文学

彼の声

この世界について、この社会について、この時代について、未来について、過去について、人々について、自分が日頃感じていることを率直に語る。

全て表示する >

彼の声 2015.8.5 「信仰の対象」

2015/08/05

信仰とはなんだろう。
神仏以外でも信仰心があるとすれば、
人々は何を信じているのか。
通常は信じていることを自覚できないようなものを
信じているのかもしれず、
それが何かの機会に信じていることが明らかとなるのだろうか。
何を信じているとしても、
その信じている対象に裏切られたら信じることをやめるだろうか。
それはわからない。
裏切られたと感じることがないのかもしれず、
信仰とは信じることでどのような境遇になろうとも、
信じることをやめないのが信仰の強みだろうか。
宗教の強みというか詐欺的な合理化というか、
その最たるものは、
信じることで弾圧されて非業の死を遂げようとも、
殺されることで天国へ召されると言いくるめられることで、
それを信じることで命知らずの伝道師や戦士を生み出し、
それが布教に一役買っているのかもしれないが、
宗教を国家と置き換えると、
国家のために命を犠牲にすれば英霊として讃えられる、
という詐欺的な合理化を
現代の国民はどれほど信じることができるだろうか。
もちろん信じている人たちはそれが詐欺だなんて思わないのであり、
そんなことを言えば
逆に罰当たりだと非難されてしまうかもしれない。
そういう意味でたぶん信仰は命よりも大切なのであり、
何よりも優先されるべき対象なのだろう。
人が命がけの思いで何かをやろうとするとき、
それと自覚せずに信仰の世界に踏み込んでいるのではないか。
自爆テロもそんな信仰心がないとできないことだろうし、
極端なことをやろうとする人たちには
その人なりの信仰心のごときものが、
それを意識するしないに関わらず
心の中に芽生えているのかもしれない。
しかし命がけの行為というものが社会の中で行われる状況は、
果たしてまともな状態と言えるだろうか。
それが通常の平和な状態ではなく、
戦争などの非常時であるなら、
そういうことをやるのが当然ということになりそうだが、
信仰心とは世の中の状況から生まれるものなのかもしれず、
たぶん社会の中で暮らしている人たちの間で
言い知れぬ不安感などが蔓延し始めると、
その不安を鎮めるために何かにすがろうとして、
そのすがる対象が信仰の対象となるのだろうが、
他の大勢の人たちもそれを信仰し始めると、
多くの人たちと気持ちが一つになったような気がして、
それが安心感をもたらすのだろうか。
そして信仰を同じにする人たちがお互いに助け合うことで、
一つの共同体のような組織が生まれると、
そこに属している人たちは組織に守られてさらに安心するだろうし、
ギブアンドテイクで逆に組織のために働こうとするだろう。
そして場合によっては
組織を守るために命を投げ出しても構わないとさえ思うようになるわけか。

その信仰の対象が国家となると、
ちょっと厄介だろうか。
国家を担っているつもりの官僚機構の官僚たちや、
政権を担当しているつもりの政党や政治家たちからすれば、
国民が信仰の対象として国家を崇め奉るようになれば、
これほど楽なことはないだろうか。
楽というのではなく、
戦争や経済恐慌などによって国家が非常事態になったときに、
政治的な独裁体制となれば、
自然と国民も国家に対する信仰を深めざるを得なくなるのだろうか。
過去の事例からすればそうなった時期もあったかもしれないが、
それは現状でも起こりうることだろうか。
たぶん過去にそう見なされるような時期があったとしても、
どうも国民全体が国家を信仰していたというのは、
ちょっと違うのかもしれず、
要するに浅はかな人たちは熱狂的にそうしていたかもしれないが、
分別のつく人たちは信仰のカラクリを冷静に理解していて、
状況に応じて形だけは国家に従うふりをしつつも、
心の中は冷めていて、
本心では馬鹿げたことをやっていると見ていたのかもしれない。
そして現状では過去にそういうことがあって、
そういうことをやった結果としてどうなったかを知っているわけだから、
また同じことをやろうとしても、
果たしてそれに従う人がどれほどいるだろうか。
今のところは冗談の域を出ないような話でしかないが、
英霊を祀る靖国神社などに出向く人たちの中には、
まだ命を投げ出して国家を守る気概のある人とかがいるのかもしれず、
果たしてそういう人たちに国家が報いているのかどうか、
信仰から遠ざかっている人たちには
疑問を抱かざるを得ないところかもしれないが、
命を投げ出そうとする人にとっては、
そんなことはどうでもいいのかもしれず、
ただ国家に忠誠を尽くしているつもりになることで
生きがいを感じているのだろうし、
それで十分国家がその人に報いていることになるのだろう。
ではそれ以外の人たちにとって国家とはどのような存在なのか。
軽く考えるとすれば
行政サービスを担う機関とみなすぐらいが無難なところだが、
それ以上深く踏み込むのは危険で鬱陶しいのかもしれず、
下手に国家を肯定的に理解すると、
ミイラ採りがミイラになるかのごとくに国家の虜となり、
保守派の政治家の支持者かその手の政治家自身となって、
国家を盛り立てるために活躍しているつもりになるのかもしれず、
意識するしないに関わらず、
すでにその時点で国家を
信仰の対象と見なしていることになるのだろうか。
実態としては国家を利用して
自己顕示欲を満たそうとしているに過ぎないのかもしれないが、
それはその手の宗教指導者が陥りがちな精神的な態度であり、
部外者から見れば私利私欲としか映らないのだが、
当人は国家のために命がけで働いている気でいたりするわけで、
信仰に囚われた人が
そういう公私混同を自覚するのは難しいことかもしれない。

規約に同意してこのメルマガに登録/解除する

メルマガ情報

創刊日:2001-03-26  
最終発行日:  
発行周期:不定期  
Score!: - 点   

コメント一覧コメントを書く

この記事にコメントを書く

上の画像で表示されている文字を半角英数で入力してください。

※コメントの内容はこのページに公開されます。発行者さんだけが閲覧できるものではありません。 コメントの投稿時は投稿者規約への同意が必要です。

  • コメントはありません。