文学

彼の声

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彼の声 2015.2.5 「人に対する評価基準の流動性」

2015/02/05

人の動作不良には誤作動も含まれるようだ。
わざとそんな否定的な動作を肯定して、
それでうまくごまかしたつもりになっていたのかもしれないが、
実際には何をごまかせたわけでもなかったらしく、
かえってそれらの否定的な動作の否定性が、
それらの言説の中で
鮮明に浮かび上がってきた感じがしないでもない。
仕事で人が頻繁に動作不良を起こしたり誤作動したりするのは、
その仕事とその人との相性が悪いことの証しだろうか。
その仕事を彼にまかせている側からすれば非常に困るわけだ。
仕事の種類や重要度にもよるのだろうが、
そんな人間は遠からず解雇されてしまうだろう。
仕事には目的があり、
目的を遂げるために人は仕事をしている。
人が目的に縛られているのは当然のことだ。
そしてその目的の中身が重要で、
そこにやりたいことがあるわけだ。
人はやりたいことをやるために生きている。
そういう目的だけがすべての人間には、
果たして動作不良や誤作動を起こす機会があるのだろうか。
目的を見失った時がそうなのか。
そこで目的がすべてではないと思い知るわけか。
そうやって挫折を味わうわけか。
そんな人間がどこにいるのだろうか。
フィクションの中には確実にいそうだ。
現実の世界ではどうだろう。
その目的であったりやりたいことであったりするものは、
どのような経緯から人の意識の中に浮かび上がってくるのか。
なぜそれをやりたいと思わせるのだろうか。
単なる気まぐれからいい加減に
そのやりたいことを決定してしまうわけか。
そうではなく、
そこに切実に望まれる理由があるはずだ。
願いを叶えたいのであって、
その願いが
やりたいことをやろうとすることであったりするわけか。
ではそのやりたいことはどうやってやりたいこととなるのか。
それでは循環論となってしまうだろう。
またわざと言葉を循環させている。
誰かが切実に何かを願っている状況は、
果たして肯定される状況なのだろうか。
思いが強いということは、
それだけ困難に直面しているということだろうか。
人をそのような目的に向かわせる動機がある。
それは現状に満足していないからかなのかもしれない。
なぜそう思われてしまうのだろうか。
渇きがあり何かに飢えている。
満たされていないから
思いを遂げることを切実に願うのだろう。
物語の中ではそこに不幸な生い立ちがあり、
疎外感があり、
周囲に自らの存在を認めてくれない無理解があるわけだ。
そしてそこから富や栄光を求めて闘争が開始され、
サクセスストーリーが語られ、
そこで直面する障害としての挫折や虚無感を乗り越えた果てに、
愛をつかんだりつかめなかったりすれば、
人はそんな物語に感動するわけか。
できればそれが絵空事の幻想ではなく、
実感を伴った現実として体験したいわけだ。
そこに目的があり仕事がありうる。
そう思いたい人は
人知れずそこで成功する野望を抱いていたりするわけか。
ではそこで動作不良や誤作動がどうして生じてしまうのだろうか。
たぶん生じなければ物語となってしまい、
生じたら現実に引き戻されるのではないか。
思うように行かないだけではなく、
思いがけないことが起こり、
目的を見失い仕事を辞め、
気まぐれに放浪でもしてみようとするかもしれないが、
そこにとどまって朽ち果てるがままとなってしまうかもしれない。

何をやろうとしてもとりとめがなく、
うまくいく以前に精神の崩壊現象から抜け出られなくなって、
身も心も壊れたまま、
そこで死んでしまうかもしれず、
実際に死んでしまったら、
そこでおしまいとなってしまうのだろうか。
できれば死に至る前に、
廃人の段階程度にとどまりたいところかもしれないが、
動作不良や誤作動を改善しない限りは、
生きていくのに支障をきたしてしまうのだろうか。
それがどこから生じているのか、
原因を突き止めないことには改善など望むべくもなく、
たぶん原因がわからないまま、
あるいはわかっていても改める気が起こらないまま、
というか自らの力では
どうにもならない困難に直面しているのではないか。
人は自らの壊れた箇所を自ら修復できないのかもしれない。
自己治癒能力にも限界があり、
それを超えた故障には対応できないのだろう。
そうなると他人の助けを必要としているわけだが、
他人にも助けられない場合があり、
助けられない原因がその人にあるのか、
周りの状況にあるのか、
あるいはその両方が
彼を助けられない状況に追い込んでいるのか、
人にはいくらでもそんな事態に陥る危険性があるだろう。
そしてそれがその人の自己責任だとして放っておかれるのは、
傍観者的な視点からすればこんなに楽なことはない。
助けなくてもいいわけだから、
結果的に死ねば、
気の毒に思う程度で済ませられるだろうか。
たぶんそこから先があり、
自分がそのような状況に追い込まれたときに、
それも自己責任で招いた結果だとして
自らを納得させることができるか否か、
今ここで想像してみるわけにはいかず、
やはり思いがけずそんな事態に直面したときに、
その場で考えるしかないのではないか。
だから今がどうだというわけではなく、
今後もどうだというわけでもなく、
そんな現実があり、
その中で生きている現状があり、
何をやってもうまくいかなくても、
何もやる気がしなくても、
廃人であろうと常識人であろうと、
その人が自らの領分をわきまえ、
真面目かつひたむきに仕事に取り組み、
人として社会的・世間的に正常に動作しているように見えようと、
それらの人々の差異に言及して、
人としての価値に格差をつけたり優劣をつけてみても、
否定したり肯定してみても、
直接の利害が及ばない限りは
何がどうしたわけでもないのだろうが、
やはり直接の利害関係にあろうとなかろうと、
その場その時で否定したり肯定したりするだけで、
そう評価されたり判断されたりした人でも、
生きている限りはその先があるわけだ。
その先に変化したりそのままであったりする可能性がある。
その先の可能性がある限りは、
その人の評価を固定するわけにはいかず、
その人が死んだ後でも、
世の中の状況によっては、
その人の評価が変わってきたりするので、
絶えず保留する部分を残しておかないといけないのではないか。
もちろん人に対する評価などに、
ことさらにこだわらなくてもかまわないのであって、
その場その時で共感できる部分は肯定しておけばよく、
共感し難い部分については、
暫定的に否定しておけばいいのかもしれない。
そしてそんな批評家気取りになるほど、
世の中の物事や人物に精通している自信がなければ、
そんなことは無視しておいてもかまわない。

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創刊日:2001-03-26  
最終発行日:  
発行周期:不定期  
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