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彼の声 2015.5.31 「民主主義という制度」

2015/05/31

批判する相手を敵と見なすことが、
批判対象への理解を妨げているのだろうか。
しかし批判しているのだから理解しようとしているのではないか。
たぶんその対象の素性を理解したつもりになっているはずだ。
そう理解した上で相手を敵と見なしているわけだ。
つまり相手が敵だと理解したわけだ。
しかし敵とはなんなのか。
攻撃しようとする相手だろうか。
実際に批判することで攻撃しているつもりなのではないか。
批判が攻撃と結びついているとすればその通りだろうか。
だが敵でもない相手を批判する場合と
敵を批判する場合はどう違うのか。
その場合批判の仕方を相手によって使い分けることが可能だろうか。
では批判には相手が敵である場合とそうではない場合とで、
二種類の批判があると言えるだろうか。
その辺が微妙なところかもしれないが、
どうも批判と攻撃とは別の動作ではないだろうか。
攻撃のように
相手を打ち負かすために批判であってはならないのではないか。
攻撃によって相手を打ち負かした場合、
打ち負かされた相手はその後どうなってしまうのだろうか。
死ねばそれまでかもしれないが、
死ななければ復讐の機会を狙って、
今度は相手の方から攻撃してくる恐れがあるだろう。
そのような復讐を避けるには、
相手を殺すか殺さないまでも二度と襲ってこないように、
完膚なきまでに打ちのめさなければならなくなる。
要するにそれは知性とは無縁の暴力であり、
そのような批判があるとしても、
知性を駆使して合理的な答えを探る批判とは言えないだろう。
たぶん相手を罵倒することと批判することは違う。
相手が罵倒してきたとしても、
こちらも同じような罵倒を返せば批判ではなくなってしまう。
だから一方的な罵倒の相手をするのはやめた方がよさそうだ。
攻撃とか復讐とか罵倒とか、
相手をやっつけようとすることと批判とは違うのではないか。
だから批判は万能ではなく、
批判することで相手をやっつける必要もないだろう。
批判することで相手の言い分とは違う可能性を指摘できれば、
それでかまわないのではないか。
相手がそれを無視したければそれでかまわないだろうし、
相手にしないような態度に終始していれば、
下手にこちらから攻撃するような事態ともならないだろう。
批判とはその程度のことなのではないか。
そしてその程度のことである限り、
攻撃と批判を結びつける必要がないのであり、
平和な状態を保っていられるのかもしれない。
だが一方で感情は常にそれ以上を求めていて、
相手をやり込めないと気が済まないわけで、
相手に参ったと言わせたいわけだが、
そんな感情に従う必要はないわけで、
気が済まないままに放っておくしかないようだ。
その一線を越えてしまうと、
一方的な罵倒しまくり状態となって、
常軌を逸してしまうのかもしれない。

ともかく批判によって相手を打ち倒すことはできない。
その程度の自覚は持っておいた方がいいだろうか。
相手を打ち倒すための批判ではなく、
真理を探究するために批判しなければならないわけか。
そこで何か道理を見つけられると信じれば、
そう考えておいて構わないのではないか。
もちろん道理など見つけられなくても構わないし、
真理の発見に至らなくてもいいわけで、
相手の主張とは違う主張も可能であることを示そうとすればいい。
相手の主張が間違っているのではなく、
そのような主張に至る過程を説明できればいい。
どのようにしてそういう主張をすることになったのか、
その経緯を探ろうとすればいい。
そこには様々な人や団体の思惑や動作が絡み合っていて、
その結果としてそのような主張が出力されてくる。
それを説明しようとすればいいわけだ。
それが批判となるだろう。
とりあえずそのように説明を試みなければならない。
そのためにあれこれ調べたり考えているわけだ。
そしてそんな行為を正当化しようとしなければいいのではないか。
ただそこに疑問や疑念が生じているから、
それについて思考を働かせる成り行きになっているのであって、
何かそこに自らの行為の正当性などを
付け加える必要はないのではないか。
何かおかしいと思うから考えているだけで、
何がおかしいのか、
どのようにしてそうなっているのかを説明しようとしているだけで、
相手をやりこめようとしたり攻撃する意図などなく、
対象となる行為や主張が
特定の誰によるものなのかを問題にしてみても、
その誰かに非があるからそうなってしまうとしても、
別にその誰かを攻撃しなくても、
その非を認めさせなくても構わないのではないか。
それが政治なら選挙で判断すればいいし、
犯罪なら裁判で判断すればいいことだ。
だが本当にそれでいいのだろうか。
相手を辞任に追い込んだり
有罪に追い込んだりしなくても構わないのか。
そういうことをやりたい人たちはやればいいのではないか。
そういう目的があるとすれば、
攻撃的な批判をしなければならなくなるし、
実際にデモ行進や集会などでそういう批判が叫ばれているだろうし、
メディアなどに登場する各種の論客も
そういう批判を繰り返しているのではないか。
そしてネット上でもその手の批判が大勢を占めているわけか。
たぶんそれでかまわないはずだ。
そうすることで自らの存在と主張を正当化したいのだから、
そうなって当然の成り行きだ。
そしてそのような現状が良いか悪いかなんて判断しようがないのだが、
たぶん民主主義の制度がそこに反映されているのだろう。
自らの主張に他人の同意を取り付けたくて、
そのような批判を繰り返しているのであって、
そうやってできるだけ多くの人たちの同意を取り付けて、
多数派を構成したいわけだ。
つまり批判者はそれと気づかずに多数決の原理に従っているわけで、
多数の力で批判の対象をやりこめたいわけだ。
これだけ多くの人たちがお前の行為を批判している、
だからお前はやめなければならない、
と主張したいわけだ。
それは真理の探究とは別の思惑が働いていて、
多数派の考えが正しいという論理がそこに含まれている。
そういう論理が良いか悪いかは判断しないが、
少なくともそのような行為を正当化する民主主義という制度が
人々の心を支配していることは確かなようだ。

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創刊日:2001-03-26  
最終発行日:  
発行周期:不定期  
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