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彼の声

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彼の声 2015.3.30 「行為の善悪」

2015/03/30

戯言で済めば楽なのかもしれないが、
それ以上を望めば、
自ずから権力の関係を考慮せざるを得ないだろうか。
そこで何を争っているとも思えないとしても、
何かしら抵抗を感じているはずだ。
だがそんなところから何を述べても無駄だろうか。
そうなるのを前提として話を進めなければならないわけか。
理にかなったことをやればすべて納得しないまでも、
ある程度は物事を進めていけるだろうか。
自分が正しいことをやっているように見せかけたいし、
そう主張したいのだろう。
その反対に誰もが間違っていると思うことを
やるわけにはいかないだろう。
しかし理にかなった正しいやり方とは何か。
そう問う限りは正解を求めているわけだ。
それは世の中の常識に照らし合わせても正しいことなのか。
何かしら自分を利する結果を求めているのではないか。
そうなることを望んでいる。
ではあえて間違ったことをやる気になる理由はなんだろう。
理にかなった正しいことというのが
苦労を伴うことなのではないか。
苦労するのが嫌なのは誰もが思うところだが、
苦労しないでうまくいくやり方などほとんどなく、
正しいことをやるには
それなりに乗り越えなければならないハードルがあり、
誰にもできるようなことでもないのかもしれない。
しかもそれをやったところで
必ずしも成功するとも限らないとしたら、
やるには勇気と忍耐とリスクを引き受ける覚悟が必要なのだろう。
それでもやらなければならないことがあるわけか。
それは人それぞれであり、
何をやるべきかも人それぞれで違うとしたら、
いったい人は何をやればいいのだろうか。
人はそれを知りたがっているのかもしれない。

人は実際に正しいと思うことをやっているのだろうか。
たとえ犯罪者でも
自分のやっている犯罪行為が正しい行いだと思うだろうか。
それとも世の中の基準に照らし合わせれば
間違っているかもしれないが、
自分の基準では正しいことだと思っていたりするのだろうか。
自分の基準でも間違っていることを
あえて行うこともありはしないか。
そしてなぜか間違ったことを
やる成り行きになってしまっていたりするわけだ。
できれば正しいことをやりたいわけだが、
間違ったことをやらざるを得ない状況に追い込まれ、
それをやらないと前に進めなかったりする。
そして結果的に窮地に陥って、
破滅する運命が待っていたりして、
ため息をつきながらも
黙ってその運命を受け入れていたりするわけか。
そしてそういう人たちは滅びの美学に救いを求めたりするわけか。
ヤクザ映画や神風特攻隊の物語などには
その手の登場人物が出てくるが、
現実の世界では救いなどありはしないだろう。
結果がすべてであるのかもしれず、
何かしら結果が出ればそれが正しい行為だとされ、
うまくいかなければ間違っているとみなされ、
正しいか間違っているかは、
実際にやってみなければわからなかったりして、
とにかくやってみないことにはなんともいえないから、
やってみてから
その行為が正しいか間違っているかを判断するしかないわけだ。
やる以前にそれを知ることはできないのかもしれず、
やる前から結果がわかっていたら、
人は正しい行為しかやらないだろう。
要するに結果が事前にわからないから、
人は正しい行為と間違った行為の
どちらかをやらざるを得ないわけだ。
人は前に進むしかない時間経過の中で生きていて、
その時点で絶えず過去にやったことを
正しいか間違っているか判断しながら、
ひたすら未来へ向かって進むしかない。

人は自らの行為が正しくなるように予測し予想する。
場合によっては占ったりもするわけだが、
予想や予測あるいは占いが当たれば、
それらに沿った行為をすれば、
それが正しい行為となるわけだから、
正しい行為をするためには正しい予想や予測や占いが欠かせない。
自らが関わっている現象や成り行きに、
何かしら法則のようなものを発見できれば、
その法則に従った予想や予測や占いができ、
そこから正しい行いを導き出せるわけだが、
そのためには理論的な模索が必要であり、
理にかなったやり方は理論や法則から導き出されるわけだ。
そのような理論や法則があり、
その理論通り法則通りのことをやれば、
それが正しいやり方となるわけだが、
そういう理論や法則が世間一般に知れわたっていれば、
そのような現象や成り行きの中では、
もはや人は正しい行いしかやらないわけだから、
人によって差異が生じないのであり、
やっていることが正しいか間違っているかの意味がなくなってしまう。
そうなるとその行為はどうでもいいこととなり、
やることの重要性も薄れ、
関心がなくなってしまうだろう。
結局行為の重要性は、
ほかの多くの人たちが間違った行為をやっている中で、
自分だけが正しい行為をやり、
それをやった結果として
利益が自分だけに入るという状況にあるのだろうし、
あえてリスクを冒してやる価値があるのは
そういう行為なのかもしれない。
人はそういうバクチ打ち的なやり方に
魅力を感じているのではないか。
理にかなったやり方で努力して、
苦労して結果を出すのが正しいやり方だとすると、
バクチ打ち的なやり方は間違った行為だろうか。
そのどちらを選ぶかは時と場合によるだろうし、
人の立場によっても違うのだろうが、
やった結果がどうなるにしろ、
とにかく人は絶えずそれをやらざるを得ない状況に
追い込まれていると言えるだろうか。

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創刊日:2001-03-26  
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