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彼の声

この世界について、この社会について、この時代について、未来について、過去について、人々について、自分が日頃感じていることを率直に語る。

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彼の声 2015.6.10 「制度の支え」

2015/06/10

策に溺れているわけではないだろう。
何が策なのでもないらしい。
ではそれらの成り行きはなんなのだろうか。
単なる通常の成り行きか。
ではその成り行きとは具体的にどんな成り行きなのか。
気象現象が起こっているだけか。
あるいは天変地異でも起こっているのだろうか。
どちらの現象も実際に起こってから
その原因がわかるのかもしれないが、
事前にそれを予測してそれに備えておくことも必要だろうか。
しかし何をどう備えておけばいいのかわからない。
いったいこれから何が起こるというのだろう。
起こればわかるだろうが、
起こってからではもう遅いか。
実際にとりたてて何に備えているわけではない。
誰が何に備えればいいのかもわからないのだから無理もない。
いちいちそれらの予言を真に受けるのも面倒なら、
その何かが起こるまで待っていればいいわけか。
いくら待っても何も起こらなければ忘れてしまいそうだが、
天災は忘れたころにやってくるものだろうから、
待ちくたびれたら、
忘れてしまっても構わないのではないか。
いつ起こるかわらない天災を当てにするわけにはいかないだろうか。
では来たるべき天災を想定して
策を弄しているわけでもないのだろうが、
その策とはなんだろう。
人を使い捨てにする策略なら、
すでに自然発生的に社会の隅々にまで張り巡らされているはずだが、
人々それに進んではまり、
喜んで使い捨てにされようとしているのではないか。
誰が使い捨てにされることを喜んでいるというのか。
たぶんそれらの成り行きが
自身が使い捨てにされる過程だということを感じ取れないわけだ。
そして別に策に溺れているわけでもないのに、
何かしら策略を練りつつそれを実行に移したわけだが、
どうも何かがおかしいという気がするものの、
まだその時点ではそれが
自己崩壊を招く結果をもたらすとは思いもしないだろう。
やはりそれが起こってからでないとわからないわけで、
事前に思っても見なかったことを予測するなんて
できっこないのかもしれない。
では何が自己崩壊を招くというのだろう。
策に溺れているということなのか。
しかし何が策なのでもない。
結局何が策なのかわからないまま、
それらの成り行きからもたらされた策に溺れて
自己崩壊してしまうということなのか。
では誰が自己崩壊するというのか。
それも何かが起こってみないことにはわからないのか。
ならばいったい何についてここまで述べてきたつもりなのか。

何かが成し遂げられるためには誰かの犠牲が必要だということか。
そして自分たちがその犠牲となることに、
気づかせないようにしなければならないということか。
実際に気づいていないのだから、
別に気づかせないようにする必要はないのではないか。
彼らはそれが犠牲だとは思いもしないだろう。
たぶんそのような結果がもたらされた後でもそうは思わず、
むしろそんな結果がもたらされたことを喜ぶはずだ。
だからまだそうなる以前に
あまり犠牲だなんだのと騒ぎ立てないほうが、
事がスムーズに運ぶ可能性が高い。
だからまだこれから何が起こるか表立って言わないほうがいいわけで、
起こるまでは黙っていたほうがいいのかもしれない。
だが黙るも何も、
本当に何が起こるかわからないのだから、
下手に思わせぶるよりは何も言わなくて当然だろう。
それが正直な対応であり、
起こることに対する備えなのではないか。
そして弄するべき策など何もなく、
何が策ともなり得ないのかもしれず、
ただ黙ってそれらの成り行きを眺めていればいいのかもしれない。
多くの人たちが使い捨てにされる光景を
無表情で眺めていればいいわけか。
しかしなぜそこで使い捨てにされてしまうのだろうか。
そこに至るまでの成り行きがそれらの人たちを必要としていて、
いったんそこに至ってしまえば、
もうそれらの人たちには用がないということだろうか。
成り行きの過程では活躍の場が与えられているのに、
それが過ぎてしまえば、
彼らには居場所がなくなってしまうのかもしれず、
後は昔ながらの人たちがメディア上で主導権を握って、
結果を自分たちの価値観や主張に引き寄せながら語り、
それが自分たちの手柄であるかのように喧伝し始めるだろうか。
まだそうなるかどうかはわからない。
それにそれらの成り行きがそのような結果に至らず、
実を結ばなければ、
それらの人々の使い捨ても起こらないのではないか。
まだぬか喜びする段階でもないし、
これからさらに一悶着起きて、
何やらわけのわからない結果をもたらすとも限らず、
これまでもそうだったように、
必ず人々の期待を裏切るような結果に至るような気がするのだが、
今さらそれをもったいぶって予言してみてもくだらない。
ともかくそれにのめり込むのはヤバそうで、
利いた風な批判をするのもほどほどにしておいたほうがよさそうだ。
それらは制度の中での攻防に過ぎず、
双方ともに制度からはみ出て何を主張しているのでもなく、
制度を根本的に変えようとしているのではなく、
批判されている側が自分たちの都合のいいように、
制度を作り変えようとしているにしても、
それは制度の枠内で制度そのものを強化しようとしているだけだ。

とりあえずどちらの主張が勝つにしても、
それらは制度が形骸化するような方向を
目指しているわけではなさそうだ。
要するにどちらもそれらの成り行きに逆行しているか、
あるいは抵抗しているのであり、
そうなってしまうのを食い止めようとして、
賛成か反対かの二項対立を演じているわけだ。
もちろんそれを偽りの二項対立などと捉えてはまずいし、
彼らには彼らなりのちゃんとした言い分があるわけだから、
そういう水準ではそれらの運動を肯定しておくべきなのだろう。
そしてそれは制度から導き出された主張であり、
制度内では有効に機能しうるのではないか。
もちろんそれらの成り行きによって
制度そのものが形骸化してくれば、
そんな主張などどうでもよくなってくるだろうが、
この段階で否定したり嘲笑したりしてはまずいのであり、
それをやってしまっては反動的な振る舞いと受け取られ、
かえって保守派と同類だとみなされ、
制度の維持に貢献してしまうだろう。
その辺が微妙なところかもしれないが、
うまく手抜きをしながら、
成り行きを進行させるように振る舞う必要がありそうだが、
とりあえずはそれらの成り行きの犠牲となり、
使い捨てにされる側の人たちの中に身を置いておくべきかもしれない。
それが無難な選択だろうが、
たぶんそれらの現象が進行していく過程で、
自然とそこから逸脱していくにまかせるような事態となるのではないか。
自分の意志ではなく自然の意志に身をまかせるべきなのだろう。
そんなわけでやがて別れる時がやってきそうな予感がするのだが、
この先何かをやる機会が到来しなくても構わないのであり、
他の誰かが主導的な立場を占めるにしても、
それらの成り行きを食い止めようとするのではなく、
成り行きに身をまかせながら行動することになるのではないか。
従うしかない成り行きに身をまかせるしかない時が
誰の身にもやってくるのかもしれず、
今政権を握っている勢力に属している人たちも、
そうなっている最中なのであって、
そのような成り行きに逆らえないから、
無様な醜態をメディアを通して人々の前に晒しているのだろうが、
それをやめる選択肢がないわけだから、
ごり押ししてでもやり遂げようとしているわけで、
彼らは彼らで誰が仕掛けたわけでもない罠にはまっているわけだ。
そして彼らは彼らで用済みになるまではやり続けるだろうが、
後世の評価が決して肯定されるような業績とはならないことは、
もはや火を見るよりも明らかだろうか。
いくら必死になってやっても、
誰からも否定されるようなことをやっているわけだから、
彼らは彼らでつらい立場に追い込まれているのだろう。
でも彼らを非難している人たちも、
一見かっこいいことを言っているのだが、
その彼らを支えているはずの制度自体が形骸化してしまえば、
制度とともに雲散霧消してしまうような存在でしかない。

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創刊日:2001-03-26  
最終発行日:  
発行周期:不定期  
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