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彼の声

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彼の声 2015.9.22 「絶え間ない戦い」

2015/09/22

制度が目指す理想と実情の違いは、
自然からの作用によるところが大きいかもしれない。
利益を親から子へと受け渡そうとする動物的な本能は、
議員の世襲をもたらし、
議会をコントロールするには自分たちの身内から議員を出せばいい、
という動物的な縄張り意識が、
元官僚の議員を生み出すわけで、
各種団体が国から利益を引き出そうとして、
自分たちの組織から議員を出そうとして、
組織票を駆使するのも、
そんな作用のうちなのだろう。
その方が都合がいいからそうなるわけで、
人はなかなか都合の悪くなるようなことはしようとしない。
人にとって都合が悪くなるようなことが、
制度が目指す理想なのかもしれない。
では都合の悪い理想とは具体的にどういうことなのか。
それは個人の自由と平等かもしれない。
個人が自由になってしまうと組織を維持できないし、
平等になってしまうと、
人が人の上に立って、
優越感に浸ることができなくなるから、
人は組織に組み込まれて自由を奪われ、
組織内の身分の上下関係によって、
上の者が下の者を見下して、
相対的な優越感に浸れるわけで、
下の者は上の階級にのし上がろうとして、
組織のために身を粉にして働くことによって、
組織に利益がもたらされる。
そんな原理が組織を維持継続させて、
栄枯盛衰を繰り返しているのだとすれば、
今後とも個人の自由と平等は、
それらの自然からの作用によって制限を受け続けていくだろうか。
たぶんそれだけでは社会を維持できないから、
建前として個人の自由と平等は尊重されているのかもしれない。
人は誰でも平等に職業選択の自由があり、
思想信条の自由もあるわけだが、
それは建前で、
実際にはなんらかの競争に勝ち上がらないと、
望む職業には就けないし、
組織に所属すれば、
その組織にとって有害と思われる思想信条は拒絶される。
そして地縁や血縁によって利益が独占されることもあり、
よそ者は排除されるか、
下僕に甘んじるか、
そんな扱いを受けることもあるのかもしれない。
それらは全て民主主義に反する行為だろうか。
ある程度は法律で制限され、
またある程度は容認されているのかもしれず、
そしてその容認されている範囲が、
法律の形骸化とともに次第に拡大する傾向にあるわけか。
どこかで歯止めをかけなければならないかもしれないが、
日本の場合はもはや歯止めがかからなくなりつつあるのだろうか。
歯止めをかけるには人々に啓蒙して、
組織や地縁や血縁の利害だけで動いていては、
個人の自由と平等が損なわれ、
社会全体に不自由と不平等がはびこることを、
説いて回らなければならないかもしれないが、
いったい誰がその役割を担うべきなのだろうか。
それはマスメディア上で発言力のある
著名人や評論家やジャーナリストなどだろうか。
だが彼ら自身が、
今や積極的に組織や地縁や血縁の利害で動いている状況では、
もはや歯止めをかけるどころではないだろうか。

しかし自然からの作用は
それらの利己的な動物の本能だけなのだろうか。
直接の天変地異はあるわけだが、
それ以外で人が社会を構成する上で必要な作用とはなんだろう。
組織と組織の間で発生する利害関係から、
競争や抗争や連携や協力が行われた結果として
社会が構成されているわけで、
人にとって理想的な社会を構築するために、
様々な法律や仕組みが編み出されたのではなく、
その地域にひしめいている各組織間の利害調整の結果として、
暫定的な措置として法律や仕組みが機能しているに過ぎず、
組織間の力関係の変動に伴って、
それらの法律や仕組みはいつでも変更可能なのであって、
もとから恒久不変の法律や仕組みが
社会に備わっているわけではないのではないか。
そして組織からあぶれた個人も
一応は社会の中で生きているわけだが、
組織となんらかのつながりを持っていないと
生きられないことは確かで、
比較的つながりの薄い人が自由を謳歌しているかといえば、
それは自由ではあるが力のない存在で、
孤独な世捨て人の類いになってしまい、
世間から相手にされていないかもしれない。
そうなると結局は社会の制度や仕組みを変えるには、
なんらかの組織の力を借りるしかなく、
ただ理想論を唱えているだけでは無視されるしかない。
そうなると力を借りる組織の利害が反映した
制度や仕組みになるしかなく、
個人の自由や平等とは無縁のものとなるしかないだろうか。
その組織が自由や平等を重んじるだけの度量があれば、
話は別かもしれないが、
それは組織自体の性質とは相容れない概念だから、
建前としてのお題目程度のものとなるかもしれず、
そうなると真の自由と平等は絵空事でしかないだろうか。
それとも地位と名誉と財産を手に入れた者にしか享受できない
贅沢品なのだろうか。
そうではなくどんな立場の人でも、
ある程度は自由で平等であり、
またある程度は不自由で不平等なのであり、
例えば組織の意向に縛られて不自由だと感じれば、
何かのきっかけで、
嫌気がさしてその組織から抜け出してしまうかもしれず、
そうなると今までより自由を実感できるだろうし、
またある場面では不平等だと感じるとしても、
別の場面では平等に扱われているかもしれず、
例えばもらっている給料の額は確かに違うが、
それが仕事量や営業成績に比例していれば
平等に感じる場合もあるだろう。
そういう次元で捉えると、
自由も平等も相対的なものでしかなくなり、
何かうまく丸め込まれたような気になってしまうわけだが、
社会には何か絶対的な尺度や価値観というものがあるだろうか。
全ては他と比較される相対的な価値観でしかないとしたら、
とりあえず理不尽な扱いを受けたり体験をしたら、
抗議するしかないのかもしれず、
そんなことをやっている組織や団体と闘うしかないのだろう。
結局社会の中では個人でも組織でも、
絶え間ない戦争状態にあるのかもしれず、
それが言葉だけのものか武器を用いた戦いかは、
その時々の状況によって変わってくるのだろう。

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創刊日:2001-03-26  
最終発行日:  
発行周期:不定期  
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