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彼の声

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彼の声 2015.3.5 「個人の意志と集団の意志」

2015/03/06

固定観念に囚われている。
そう思われてしまうのはなぜだろうか。
たぶんそこに同じような観念に囚われている人が大勢いて、
そういう人たちが世の中の大勢を占めている。
そしてそう思ってしまう自分も
固定観念に囚われているのではないか。
とらわれるような固定観念がないと、
多くの人たちが共通の話題に関して話を通じ合えない。
そんな固定観念にとらわれたり縛られたりするのも、
他人と話を通じ合うための戦略だろうか。
話を他人に合わせることで気を引き、
そこから他人の心を隙をついて、
自分の意見に同意させようとしているのだろうか。
そうやって人は他人に力を及ぼしたいわけだ。
では固定観念とはなんなのか。
多くの人たちがその観念を受け入れ、
同意を得られた観念なのだろうか。
人は多くの人たちの同意を得るために、
そんな観念を導き出したいらしい。
ならばそれは最大公約数的な観念と言えるだろうか。
最大公約数というたとえで納得するかどうかは、
人それぞれで違うかもしれないが、
そんな観念に囚われている人が多いならば、
それは最大公約数的な観念だとみなしおいて、
それほど間違ってはいないのではないか。

では多くの人たちが囚われている
その観念とは具体的になんなのだろうか。
例えばそれは民主主義という観念だろうか。
たぶん多くの人たちがこの民主主義という観念につまずき、
何か独りよがりな理想を夢想してしまっているのではないか。
確かにヨーロッパで民衆が
王侯貴族を打ち倒して国の主権を勝ち取った物語は、
なんの特権も持たない一般市民を魅了する。
日本でも江戸時代から明治維新にかけて、
まずは西洋の立憲君主制を模範として近代国家を作り上げ、
アメリカと戦争をやって敗れてから、
アメリカの指導のもとに
国民主権の国家に生まれ変わった経緯がある。
そして現状が真に国民主権を実現しているのかと問うならば、
政治的な信条や立場によって判断が分かれるところかもしれないが、
形式的あるいは法的には、
日本は国民主権が実現している国家なのだろう。
そしてたぶん人によっては、
その形式的あるいは法的にとどまらず、
実質的に国民主権を実現させたいと願っているのかもしれず、
中には真の民主主義を実現させるために、
政治的な運動をしている人たちもいるのではないか。
では彼らが信じている国民主権や民主主義という観念は、
果たして実現可能なのだろうか。

もしかしたらすでにそれは実現していて、
現状が国民主権や民主主義という観念が実現した姿なのかもしれず、
そして現状を乗り越えて、
さらなる国民主権や民主主義の理念を押し進めるのは
困難なのかもしれない。
なぜ困難かといえば、
実質的な主権は民衆とは別のところにあるからだ。
主権は企業や官僚機構や政党などの集団が握っていて、
それらの集団に属さない個人にはなんの権限もありはしないだろう。
個人はその最大公約数的な集団の意志に同調しない限り、
どのような意見も顧みられることはなく、
常に集団から無視されるしかない。
そして集団から無視されれば、
集団による多数決の前になすすべはなく、
なんの力も持ち得ない。
要するに国民主権とは集団としての国民主権であり、
民主主義も集団としての民主主義であって、
そこで個人の意志が尊重されることは皆無だ。
尊重されるとすれば、
それはいつも最大公約数としての多数意見に個人が屈し、
同調する場合に限られ、
たとえそれが個人の意志だとしても、
同時にそれは集団の意志でもあるわけだ。
そんなわけで結局、
現状では真の民主主義が実現されていないと思う人は、
自分の意志が集団としての多数意見に反映されていないからで、
自分が世の中の多数意見に同調できないから、
例えばマスメディアによる世論調査の結果に
違和感を持ったりするのではないか。

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創刊日:2001-03-26  
最終発行日:  
発行周期:不定期  
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