文学

彼の声

この世界について、この社会について、この時代について、未来について、過去について、人々について、自分が日頃感じていることを率直に語る。

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彼の声 2015.2.15 「根拠のない変化の予感」

2015/02/15

この世界の中で人は何を認識しているのか。
自分が生きていて、
他人も生きていて、
生まれたり死んだりしているらしい。
そんな当たり前の認識以外に何があるだろうか。
それがどんな認識だろうと、
今誰かが抱いている現代的な認識も、
歴史的な経緯から生じたものだろう。
それが何を肯定するものであれ、
あるいは否定するものであれ、
肯定したり否定したりする対象も、
歴史的な経緯から生まれてきたものだ。
快や不快の感情が絡まって、
それを肯定したり否定したりすることもある。
過去の不快な出来事を忘れようとしたり、
無視したりする行為もそこから生じてくる。
たとえそれが今の自らには無関係な出来事であっても、
同じ国内や地域の周辺で起こったことなら、
まるで自分が受けた仕打ちであるかのごとくに、
感情移入してしまうこともあるだろう。
たぶんそれがフィクションだとしてもそうなのではないか。
大した話の内容でもないのに、
何か大げさに考えてしまいがちだが、
それに関して様々な偏見が交じり合い、
その中の何が重要で何が取るに足らないことなどと、
判断できるような状況にはなく、
現実に何を被っているわけでもないことなのかもしれず、
ただメディアが何かを伝えていて、
それらから伝えられる情報を受け取り、
それについてああだこうだと、
言葉の上では良いか悪いか判断しているつもりでいたが、
それ以外の何を理解していたようにも感じられず、
結局差別が悪いだとか、
政治の強引なやり方がけしからんだとか、
その程度の善悪の判断から、
何やら批判していたことでしかないらしく、
思想だとか思考だとか哲学だとか、
要するにそれ以前の感情論でしかなかったのかもしれず、
そう言ってしまえばおしまいとなってしまうが、
どうも合理的な判断というのが、
よくわからなくなっているのかもしれず、
そのよくわからないまま、
事態ばかりが先へと進行し、
何かこの先とんでもない事態となるような予感を抱きながらも、
一方ではそれでも構わないような雰囲気も感じ取っていて、
例えば人の生死などどうでもいいような軽さで、
物事が執り行われていることが、
それについて何も感じないとことが
当たり前の状況となっているわけで、
どこかの紛争地帯で人が数十万人死のうが、
たぶんなんでもないことなのだという感覚が、
世界中に蔓延しているというか、
これまでもそうだったことに、
改めて気がついただけだということを、
また再確認して、
だからそれがどうしたという問いに、
どうにも答えようがなく、
そのことに別段苛立ちもせず、
平和な日々をのうのうと送っているだけで、
それで済ませてしまっているわけだ。
その何が済んでいるわけでもないのに、
それで何かが済んでしまうという感覚が、
何かおかしいように思われてしまうのだが、
現実には何もおかしいことなどなく、
戦火から遠く離れた平和な地域では、
それが当たり前の現実だということを、
改めて思い知ること自体が、
なんとなくおかしく感じられてしまうわけだ。

そんな状況の中で一体何をどう思えばいいのか、
なんてわかるわけもなく、
にわかには何も思い浮かばず、
たぶん意識の表面になんの思いも浮かんでこないのではないか。
別にそれ以外のことにかかりきりというわけでもないのだが、
忘れているわけでもないのに、
世界のどこでテロが起こっても、
関係のないことに感じられ、
実際に事件に巻き込まれなければ関係のないことなのだから、
巻き込まれたら死傷してしまうわけだが、
それでも何を身に染みて感じているわけでもなく、
感じられないのは当然のことで、
想像したところでそれはフィクションでしかなく、
たぶん自然と覚悟ができているのかもしれず、
例えばテロを防ぐにはどうしたらいいかなんて、
自分の考えることではないと思っているのだろう。
たとえ今まさに本当にテロが身近で起きようとしていて、
自らの死が間近に迫っているとしても、
もはや騒ぐ気になれなくなってしまったのではないか。
また福島の原発事故で、
もうすぐ放射線被害がはっきりしてきて、
一部ではパニックが起こると言われているのに、
実際に大勢の人が次々に死んでいて、
葬儀場が大忙しだとネット上では噂が絶えないわけだが、
やはり今のところはなんの実感も湧いてこないわけで、
事故の収束のめども未だに立っていないのに、
放射能で汚染された地下水が海に垂れ流し状態なのに、
だからどうしたとしか思えず、
つい数年前に地震や津波で数万人が死んだというのに、
時が経てばこんなものなのだと思うしかないわけだ。
メディアがいくら騒いでも、
間接的なことでしかなく、
たぶん自分がこれから放射線被害で癌にかかろうとも、
もうすでに癌になっていようとも、
やはり現状は現状のままなのだろう。
また反対派を排除しながら、
沖縄でアメリカ軍の滑走路を作っている人たちにしても、
どうせ現場の人たちは、
上からの命令で仕事で工事をしているのだろうから、
たぶん大して罪悪感など湧いてこないだろうと想像してしまい、
現地で珊瑚礁がいくら潰されようと、
何をどうすることもできない自らに
腹を立ててもどうしようもないことであり、
結局それは十数年前に長崎の諫早湾で行われた
環境破壊と同じことなのだ。
あの時から何か状況が変わったのだろうか。
一度は政権交代があって、
ダム工事などは中止となったわけだが、
数年後にはすぐに撤回されて、
今ではそのダム工事も着工されている。
たぶんダム工事が中止になろうとなるまいと、
米軍の滑走路が出来ようとどうしようと、
その現場の近くにいるわけでもないので、
なんの痛みも感じないだろうし、
ほとんど大部分の人たちはそう感じるだろう。
そういうことなのだ。
そしてそういうことなのだからといって、
それでいいわけがないと思わなければいけないわけだ。
人々が想像力を働かせて、
これではまずいと思い、
そういう状況判断を、
選挙の時に投票行動に結びつけない限りは、
結局は何も変わらないわけだ。
そういう人の善意がないと、
民主主義という政治制度はまともに機能しないのではないか。
そういう意味で、
単なる損得勘定や功利主義や事なかれ主義や政治的無関心が、
民主政治を駄目にしているといえば、
その通りなわけで、
そういうことでしかないにもかかわらず、
現実にそういうことを否定する輩が多いことが事実だし、
政治家がその手のきれいごとを言うと
非難されてしまうのだから、
こればかりはどうしようもないことなのだろう。
そしてたぶんその手の民主主義のきれいごとが
通用しなくなった以降に、
なぜかそれとは違うなんらかの可能性を期待してしまうわけで、
これはほとんど強がりなのかもしれないが、
原発事故が収束せずに放射線を浴び続けようが、
ダムが建設されたり、
米軍滑走路ができて、
自然環境が破壊されようが、
それに関してなんの心の痛みも感じなくても、
それでもこの先何かが変わる可能性に期待しているのであり、
実際に変わる予感がしている。

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創刊日:2001-03-26  
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