文学

彼の声

この世界について、この社会について、この時代について、未来について、過去について、人々について、自分が日頃感じていることを率直に語る。

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彼の声 2015.2.6 「わからないこと」

2015/02/06

誰かを攻撃したければ、
その誰かに向かってたぶんこう言うだろう。
君は何もわかっていない。
具体的に何がわかっていないかまでにはあえて言及しないが、
そうやってわけ知り顔で非難するのが、
安っぽいフィクションでの脇役のありふれたセリフだろうか。
そしてわかっていないのはお前の方だと言い返されたら、
俺も何もわかっていないと返すしかないだろうか。
たぶん本心からそう思っているわけではないだろうが、
ちゃんと言い返すのが面倒くさければ、
それでかまわないのではないか。
では本当にそう思っているなら、
今こそ自身が何もわかっていないことを自覚すべきなのだろうか。
すでにその自覚があるのではないか。
そしてそれと同時に、
中にはわかっていると思うこともあり、
そのわかっているつもりのように振舞っていることが、
相手からすれば腹が立つことなのだろう。
具体的に何がわかっていないかではなく、
わかっているように装うのが非難の対象となるなら、
それはわかるわからないは問題ではなく、
要するに他人の知ったかぶりが鼻につくということか。
そしてそれがその通りだと思うなら、
むきになって反論など繰り出すのは野暮で、
相手にはその通りだと思わせておけばいいのではないか。
実際にその通りなのかもしれないが、
肝心のわかっているか否かについては、
どちらでもかまわないような態度でいるしかないようだ。
何がわからないのかわからないならそうなるしかない。
それがわかるまでは、
むやみに返答できないし、
言い争いの次元で下手に問答を重ねてしまうと、
たちまち思いがけないところから足を引っ張られて、
その程度のことに延々とわずらわされて、
うんざりしてしまうのではないか。
結局何も出てきそうもないところから何かを引き出そうとして、
要らぬ苦労を強いられる。
だが本当にそこには何もないのだろうか。
まだわざと何かを間違えているのだろうか。
それともわざとではなく、
本当に自分が何かを間違えていることに気づいていないのだろうか。
たぶん現状では間違えているか否かも、
その区別をつけようがないところで語っているような気がする。
何が正しくて何が間違っているかの境界がないのかもしれず、
それについて何をどう語ってみても間違っているように感じられ、
語っているうちにも自らの語りを信じられなくなり、
正しいと思われるようなことを、
まだ語る状況になっていない段階なのかもしれず、
結局何もわかっていないことについては無知でいるしかないようだ。
わかりようのないことには返答できないし、
無理に返答するだけの知識など持ち合わせていないらしい。
だから何もわかっていないと言われれば、
相変わらずその通りだとしか返答できそうもない。
具体的に何がわかっていないかについて指摘されても、
その返答が変わるとも思えないが、
たぶん相手に指摘する気などないことはわかっているので、
そのままわからずじまいとなってしまうのではないか。
今のところはそれでかまわないのなら、
将来においてもそのままとなってしまう可能性もあり、
そのわかっていないと思われることについては、
永遠に関わり合いのないことになってしまうのだろう。
そしてそれ以上は何を詮索することもできず、
わかる手がかりもきっかけも持ち合わせていないようだ。

できることなら屁理屈のこね合いにならないようにしたいが、
それ以前に何かを討論したりする場面にはならないのではないか。
ではただ一方的に主張を述べるにとどまってしまうのだろうか。
語るとはそういうことではないのか。
でも語ろうとして語っているのではなく、
語りたくないのに
わけのわからぬことを語らされてしまっている現状がありそうだ。
そして何を批判したいのでもないのに、
語ればその内容は何かへの批判となってしまいそうだ。
そんなはずがないのに実際にそんなことを述べているのだから、
それは述べたいこととは無関係なのだろうか。
そしてそれの何が気に入らないのでもない。
語るだけ無駄なことを語っているように思われ、
しかもその空疎から抜け出せない。
何ももたらせないのかもしない。
そうしているうちにも次第に語る範囲が狭められ、
気がつけばそれについてばかり語っている現状があり、
要するにネタ切れになってしまっているのではないか。
なぜそんなことにこだわってしまうのだろうか。
政治的な現象に心奪われ、
ネットの政府批判の言説ばかりに接しているうちに、
それに対して紋切り型的な表現でしか
対応できなくなってしまっているのだろうか。
また一方では資本主義の限界ばかりを批判の標的にしているわけで、
結局国家と資本主義のことしか語れなくなっていて、
しかもそれを乗り越える方策を思いつかず、
現状ではそれらについての思考の限界しか
提示できずにいるのではないか。
それについて安易なことは述べられないと思うことが、
かえって同じようなことしか述べられない惨状を
まねいているのかもしれないが、
やはりそれでかまわないのだろうか。
開き直るわけにはいかないが、
そちらの方面での試行錯誤を
今後とも重ねて行くしかないようだ。
なぜか近頃は世界的に
保守勢力による軍事や産業界と結びついた
ゴリ押し的なやり方ばかりが目立っているせいか、
自由主義の評判が悪い。
いったいそれらの軍産官複合体的な何が自由主義なのか。
それは完全に旧ソビエト的な全体主義なのではないか。
ソ連が崩壊して二十数年経つが、
今やアメリカや中国やロシアなどの国家の中枢を牛耳っているのは、
かつてソ連という国家を管理運営していた
軍産官複合体的な官僚機構と酷似していないか。
たぶんそれは言い過ぎで、
中国やロシアはさておき、
アメリカやEUや日本を中心とした西側先進諸国では、
曲がりなりにも議会制民主主義が機能しているはずなのだが、
今や日本ではその議会やその議員を選ぶ選挙に、
疑いの眼差しが向けられている。
民主的な選挙を経て選ばれた議員で構成されている議会が、
またその議会の多数派によって構成されている内閣が、
本当に民意を反映しているかについて、
多くの人たちが疑念を抱いているわけだ。
なぜそうなってしまったのだろうか。
制度に問題があるとすれば、
それをどうやれば改善できるだろうか。
どのような制度に変革すればいいのか。
あるいは国民の側に問題があるとすれば、
国民の意識をどうやれば変えられるのか。
どのような意識に変革すればいいのか。
さらにそういうことではないとすれば、
現状の何がおかしいのだろうか。
もしかしたらおかしいところは何もなく、
この現状は歴史的な成り行きとしては、
当然の帰結としてもたらされた現状なのではないか。
それらの点について、
どう考えればいいのかわからないのが現時点の認識だろうか。

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創刊日:2001-03-26  
最終発行日:  
発行周期:不定期  
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