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彼の声

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彼の声 2015.2.12 「語る価値とその基準」

2015/02/12

何かを考える上で、
基準はいくらでもあり、
いくらでも設けられ、
だから確かな基準など何もないとも言えるのかもしれないが、
それでも基準は基準として、
それがないととりとめがなくなってしまうから、
たとえその場の思いつきであっても、
勝手に基準を設けて、
語ろうとしている内容をその基準に合わせようとすることは、
考えていることのとりとめのなさを、
なんとかある一定の方向にまとめようとしていることの表れであり、
そのある方向というのが、
そこに話を限定しようとしている基準そのものとなっているわけだ。
そうやっていったん話の方向性が定まると、
思考もその方向へと目標を定め、
たぶんそうすることによって、
その方面で何かを語ろうと試みているわけだが、
果たしてそれが、
語っている自身にとって興味深い内容となるだろうか。
それとこれとはまた違う基準と次元での話となってしまいそうだが、
とりあえずそれを語ってみないことにはわからないだろう。
そこで語りつつ考えていることが、
そのまま語っている内容に結びつくとは限らず、
自分で気づかないうちに、
それとは別のことを、
当初には思ってもみなかったことを語っているかもしれず、
たぶん結果的には様々なことについて語っているわけだ。
そしてできればそれが、
自分が初めから思い描き、
考えていたことだと思い込みたいのかもしれないが、
それでもやはり何かについて考えている以外のことを、
その思いがけない未知の何かについて語っているかもしれない。
わざと矛盾したことを語っているわけではない。
無意識の段階では、
特定の何かについて語ることに価値を見出せないのかもしれない。
だからそれと気づかずに様々なことを語ろうとして、
結果的に語っていることが、
とりとめのない内容となってしまうわけだ。
そして結局意識はそんな結果を受け入れなければならず、
その何か以外について語っているような現実の中で、
それを自らが語りたくて語ろうとしていると
思い込もうとするのであり、
それがなんらかの価値をもとに基準が設けられ、
その基準に従って語っているような気になるわけか。
だが語った結果から生じる意識の中ではそうは思わないだろうし、
そんなことはあり得ないだろうか。

結果的に生じる意識の中では、
話を簡単にしたいのだろう。
とりあえず人が何かをやる。
そしてそのやっていることが、
その基準を共有している多くの人の共感を得られれば、
その人のやっていることが世間的に認められるわけか。
もちろんそんな基準が誰とも共有されていなければ、
その人のやっていることは誰からも注目されず、
共感も得られずに、
その行為は多くの人にとって価値のないこととなってしまうだろう。
果たしてそういう説明で納得するだろうか。
もちろん君は誰を納得させようとしているのでもない。
ただそう語ってみせただけで、
他意は何もない。
ではそれをやることによって価値を得られる基準とはなんだろうか。
例えばその行為によって多額の金銭を得られたら、
それは多くの人が認める行為となるだろう。
だが結局それは経済的な価値でしかない。
しかしそれ以外の価値があるだろうか。
価値とは経済的な価値でなければ、
それが利益に結びつくことはないのではないか。
やっていることがそういう方向に収斂すれば、
話がわかりやすくなって、
誰もがそのやっていることに興味を持つだろうか。
経済的な興味とは、
それがより多く利益に結びつくか否かによって、
その価値基準が左右されてしまいそうだ。
ではそういう方向から逸脱して、
多くの人たちが興味を抱くような内容にする必要があるだろうか。
必要がなければそれは価値のないことではないのか。
例えば価値も基準もなく、
意味不明なことを延々と語ることに、
人はどこまで耐えられるだろうか。
そんなのは耐える必要のないことであり、
価値のないことに耐える必要はなく、
初めから相手にしなければいいことでしかない。
それでも結果的にそんなことを語っているとすると、
要するに人は誰からも相手にされないようなことを
語りたいのではないか。
語りたいのではなく、
結果的に語っているわけだ。
理屈を度外視して語るとはそういうことであり、
それは無価値であり、
価値がなければ語る基準など何もなく、
何について語ろうとしているのでもないようなことを、
語りによって示そうとしているのではないか。
たぶんそんなのはいくら示そうとしても何も示せないことだろう。
そこに示されているのは、
実際は誰が示そうとしているのでもない言葉の連なりであり、
その中で語られていることは、
誰にとっても無価値でとりとめのないことであるにしても、
それでも何かがそこで試されている事実に変わりはない。
わざとそうしているのではなく、
自然とそうなってしまうような試みとなっていて、
人がただそれを語っているわけだ。
語るだけではなく、
写真に撮ったり、
映像に撮ったり、
絵に描いたりもする。
またそれについて言葉を記したりしているわけだ。
それ以上の何を求める必要があるだろうか。
そこに誰の思惑も意図も介在していないならば、
話はそこで終わりだ。
たぶんそこで終わるべきなのだろうし、
終わってしまってかまわないのだろう。
それ以上は求める必要のないことを延々と語っているわけだ。
では果たして意識はそこにとどまるべきなのだろうか。
意図も思惑もないならば、
そこにとどまっていてもかまわないのだろうし、
とどまるべきでもないならば、
他のどこへもとどまれないのではないか。
そしてどこへもとどまれないまま、
どこでもないどこかでさまようこともできずに、
何かを語ろうとする意志は、
そこで雲散霧消してしまうのだろう。
では消え去るべきは
そこに介在しようとする意図や思惑なのだろうか。

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創刊日:2001-03-26  
最終発行日:  
発行周期:不定期  
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