまで症状が進行すると、
もはやうつ病の類いかもしれないが、
自覚症状があるわけではなさそうだ。
実際には何をやっているわけでもなく、
何を考えているわけでもないだろうが、
ただそんなとりとめのないことを空想しながら、
物思いにふけっているのかもしれず、
世の中のすべての成り行きが他人事のように思えてくるのだろうか。
結局いくらでも考えることはできるが、
考えているだけではらちがあかず、
暗中模索しようにも模索する対象がない状況なのかもしれず、
何か考えているつもりが結果的には何も考えられずに、
暇に任せて過去の記憶を
ひたすら反芻する日々へと追いやられそうになるが、
機会をとらえてそこから離脱して、
何か新たな考える対象に巡り会いたいのだろうか。

どうもそうではないようで、
考えるべきことはあらかじめ決まっているのではないか。
何が決まっているのかといえば、
それは興味の向く対象であり、
それはいつでも自分を取り巻く世の中にあるものかもしれず、
心の中も世の中の反映だと考えれば、
人はいつでも自らが体験しつつある世の中について
考えていることになるだろうか。
いつでもというわけでなく、
それを意識するのはたまにかもしれないが、
その際できるだけ考える手間を省きたい人も結構多いのではないか。
メディアから入ってくる情報の中で
自分の嗜好に合うものだけ取り入れて、
そうでないものは意識の外に排除する。
それで何かを考えているように錯覚しているかもしれないが、
他人の考えを自分の考えであるかのように思い込む現象は
よくあることだろうか。
それは共感や同調という意識の作用がもたらす現象かもしれないが、
ではそれ以外に何か自分独自の考え方を模索できるのかといえば、
そもそもそんなことができるわけがなく、
人は他人を真似ることしかできないのかもしれず、
真似しながら真似しやすいことと
真似られないことをより分けながら、
なるべく安易に理解できることを
取り入れようとする傾向にあるようで、
その最たるものが他人を敵と味方に分ける考え方で、
それは味方を肯定して敵を否定するという
単純明快な思考なのだろうが、
物心ついてから自分が育ってきた環境の中で、
身につけた思考の枠組みを離れるのは容易なことではなく、
いったん出来上がってしまった人格が、
そう簡単に変容することがないように、
そういう人は自分が育んできたつもりの人格の中で、
自意識が安住している場合が多く、
そこで固定化された自己から離れて
冒険するわけにはいかないのだろう。
そんな風に思っている自らを絶えず正当化する癖がついてしまえば、
その人が真似ている思考以外の考えを
受け入れることは不可能なのではないか。
そこで止まっていると
真似ている以上の何かを模索する気がなくなり、
絶えず心の中で真似ている思考の論理を繰り返し反芻し続け、
それと異なる思考を無視して、
敵対する思考を否定することだけが生きがいとなり、
中でも他人を敵と味方に分ける思考の興味の対象は、
常に敵対する思考に向かうわけだが、
それはいつしか論理的に正しいか間違っているかではなく、
愛憎の対象となっているわけで、
敵を憎んで味方を愛するという、
これまた単純明快な感情の問題となってしまうわけだが、
それ以外に何が考えられるだろうか。
敵や味方に対する愛憎を抜きにして、
ただ論理的に正しいか間違っているかを言えばいいだけだろうか。
だがその論理というのが、
正しいか間違っているかで判断できるものなのだろうか。
あるいは論理的に正しいという判断が本当に正しいのだろうか。
さらに正しいことを果たして肯定していいのだろうか。
他人を敵と味方に分けたり、
正しいか間違っているかで判断することが、
果たして万人に推奨できるやり方なのだろうか。
たぶん現実の世の中では、
人それぞれの立場やその時の状況でも、
判断が違ってくる場合がほとんどなのかもしれない。

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創刊日:2001-03-26  
最終発行日:  
発行周期:不定期  
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