文学

彼の声

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彼の声 2015.4.28 「とりとめのない行為」

2015/04/29

別に瞑想の最中であるわけがない。
意識が今どこにいるのかわからないのだが、
その場で教訓を受け取る必要があるだろうか。
いったい誰から戒めの言葉を受け取れるのか。
導き出そうとしているのは教訓ではなさそうに思われる。
では何をもたらせるというのか。
ただ言葉を記して何かを表そうとしている。
記している時点ではその内容がわからないのだが、
言葉を組み合わせて何かを構成しようとしていることは確からしく、
それが文章としてまともな内容を伴えばしめたものか。
そううまく事が運ぶとは思えないか。
現時点ではそれでかまわない。
だがそれでは気が済まなくなるのであり、
どの時点でもかまわないから、
その内容を知りたくなり、
文章の全容を把握できるような成り行きに持っていきたい。
でもまだ記されてもいない箇所など把握できるわけもなく、
結局その場で記された前後の内容から、
その全容を想像してみるしかなく、
それがまとまった内容とはなり得ないことは確かで、
おぼろげでとりとめがなく、
何か特定のわかりやすい主張やイデオロギーに結びつくとも思えず、
なんだかわからないようなことを
延々と繰り返し述べているだけのような気がしてきて、
まるで空気をつかむような気分となり、
途方に暮れてしまうわけだが、
それでも少しは前進していると言えるだろうか。
どこへ向かって前進しているのかもわからない。
もしかしたら前進しているのではなく、
言葉を記すほど後退しているのかもしれず、
何が後退しているのかもわからないのだろうから、
それも根拠などないわけで、
たぶん後退はしていないような気はする。
時間が未来へと向かって進んでいるのと同じように、
記述も未来へと向かって前進しているのだろう。
そして言葉を記しているつもりの意識は、
絶えずその途中にいると思っているのであり、
未来が永遠に続いているわけでもなく、
いつかは終わりの時が訪れるのだろうが、
ともかくその時までは前進し続けようと思っているわけで、
そんな意志がどこかで阻まれることは目に見えていて、
どうせ途中で挫折して
とりとめのないままで終わってしまうのだろう。
たぶんそうなってしまってもかまわないのだ。
現時点ではそれ以上を望むべくもなく、
ともかく今やっていることを
続ける以外にはやりようがないわけだ。
まともな内容などはなから求めていない。
強がりではなくそれが宿命だと思っている。
そうなるような成り行きの中で言葉を記しているのではないか。
それは疑念の余地がないように思われ、
抜け出せるような気がしない。
果たしてそれ以外のどこかに至れるだろうか。
どこかといったところで皆目見当がつかず、
あるのは今ある状況の他には何もなく、
可能性もそれを続ける可能性しかないように思われる。

そんな状況の中で考え、
何かを模索しなければならないのだろうが、
その何かがなんなのだろうか。
もしかしたらなんでもないのかもしれず、
いくらそれを探求しても何ももたらされないのではないか。
求めているのは空疎そのものなのかもしれない。
だがそれでは求める必要がないのではないか。
だから空疎を求めていると述べてはおかしいのであって、
何かもっと魅力的なものや状態に至ることを
求めていると述べたほうがいいわけだが、
どうもそうではないような気がするわけで、
かえって魅力を伴うようなものやことのほうが嘘であり、
それこそが幻想にすぎないように思われてしまうのはなぜだろう。
魅力あるように思われる事物に真の魅力があるとは思えず、
なんでもない空疎な何かに真の魅力があると思えるのだろうか。
要するに真の魅力とは空疎な魅力であり、
それが具体的な事物として意識が捉えると、
たちまちその事物のみすぼらしさが感じられて、
事物に対する幻想が色褪せてしまうわけか。
でもそんな簡単にそう断じてしまうのも嘘のように思われ、
何かもっと違ったふうに語りたくなるわけだが、
それはごまかしでしかないだろうか。
もしかしたらなんらかの事物に魅力を感じるということ自体が、
意識がもたらすごまかしなのかもしれず、
そのなんでもないような事物に
こだわりを持つように仕向けることで、
かろうじてそれが生きる動機として
意識に作用を及ぼしているのかもしれない。
でもそれで何を述べているとも
説明しているとも思えないのはなぜだろう。
その辺に何か大きな勘違いでもあるわけか。
そもそも魅力を感じるか感じないかで何をどう判断したいのか。
この世が空疎で満たされていないとするなら、
やはり何か意識に幻想を抱かせるような
事物で満たされていると考えるのが妥当だろうか。
でもそれを言葉で肯定しようとするとおかしくなりはしないか。
では意識が感知している具体的な事物の存在を
どのように捉えるべきなのか。
事物の存在でも魅力でもなく、
事物そのものを肯定すべきなのか。
今この世で現に動作している事物を
否定するわけにはいかないだろうか。
実際にそのように動作しているのだから、
それはそれで存在とか魅力を抜きにして
そのまま肯定すべきなのか。
現にそうなっている物事を否定するわけにはいかないだろうか。
否定するのではなく、
いかにしてそう動作しているのかを解明しようというのが、
たぶん一つの逃げ道なのかもしれないのだが、
それを逃げ道だと否定的に捉えるのではなく、
積極的にそのような解明行為そのものを肯定すべきなのだろうか。
でもやはりそう述べてしまうと、
どこまでいっても結論に至れないような気がする。
至る必要さえなく、
どこまでも解明し続けるべきだと主張すればいいのかもしれないが、
果たしてそれをやり続けることができるだろうか。
そんな疑念を抱きながらもやり続けなければならないわけか。

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創刊日:2001-03-26  
最終発行日:  
発行周期:不定期  
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