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彼の声

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彼の声 2015.8.22 「事の善悪」

2015/08/23

本当のところは誰にもよくわからないようだが、
とりあえず人と人は敵対的な関係にあり、
対立することで他人とは違う自己の存在を認識するらしい。
そういうレベルではそうかもしれないが、
実際には他人と協調したり連携したりして、
自分一人では成し遂げられないことを
集団で成し遂げようとする傾向にあるのだろう。
多くの人たちが協調し連携することで一つの勢力となるわけだが、
なぜそうするかといえば、
それは他にも勢力があって、
その勢力と敵対関係にあったりするから、
敵対している勢力に勝つために、
そのような協調や連携が必要であったりするわけで、
結局人と人との関係と同じように、
勢力同士も敵対関係にあったりするわけだ。
例えば世の中から敵対する勢力がなくなることはあり得ないのだろうか。
現状では世界中に無数の勢力が混在しているわけだから、
敵対する勢力をなくすという話は現実的ではないのだろう。
要するに敵対する勢力が常に存在している前提で話をしないと、
話にリアリティがなくなってしまうわけだ。
というか具体的にどのような勢力と勢力が敵対関係にあり、
どんな争点で敵対しているのかを語らないと、
意味のない抽象的な話となってしまうだろう。
ではいったい何と何とがどんな争点で対立しているのか。
そして対立していること自体の何が問題となっているのか。
対立しているつもりの当事者たちにとっては、
お互いを対立させている争点が問題となっているわけだが、
果たして対立している一方が善ならもう一方は悪なのだろうか。
対立している当事者たちからすればそのような論理が成り立つわけだ。
互いに自分たちの勢力が善で
敵対している勢力が悪だと断じたりしているわけか。
それは対立している争点にもより、
スポーツの試合などになると善悪の判断は無くなり、
対立しているどちらが善でも悪でもなくなるわけだが、
戦争のように領土や人の生死などが絡んでくると、
宗教的な聖戦のように
善と悪との二元論的な戦いの様相を帯びてくるだろうか。
要するに対立の種類や程度によって、
直接の利害関係だけではなく、
敵対している相手への妬みや憎しみの感情なども作用して、
自分たちが善で相手が悪とみなすようになるわけか。
だが感情だけで善悪を説明できるだろうか。
例えば自分たちのやっていることが合理的で
相手のやっていることが不合理だと考えるなら、
合理的な行為が善で不合理な行いが悪とすることで、
善と悪との客観的かつ公平な判断が可能となるだろうか。
でもそうなると何が合理的で何が不合理なのかの
価値基準が問題となってきて、
敵対する勢力同士で信奉する価値基準が違えば、
話がかみ合わなくなってしまうだろう。
要するにお互いの主義主張の違いから敵対しているとすれば、
そもそもその主義主張を正当化する価値基準が違うのだから、
当事者たちは自分の側の主義主張が正しく善で、
相手側の主義主張が間違っていて悪だと思うしかないわけか。

戦争だと勝った側が善で、
負けた側が勝った側から悪だとみなされがちになるようだが、
それとは別に人道的な見地から、
植民地的な侵略行為によって、
虐殺されたり土地を奪われたり奴隷として売られた先住民たちが善で、
侵略者や侵略国が悪だという価値観もあるわけで、
物事を善悪で判断してしまうと、
途端に対立する当事者たちの都合で、
事の善悪がコロコロ変わってしまい、
善悪を判断する基準そのものが信用のおけないものとなり、
人のやっている行為を
一概に善と見なしたり悪と見なしたりするのは、
そのように判断すること自体が独善的になりがちになりはしないか。
誰もが悪い行為だと容易に判断できる人殺しでさえ、
殺す時に心神喪失状態であったと証明されたら、
罪に問われないわけだから、
人殺しを悪と見なして当事者を糾弾するのは仕方のないことで、
法律に違反するのは悪だと見なせば済んでしまうことなのだろうが、
それを悪と見なさずに、
その手前で単に法律違反と見なしておけば、
事の善悪を感情で判断するのを避けられるかもしれない。
通常の平和な世の中であれば、
人殺しがやってはいけない行為であることは当然なのだろうが、
人と人とが敵対関係にあり、
人と人とが協力しあって生じる
思想や宗教や政治や経済などに関係する勢力同士も
敵対関係にあるわけだから、
敵対しあっている者同士が、
何かのきっかけで暴力を行使するようなことが起これば、
殺傷沙汰にまで発展してしまう可能性もあり、
当人がいくら日頃から人殺しが悪いことだと思っていても、
殺してしまう可能性は十分にあるわけだ。
人としてやっていいこととやってはいけないことは、
社会に住んでいる限りは
自然と身についてしまうものなのかもしれないが、
たとえやってはいけないことをやった人がいるとしても、
それを悪だと断じてその行為を糾弾する必要はなく、
法律に違反していればなんらかの処分が下されるわけだから、
それは司法関係の方面にまかせておけばいいことかもしれいが、
なんらかの社会的な制度上の権限を担った立場の人が、
その権限を利用して
やってはいけないことをやっているように考えられる場合は、
誰かがそれを糾弾しなければならなくなるのだろうし、
実際に国会に提出された法案が憲法違反だと見なされて、
多くの人たちが抗議のデモや反対集会を開く事態となっているわけだ。
それらに参加している大多数の人たちは、
国会で法案を通そうとしている政治勢力や
そこに属している人たちを悪と断じて、
非難し糾弾しているのだろうが、
それらの人たちは立場上そうするしかないだろう。
ただそれが事の善悪に関する判断である限りにおいて、
それらの人たちに敵対する勢力側にいて法案に賛成する人たちは、
自分たちのほうが善だと思っているわけで、
抗議デモや反対集会に参加している人たちこそが
悪だと見なしていたりするわけだ。
そして両者の間では価値基準が違うから、
今後とも論争することはあっても和解することなどありえないし、
そのような敵対的な対立がエスカレートすれば、
世の中が平和ではなくなるかもしれない。
本物の戦争とまではいかないにしても、
せいぜいが選挙戦程度で済めば儲け物だろうか。

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創刊日:2001-03-26  
最終発行日:  
発行周期:不定期  
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